現代科学は、その原理・法則は、そこから導き出された結論(観察・実験結果)によって証明される(p.258)とのホイヘンスの言葉が、「科学の発見」以前の科学との違いを端的に表現している。ギリシャ哲学者たちは、なぜ自分の考えを観察や実験によって証明しようとしなかったのか、という疑問は当然だ。それは、科学ではなく「哲学」(ポエム)だったからだ。でも、現在でも外国では自然科学の博士号をPh D (哲学博士)という名前で呼んでいるのは、ギリシャ哲学への憧憬なのか。それほどアリストテレスなどギリシャ哲学の影響は大きいのか。でも、実験(観測)データを前にしてもプトレマイオスのように、誤った「哲学」を土台にしていると間違った結論を出してしまうことを本書は明快に教えてくれる。
著者のワインバーグは、電弱統一理論を作ったノーベル賞受賞者だが、「私の難解な理論を理解して神がこの世界を作ったとは到底思えない」とどっかに書いていたのを覚えている。なかなか謙虚な人だなと感心したものだった。著者は不遜でもなんでもなく、ただただ真実を知りたいというだけで生きているすばらしい人だと思う。本書は少し詳細に過ぎる記述が多いが、彼の古い著書『電子と原子核の発見 ―20世紀物理学を築いた人々―』は簡潔で教育的で以前から大好きでした。科学史家としても一流だと思う。

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科学の発見 単行本 – 2016/5/14
スティーヴン・ワインバーグ
(著),
赤根 洋子
(翻訳)
●本書は不遜な歴史書だ!
ギリシャの「科学」はポエムにすぎない。
物理こそ科学のさきがけであり、科学の中の科学である。
化学、生物学は物理学に数百年遅れていた。
数学は科学とは違う――。
1979年のノーベル物理学賞を受賞した著者が、
テキサス大学の教養課程の学部生にむけて行っていた講義のノートをもとに
綴られた本書は、欧米で科学者、歴史学者、哲学者をも巻きこんだ大論争の書となった。
「美しくあれかし」というイデアから論理を打ち立てたギリシャの時代の哲学が
いかに科学ではないか。アリストテレスやプラトンは、今日の基準からすればいかに
誤っていたか。容赦なく現代の科学者の目で過去を裁くことで、
「観察」「実験」「実証」をもとにした「科学」が成立するまでの歴史が姿を現す。
[目次]
はじめに 本書は不遜な歴史書だ
本書は学部の学生に、科学史を教えていた講義ノートから生まれた。
古代ギリシャのプラトンらの主張は今日の科学の眼から見ると何が「科学」
ではないのか? 私は現代の基準で過去を裁くという危険な領域に踏み込む
第一部 古代ギリシャの物理学
第一章 まず美しいことが優先された
世界はかくあれかし、ギリシャの哲人たちは思索した。原子論に似た
アイディアまで生まれたが、しかし、タレスらは、その理論が正しいかの実証
については興味がなかった。彼らは科学者というより「詩人」だったのだ
第二章 なぜ数学だったのか?
ギリシャではまず数学が生まれた。数学は観察・実験を必要としない。
思考上の組み立てのみで発展する。しかし、ここでも美しくあることが
優先され、ピタゴラス学派は「醜い」無理数の発見を秘密にし封印することに
第三章 アリストテレスは愚か者か?
アリストテレスの物理学とは、自然はまず目的があり、その目的のために
物理法則があるというものだった。物が落下するのは、その物質にとって
自然な場所がコスモスの中心だからだと考えた。観察と実証なき物理学
第四章 万物理論からの撤退
ギリシャ人が支配したエジプトでは、以後十七世紀まででも最高の知が
花開いた。万物を包括する理論の追究から撤退し、実用的技術に取り組んだ
ことが、アルキメデスの比重や円の面積などの傑出した成果を生んだのだ
第五章 キリスト教のせいだったのか?
ローマ帝国時代、自然研究は衰退した。学園アカデメイアは閉鎖され、
古代の知識は失われる。それはキリスト教の興隆のせいか? 議論はあるが、
ギボンは「聖職者は理性を不要とし、宗教信条で全て解決した」と述べた
第二部 古代ギリシャの天文学
第六章 実用が天文学を生んだ
古代エジプト人は、シリウス
ギリシャの「科学」はポエムにすぎない。
物理こそ科学のさきがけであり、科学の中の科学である。
化学、生物学は物理学に数百年遅れていた。
数学は科学とは違う――。
1979年のノーベル物理学賞を受賞した著者が、
テキサス大学の教養課程の学部生にむけて行っていた講義のノートをもとに
綴られた本書は、欧米で科学者、歴史学者、哲学者をも巻きこんだ大論争の書となった。
「美しくあれかし」というイデアから論理を打ち立てたギリシャの時代の哲学が
いかに科学ではないか。アリストテレスやプラトンは、今日の基準からすればいかに
誤っていたか。容赦なく現代の科学者の目で過去を裁くことで、
「観察」「実験」「実証」をもとにした「科学」が成立するまでの歴史が姿を現す。
[目次]
はじめに 本書は不遜な歴史書だ
本書は学部の学生に、科学史を教えていた講義ノートから生まれた。
古代ギリシャのプラトンらの主張は今日の科学の眼から見ると何が「科学」
ではないのか? 私は現代の基準で過去を裁くという危険な領域に踏み込む
第一部 古代ギリシャの物理学
第一章 まず美しいことが優先された
世界はかくあれかし、ギリシャの哲人たちは思索した。原子論に似た
アイディアまで生まれたが、しかし、タレスらは、その理論が正しいかの実証
については興味がなかった。彼らは科学者というより「詩人」だったのだ
第二章 なぜ数学だったのか?
ギリシャではまず数学が生まれた。数学は観察・実験を必要としない。
思考上の組み立てのみで発展する。しかし、ここでも美しくあることが
優先され、ピタゴラス学派は「醜い」無理数の発見を秘密にし封印することに
第三章 アリストテレスは愚か者か?
アリストテレスの物理学とは、自然はまず目的があり、その目的のために
物理法則があるというものだった。物が落下するのは、その物質にとって
自然な場所がコスモスの中心だからだと考えた。観察と実証なき物理学
第四章 万物理論からの撤退
ギリシャ人が支配したエジプトでは、以後十七世紀まででも最高の知が
花開いた。万物を包括する理論の追究から撤退し、実用的技術に取り組んだ
ことが、アルキメデスの比重や円の面積などの傑出した成果を生んだのだ
第五章 キリスト教のせいだったのか?
ローマ帝国時代、自然研究は衰退した。学園アカデメイアは閉鎖され、
古代の知識は失われる。それはキリスト教の興隆のせいか? 議論はあるが、
ギボンは「聖職者は理性を不要とし、宗教信条で全て解決した」と述べた
第二部 古代ギリシャの天文学
第六章 実用が天文学を生んだ
古代エジプト人は、シリウス
- 本の長さ432ページ
- 言語日本語
- 出版社文藝春秋
- 発売日2016/5/14
- 寸法13.8 x 2.8 x 19.6 cm
- ISBN-104163904573
- ISBN-13978-4163904573
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上位レビュー、対象国: 日本
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2024年1月20日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
ノーベル賞受賞の物理学者が書いた科学史。この本で著者は現代科学を「森羅万象を説明するために、数学的な公式と実験に裏付けられた客観的な法則を追い求める」学問と説明している。しかしこのような科学の目標と標準(スタンダード)は過去のいつの時点に出来上がったのか? それ以前の「科学」とはどのようなものだったのか? この本は黎明期から近代へと至る偉大な哲学者や科学者達を、現代科学のスタンダードに照らしぶった切りにする、ある意味「不遜な歴史書」。
実際にこの本には批判もある。それは、ウィッグ史観(ホイッグ史観)的ではないかというもの。成功を収めた現代科学とそれに抵抗した人々との戦いの物語として過去を記述しており、いわば成功者が自己を正当化するための創作だ、といったような批判があるようだ。
この批判が正当かどうかは、観測や実験結果による裏付けによって客観的な法則を求める、というスタンダード以外に「科学」がありえるのか? による。けどそれはほとんど科学の定義そのものなので、議論は堂々巡りになる。つまるところ科学とは何なのか? 人類は科学を発見(Discovery)したのか? それともそれは発明(Invention)と表現したほうが正確なのか? 著者は迷った末にこの本のタイトルに「発見」という表現を選んだ。それはつまり科学のありようを決めているのは人類ではなく自然である、という考え方だ。
ともかく、とうの科学者たちは「自らの方法で何かを見事に説明できたときに味わう喜び」を追い求めて、お互いに論争を繰り返し切磋琢磨しながら科学を発展させてきたのである。この本を読むとそれがよくわかる。そういう意味では、科学は人間の欲望に根差した極めて人間的な営みであり、その欲望をみたすために「発明」されたという見方もできるのかもしれない。
実際にこの本には批判もある。それは、ウィッグ史観(ホイッグ史観)的ではないかというもの。成功を収めた現代科学とそれに抵抗した人々との戦いの物語として過去を記述しており、いわば成功者が自己を正当化するための創作だ、といったような批判があるようだ。
この批判が正当かどうかは、観測や実験結果による裏付けによって客観的な法則を求める、というスタンダード以外に「科学」がありえるのか? による。けどそれはほとんど科学の定義そのものなので、議論は堂々巡りになる。つまるところ科学とは何なのか? 人類は科学を発見(Discovery)したのか? それともそれは発明(Invention)と表現したほうが正確なのか? 著者は迷った末にこの本のタイトルに「発見」という表現を選んだ。それはつまり科学のありようを決めているのは人類ではなく自然である、という考え方だ。
ともかく、とうの科学者たちは「自らの方法で何かを見事に説明できたときに味わう喜び」を追い求めて、お互いに論争を繰り返し切磋琢磨しながら科学を発展させてきたのである。この本を読むとそれがよくわかる。そういう意味では、科学は人間の欲望に根差した極めて人間的な営みであり、その欲望をみたすために「発明」されたという見方もできるのかもしれない。
2023年11月7日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
扉を開くと、真っ先に「ギリシャの「科学」はポエムに過ぎない。・・・化学、生物学は二等の科学だ。数学は科学ではない。」との、アマゾンの商品の説明に記されている文句が太字の書体で印刷されている。また、本書の「はじめに」の下に「本書は不遜な歴史書だ」との扇動的なサブタイトルが記されている。
以上の「」内の文は、原著にはない訳書にオリジナルに付け加えられたものである。さらに、各章の見出しの後に原著にない短い紹介文があるが、その内容は本書が煽動的な書物であることを無理に強調するものであり、加えて、本文中の小見出しも訳書に新たに付け加えられたもので必ずしも適切と思えないものもある。
原著は格調高い内容で、わかりやすく物理学の歴史をひもといている。上述した、和訳に付け加えられた短文は、原著の高貴さをゆがめているとしか思えない。煽動的な書物として紹介したいとの、出版社の都合があったのかもしれないが、このような追記があることを著者が知ったら、大いに幻滅することだろう。
とはいえ、不要な追記に目をつぶれば、わかりやすく丁寧に翻訳されている良書である。
追伸。
出版社さんへのお願いです。原著にある索引が訳書にはありません。索引を付けるのに手間がかかることは理解できますが、読者の利便性を考えてつけていただきたいです。
誰かが追記した小見出しの存在について、現著者は知っているのだろうか。修正テープで消したら読みやすくなった。本書が改訂されることがあるなら削除した方がよいと思う。
以上の「」内の文は、原著にはない訳書にオリジナルに付け加えられたものである。さらに、各章の見出しの後に原著にない短い紹介文があるが、その内容は本書が煽動的な書物であることを無理に強調するものであり、加えて、本文中の小見出しも訳書に新たに付け加えられたもので必ずしも適切と思えないものもある。
原著は格調高い内容で、わかりやすく物理学の歴史をひもといている。上述した、和訳に付け加えられた短文は、原著の高貴さをゆがめているとしか思えない。煽動的な書物として紹介したいとの、出版社の都合があったのかもしれないが、このような追記があることを著者が知ったら、大いに幻滅することだろう。
とはいえ、不要な追記に目をつぶれば、わかりやすく丁寧に翻訳されている良書である。
追伸。
出版社さんへのお願いです。原著にある索引が訳書にはありません。索引を付けるのに手間がかかることは理解できますが、読者の利便性を考えてつけていただきたいです。
誰かが追記した小見出しの存在について、現著者は知っているのだろうか。修正テープで消したら読みやすくなった。本書が改訂されることがあるなら削除した方がよいと思う。
2016年7月9日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
本書は大雑把に言えば科学史の本だが,従来の科学史とは一線を画している.
まず第一に,著者がスティーブン・ワインバーグだということだ.理工系の学生なら名前は聞いたことがあるだろう.簡単に言うと,地球を代表する物理学者である.第一線にいる物理学者が一般向けに現在の物理学を解説する例は近年増えているが,科学史となるとまだそうそうは例がない.ましてワインバーグのようなノーベル物理学賞受賞者による科学史の解説となると,他に例を思いつかない.
第二に,本書は現代の科学という視点から過去の科学を文字通りメッタ斬りにしていることだ.これは近代的な科学史の本には見られない特徴だ.ワインバーグは出だしから絶好調で,例えばみんなが大好きなギリシャ哲学(科学)について『ギリシャの「科学」はポエムにすぎない』と斬って捨てる.当時としては画期的とか,その後の人類に大きな影響を与えたとか,そんなエクスキューズは抜きだ.返す刀でガリレオまで斬ってしまう.
第三に,本書を通してワインバーグはずっと科学における「美」について語っていることだ.と言っても,科学における美を礼賛しているのではない.その逆だ.ワインバーグが解説する通り,近代科学は我々の美意識を捨てた時から始まっているのだ.天体は真円を描かない.理論は矛盾を含む.そして,自然は拷問にかけないと本当のことを言わない.
それでもワインバーグは自身の構築した標準モデルと呼ばれる理論を見つけた経緯について,ある種の美を基準としたと言う.本書では触れられていないが,その美とは見通しの良さ,あるいは対称性と呼んでも差し支えないと,僕は思う.
まだまだこの本を推薦する理由がある.例えばテクニカルな話題は巻末の「テクニカルノート」にまとめられている.理工系の大学を卒業していれば,テクニカルノートを読むことは難しくないだろう.テクニカルノートでは,昔の物理学者たちがどう考えたかが,現代の言葉(数学)で説明されている.
僕はこれほど一貫していて,これほど痛快な科学史を他に読んだことがない.それに,ワインバーグは本書の執筆にあたって非常に綿密な調査をしており,すでに科学史について通り一遍の知識を持っている読者をもうならせる内容になっている.
前提知識なしに本書を読むと,ワインバーグは科学史の専門家ではないかと思うほどである.副業でこれだけのことをされては,プロも真っ青ではないだろうか.とにかくワインバーグは,過去の物理学者たちが何を考えたのかを本当に理解したうえで書いているのだ.残念なことに晩節を汚す学者は多いものだが,ワインバーグはその逆である.
僕はKindle版を読んだが,そこかしこにハイライトを入れた.後でハイライト部分を読み返すのが楽しみである.
ぜひ科学を志す学生も,科学に興味のある社会人にも,読んでいただきたい.これだけの書籍が母国語で読める日本はやはり幸せだと思う.
まず第一に,著者がスティーブン・ワインバーグだということだ.理工系の学生なら名前は聞いたことがあるだろう.簡単に言うと,地球を代表する物理学者である.第一線にいる物理学者が一般向けに現在の物理学を解説する例は近年増えているが,科学史となるとまだそうそうは例がない.ましてワインバーグのようなノーベル物理学賞受賞者による科学史の解説となると,他に例を思いつかない.
第二に,本書は現代の科学という視点から過去の科学を文字通りメッタ斬りにしていることだ.これは近代的な科学史の本には見られない特徴だ.ワインバーグは出だしから絶好調で,例えばみんなが大好きなギリシャ哲学(科学)について『ギリシャの「科学」はポエムにすぎない』と斬って捨てる.当時としては画期的とか,その後の人類に大きな影響を与えたとか,そんなエクスキューズは抜きだ.返す刀でガリレオまで斬ってしまう.
第三に,本書を通してワインバーグはずっと科学における「美」について語っていることだ.と言っても,科学における美を礼賛しているのではない.その逆だ.ワインバーグが解説する通り,近代科学は我々の美意識を捨てた時から始まっているのだ.天体は真円を描かない.理論は矛盾を含む.そして,自然は拷問にかけないと本当のことを言わない.
それでもワインバーグは自身の構築した標準モデルと呼ばれる理論を見つけた経緯について,ある種の美を基準としたと言う.本書では触れられていないが,その美とは見通しの良さ,あるいは対称性と呼んでも差し支えないと,僕は思う.
まだまだこの本を推薦する理由がある.例えばテクニカルな話題は巻末の「テクニカルノート」にまとめられている.理工系の大学を卒業していれば,テクニカルノートを読むことは難しくないだろう.テクニカルノートでは,昔の物理学者たちがどう考えたかが,現代の言葉(数学)で説明されている.
僕はこれほど一貫していて,これほど痛快な科学史を他に読んだことがない.それに,ワインバーグは本書の執筆にあたって非常に綿密な調査をしており,すでに科学史について通り一遍の知識を持っている読者をもうならせる内容になっている.
前提知識なしに本書を読むと,ワインバーグは科学史の専門家ではないかと思うほどである.副業でこれだけのことをされては,プロも真っ青ではないだろうか.とにかくワインバーグは,過去の物理学者たちが何を考えたのかを本当に理解したうえで書いているのだ.残念なことに晩節を汚す学者は多いものだが,ワインバーグはその逆である.
僕はKindle版を読んだが,そこかしこにハイライトを入れた.後でハイライト部分を読み返すのが楽しみである.
ぜひ科学を志す学生も,科学に興味のある社会人にも,読んでいただきたい.これだけの書籍が母国語で読める日本はやはり幸せだと思う.
2016年7月30日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
ワインバーグは自然科学の歴史について、従来の歴史家や哲学者の視点ではなく、科学の歴史を良く研究した最先端の物理学者の立場から明快に語っており、この点は高く評価できる。このようなまっとうな説明を「不遜」という人がいるとすれば、その人は極端に西洋思想にとらわれているのだろう。
しかしながらワインバーグにおいても、なお西洋中心の理論の見方にとらわれている。
彼はまず数学について「自然とは何の関係もない理由で発明された数学が、物理理論に役立つのはなぜだろうか」との疑問を呈している。そして彼はその疑問を追及することなく、数学は科学のように自然の観察にもとづいたものではない、数学は科学理論の道具であると考えて、この本の説明を『ユークリッド原論』などの古代ギリシャ時代の数学から始めている。
主な古代文明において数学、幾何学の初歩が発見され用いられていたことは、多くの史実が証明している。この明白な事柄を隠蔽してきたのは、ワインバーグ自身が批判しているギリシャ哲学に他ならない。『ユークリッド原論』は、シンプルに発見され伝承されてきた数学、幾何学を「公理系」という「哲学」に落とし込んだ張本人なのである。この「数学の哲学」の最新バージョンが「集合論」である。
世界の各地でなぜ数学の初歩が発見されたか、私たちは初歩の数学をなぜ容易に習得できたかの回答は、私たちの数の習得方法を顧みると分かる。
私たちは石やミカンなどを並べて、その種類に関係なく1、2、3・・・、と繰り返し数えることで石やミカンに共通する数量の概念を教わる。さらに足し算や引き算を教わる。このような数量の性質は科学理論のようにものの観察にもとづいて得られる。だから誰でもが習得できる理論である。しかも数の性質は多種多様のものの性質によらないため、万国共通に得られる。
いったん習得できれば、数学はものの観察を必要としない。数学は純粋に数どうしの関係を表すため、定理なども厳密に証明できる。この点で数学は科学理論とは異なるが、科学理論と同じ土俵に立つゆえに、科学の道具として役立つ。
『ユークリッド原論』の公理系は座標幾何学により証明できる。さらに四則演算規則から得られる、実数軸と三次元の虚数軸から成る「四元数」によると、時間軸と三次元空間軸から成る「数学的時空間」が得られる。
数学的時空間はニュートンが用いたが、私たちの経験に一致していて科学的である。
科学についても主な古代文明において、農耕や暦の分野で今日の科学技術に相当するものが知られて利用されていたことが知られている。古代ギリシャ哲学や中世の神学は、むしろ近代科学の誕生を阻害したのではなかろうか。
「科学の発見」もこれらの「前科学」がなければ起こり得ないはずで、このことから説き起こしてほしいものである。
また、この本では、物理学以外の理論の科学性の説明があいまいである。これも、数学や物理学の「正しさ」の根拠が不明瞭のままだからだろう。
この点を、勝手に補おう。
数学や物理学はその説明を世界の誰もが納得して共有できるから「科学」といえる。これが科学の必要十分条件だろう。すると、他の分野の理論についても、説明に用いられたすべての言葉の意味が共有できて納得できれば「科学」と考えることができるだろう。
自然や人間については共通的な観察ができるゆえに、科学的な理論が成立する可能性がある。一方、神や存在という言葉は抽象的で観察しがたいので科学的な理論にはなり難い。
しかしながらワインバーグにおいても、なお西洋中心の理論の見方にとらわれている。
彼はまず数学について「自然とは何の関係もない理由で発明された数学が、物理理論に役立つのはなぜだろうか」との疑問を呈している。そして彼はその疑問を追及することなく、数学は科学のように自然の観察にもとづいたものではない、数学は科学理論の道具であると考えて、この本の説明を『ユークリッド原論』などの古代ギリシャ時代の数学から始めている。
主な古代文明において数学、幾何学の初歩が発見され用いられていたことは、多くの史実が証明している。この明白な事柄を隠蔽してきたのは、ワインバーグ自身が批判しているギリシャ哲学に他ならない。『ユークリッド原論』は、シンプルに発見され伝承されてきた数学、幾何学を「公理系」という「哲学」に落とし込んだ張本人なのである。この「数学の哲学」の最新バージョンが「集合論」である。
世界の各地でなぜ数学の初歩が発見されたか、私たちは初歩の数学をなぜ容易に習得できたかの回答は、私たちの数の習得方法を顧みると分かる。
私たちは石やミカンなどを並べて、その種類に関係なく1、2、3・・・、と繰り返し数えることで石やミカンに共通する数量の概念を教わる。さらに足し算や引き算を教わる。このような数量の性質は科学理論のようにものの観察にもとづいて得られる。だから誰でもが習得できる理論である。しかも数の性質は多種多様のものの性質によらないため、万国共通に得られる。
いったん習得できれば、数学はものの観察を必要としない。数学は純粋に数どうしの関係を表すため、定理なども厳密に証明できる。この点で数学は科学理論とは異なるが、科学理論と同じ土俵に立つゆえに、科学の道具として役立つ。
『ユークリッド原論』の公理系は座標幾何学により証明できる。さらに四則演算規則から得られる、実数軸と三次元の虚数軸から成る「四元数」によると、時間軸と三次元空間軸から成る「数学的時空間」が得られる。
数学的時空間はニュートンが用いたが、私たちの経験に一致していて科学的である。
科学についても主な古代文明において、農耕や暦の分野で今日の科学技術に相当するものが知られて利用されていたことが知られている。古代ギリシャ哲学や中世の神学は、むしろ近代科学の誕生を阻害したのではなかろうか。
「科学の発見」もこれらの「前科学」がなければ起こり得ないはずで、このことから説き起こしてほしいものである。
また、この本では、物理学以外の理論の科学性の説明があいまいである。これも、数学や物理学の「正しさ」の根拠が不明瞭のままだからだろう。
この点を、勝手に補おう。
数学や物理学はその説明を世界の誰もが納得して共有できるから「科学」といえる。これが科学の必要十分条件だろう。すると、他の分野の理論についても、説明に用いられたすべての言葉の意味が共有できて納得できれば「科学」と考えることができるだろう。
自然や人間については共通的な観察ができるゆえに、科学的な理論が成立する可能性がある。一方、神や存在という言葉は抽象的で観察しがたいので科学的な理論にはなり難い。
2022年9月19日に日本でレビュー済み
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科学の歴史=人間の思考の歴史?
と考えさせられました。
数学的な解析は少し抵抗ありますが、
内容は、面白いです。
と考えさせられました。
数学的な解析は少し抵抗ありますが、
内容は、面白いです。