イラスト・佐竹政紀

緊張する東アジアの中でおきた政変

大化の改新とは645年から始まる一連の政治改革ですが、なんと暗殺から始まったのです。

当時、蘇我蝦夷と入鹿の親子は、天皇をしのぐほどの権力を持っていました。中大兄皇子と中臣鎌足は政治改革をするとき、蘇我氏親子が障害になると考えたのです。そこで、朝鮮半島からの使者をむかえる儀式の場で入鹿を殺すことにしました。

ところが式典の最中、暗殺を実行するはずの者が緊張のあまり動けなくなります。「まずい! 入鹿に気づかれる!」と思った中大兄皇子は、自ら飛び出して入鹿を殺しました。さらに皇子は、蝦夷の屋敷を兵で囲みます。それを知った蝦夷は屋敷に火を放ち、命を絶ちました。

蘇我氏をほろぼした中大兄皇子は、おじを孝徳天皇として即位させ、自分は皇太子となって政治の実権をにぎります。そして646年1月1日、天皇に改新の詔を出させました。改新の詔は「土地の私有を認めず、すべての土地を国家のものとする、新しい行政区分や税制度をもうける」といった内容で、これまでの政治とは大きく異なる方針でした。

鎌足と中大兄の出会い【河合敦先生の歴史のつぼ】

朝小プラスまなび

なぜこんなに強引に大規模な政治変革を行う必要があったのでしょう。

それは、当時の国際情勢を見るとわかります。

618年に誕生した唐は、中国全土を統一し、中央アジアも支配下におさめ、さらに朝鮮半島北部の高句麗をほろぼそうとしました。東アジアの国々が唐の脅威にさらされていたのです。

唐の侵略から国を守るためには、強くなる必要があります。唐は皇帝に強大な権力が集中し、法律に基づく国家でした。

そこで東アジアの国々も唐のしくみを取り入れました。朝鮮半島の百済ではクーデターが発生、国王に権力を集中させ、律令制度を整えました。新羅でも政変がおこり、唐に接近して国を守る政策を取りました。

大化の改新は、こうした国際環境の大きな変化の流れの中で、必然的に発生したできごとの一つだと考えられます。

歴史という学問は、できごとがおきた背景についても、しっかり考えることが大事なのです。

今日のポイント!

中大兄皇子と中臣鎌足は、強大な力を持つ蘇我氏をほろぼし、次々と政治改革を行います。

大化の改新の背景には、国内だけでなく、唐を中心とした東アジアの国際情勢が大きく関わっていたのです。

かわい・あつし

歴史作家。都立中高一貫校や私立中高の教諭を経て、多摩大学客員教授。多くの日本の歴史の本を書くかたわら、テレビ出演や講演活動もおこなう。

(朝日小学生新聞2014年5月8日付)