フォイエルバッハはマルクス、フロイト、ニーチェなどの無神論者に直接、間接に
多大な影響を与えた方です。
しかし、当時の社会に受け入れられず、大学講師の職を失い、以後は著述家として
生計を立てます。1837年に陶磁器工場を経営する女性と結婚し、工場経営にも
生活の糧を求めています。
だが、1860年に妻の経営する工場が破綻して、経済事情が一気に悪化し、その後
1866年に「唯心論と唯物論」を発表するが、以後は病床に就き、貧困のうちに
ニュルンベルク近郊のレッヒェンベルクで逝去されています。
訳者の船山氏は福村出版刊「フォイエルバッハ全集」の同名書籍の解題において、
「当時はもちろんのこと今日に至るまで、キリスト教界は彼の批判に対して充分に
答えていない。マルクス、エンゲルスを初めその後のマルクス主義者たちでさえも
彼の批判を充分に汲み取っているとはいえない。」
と述べられています。
なお、本書は1937年に岩波文庫で発表され、1965年に改訳版が発行されました。
一方、1975年に福村出版刊「フォイエルバッハ全集」の第九巻、十巻として
「キリスト教の本質 上・下」が納められましたが、その際二度目の改訳が行われて
います。
岩波文庫は ”旧版” のままですが、岩波書店は改めて版を変えるまでもないと、判断
したのでしょうか?

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キリスト教の本質〈上〉 (1965年) (岩波文庫) 文庫
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トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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2020年12月22日に日本でレビュー済み
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2014年9月13日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
フォイエルバッハ氏の著作なので、読んでみたいと思いました。今後下巻と合わせて読んでいきたいと思います。
2013年3月27日に日本でレビュー済み
フォイエルバッハ著『キリスト教の本質』(上・下、岩波文庫)は画期的書物である。「神が人間を造ったのではない。人間が神を造ったのだ。」と断じている。上巻では神学の本質を人間学的に解明したものだが、下巻では神学の矛盾を情け容赦無く暴露している。唯物論の礎となる書物ではあるが、神学研究にとっても有益な書物である事は見逃せない。
2018年5月12日に日本でレビュー済み
マルクスに多大な影響を与えたとして有名なフォイエルバッハとこの書。
しかし、共産主義とは全く関係なく、共産思想なんて全く出てきません。
ここにあるのは、他のレビュー通り、
「人間学」
です。
そして人間の本質に対する人間の認識を
これほど鋭く描き出しているものは、
これ以外に一切、見たことがない。
日本語に訳された時期が古く、非常に読みにくいですが、
そのマイナスを大きく上回る内容がここにはあります。
上下ともに、一生に一度は読むべきものだと思います。
しかし、共産主義とは全く関係なく、共産思想なんて全く出てきません。
ここにあるのは、他のレビュー通り、
「人間学」
です。
そして人間の本質に対する人間の認識を
これほど鋭く描き出しているものは、
これ以外に一切、見たことがない。
日本語に訳された時期が古く、非常に読みにくいですが、
そのマイナスを大きく上回る内容がここにはあります。
上下ともに、一生に一度は読むべきものだと思います。
2004年4月1日に日本でレビュー済み
フォイエルバッハは言う。神の中には最も人間的なものがあり、我々の中には最も神的なものがある。神を信じることは我々自身を信じることに他ならない。神という対象に我々を措定すること。それが信仰に他ならない。また、神と神の子キリスト、精霊たる人間は相互に補完しあう存在であるとも言う。信仰に人間という視点を引き入れたフォイエルバッハのキリスト教観はマルクスに大きな影響を与えることとなった。
船山信一による本訳は完成してかなりの年月がたっており、読み易くはないが、意味は概ねとれる。フォイエルバッハを読む人は近頃そう多くはないだろうけれど、現代の碩学によるこなれた新訳の出現を期待したい。「唯心論と唯物論」も併せて読むべし。
船山信一による本訳は完成してかなりの年月がたっており、読み易くはないが、意味は概ねとれる。フォイエルバッハを読む人は近頃そう多くはないだろうけれど、現代の碩学によるこなれた新訳の出現を期待したい。「唯心論と唯物論」も併せて読むべし。
2012年2月1日に日本でレビュー済み
『究極の宗教とは何か』(佐藤進著、社会評論社)は、著者が工学博士という立場からキリスト教、イスラーム、仏教の共通点と相違点を研究したユニークな好著である。
この書の圧巻は、「人間が想像した神は、フォイエルバッハが言うように人間自身にほかならない。神の本性(本質)は人間の本性(本質)でしかない」という指摘である。
すなわち、神というものは人間が想像力によって創造したもので、尊敬に値する理想的な人間像が投影されたものに過ぎないというのだ。フォイエルバッハの透徹した眼は、キリスト教における神とはしょせん人間――ただし、傑出した人間――にほかならないということを見抜いたのである。
このようにキリスト教を鋭く批判して、当時のヨーロッパ社会に一大衝撃を与えたフォイエルバッハの思想の詳細は、『キリスト教の本質』(ルートヴィヒ・アンドレアス・フォイエルバッハ著、船山信一訳、岩波文庫、上・下巻。出版元品切れだが、amazonで入手可能)によって知ることができる。
この書の圧巻は、「人間が想像した神は、フォイエルバッハが言うように人間自身にほかならない。神の本性(本質)は人間の本性(本質)でしかない」という指摘である。
すなわち、神というものは人間が想像力によって創造したもので、尊敬に値する理想的な人間像が投影されたものに過ぎないというのだ。フォイエルバッハの透徹した眼は、キリスト教における神とはしょせん人間――ただし、傑出した人間――にほかならないということを見抜いたのである。
このようにキリスト教を鋭く批判して、当時のヨーロッパ社会に一大衝撃を与えたフォイエルバッハの思想の詳細は、『キリスト教の本質』(ルートヴィヒ・アンドレアス・フォイエルバッハ著、船山信一訳、岩波文庫、上・下巻。出版元品切れだが、amazonで入手可能)によって知ることができる。
2014年8月14日に日本でレビュー済み
「神が人をつくったのではない。人が神をつくりだしたのだ」という主張で知られている本。マルクスによる批判でも有名。
人が神をつくったとするフォイエルバッハの理論は、日本神道やギリシア神話の起源を説明するものとしては非常に有効である。アマテラスという女神は太陽を擬人化したものだ。農耕民族である古代日本人は、太陽の恵みしだいで農作物の出来不出来が左右されたから、太陽を主神としてあがめたということだろう。古代ギリシア人は、美の神や知性の神、商業の神や火の神などをつくり出し、そういう神々の力関係によって人間界の出来事が左右されると考えた。科学以前の思考様式しか知らない古代人がそういう世界観をもつのは、それなりに論理的ではある。日本人もギリシア人も、この世で起きることに関して納得させてくれるような体系がほしかった。よって、さまざまな神々によって説明したというわけである。
しかしながら、この理論では聖書の神ヤハウェを説明することはできないとわたしは思う。フォイエルバッハによれば、神とは人間の感情が投影されたものにすぎず、神を求める人間の願望が神の概念を生み出したとのこと。確かに、ヤハウェは旧約聖書だと怒ったり裁いたり罰したりしている箇所が多く、とても人間的に描かれている。新約聖書だとやや抽象的になり、愛と赦しが強調されるようになるが、これらとて人間的な感情だ。しかし、それは当然ではないだろうか。人間は神の似姿としてつくられた存在なのだから、コピー元である神に人間に似た要素があるのは自然なことだ。ただし、神の感情や思考は人知のおよばぬほど高度かつ完璧なものだということを、聖書は強調している。
聖書の神に人間と似ている点があるからといって、人間が神を考えだしたとするのは早計。神がおのれに似せて人間をつくったがゆえに似ていると考えることも可能だからだ。聖書は人間の理解力に合わせて神を人間のように描いているという神学理論もある。確かに正常な人間には神を求める感情が備わっているが、だからといってその感情が神をつくり出したとするのはやや短絡的だ。人が神を求めるのは、設計者である神によってそういう志向がプログラムされているからではないかという反論も成り立つ。
> 「単に我々が望むからといって何も存在する
> わけではない」というのはまったく正しい。
> しかし、「もし我々が望むならそのものは
> 存在できない」というのは正しくない。フォ
> イエルバッハの宗教批判と彼の無神論の証明は、
> この単純な議論と誤謬に基づいている。
> (E.ハルトマン『論理の歴史』より引用)
フォイエルバッハは目のつけどころは鋭いが、神の存在を否定する議論に論理的な飛躍が見られる。そういう点に留意して本書を読まれるとよいと思う。
人が神をつくったとするフォイエルバッハの理論は、日本神道やギリシア神話の起源を説明するものとしては非常に有効である。アマテラスという女神は太陽を擬人化したものだ。農耕民族である古代日本人は、太陽の恵みしだいで農作物の出来不出来が左右されたから、太陽を主神としてあがめたということだろう。古代ギリシア人は、美の神や知性の神、商業の神や火の神などをつくり出し、そういう神々の力関係によって人間界の出来事が左右されると考えた。科学以前の思考様式しか知らない古代人がそういう世界観をもつのは、それなりに論理的ではある。日本人もギリシア人も、この世で起きることに関して納得させてくれるような体系がほしかった。よって、さまざまな神々によって説明したというわけである。
しかしながら、この理論では聖書の神ヤハウェを説明することはできないとわたしは思う。フォイエルバッハによれば、神とは人間の感情が投影されたものにすぎず、神を求める人間の願望が神の概念を生み出したとのこと。確かに、ヤハウェは旧約聖書だと怒ったり裁いたり罰したりしている箇所が多く、とても人間的に描かれている。新約聖書だとやや抽象的になり、愛と赦しが強調されるようになるが、これらとて人間的な感情だ。しかし、それは当然ではないだろうか。人間は神の似姿としてつくられた存在なのだから、コピー元である神に人間に似た要素があるのは自然なことだ。ただし、神の感情や思考は人知のおよばぬほど高度かつ完璧なものだということを、聖書は強調している。
聖書の神に人間と似ている点があるからといって、人間が神を考えだしたとするのは早計。神がおのれに似せて人間をつくったがゆえに似ていると考えることも可能だからだ。聖書は人間の理解力に合わせて神を人間のように描いているという神学理論もある。確かに正常な人間には神を求める感情が備わっているが、だからといってその感情が神をつくり出したとするのはやや短絡的だ。人が神を求めるのは、設計者である神によってそういう志向がプログラムされているからではないかという反論も成り立つ。
> 「単に我々が望むからといって何も存在する
> わけではない」というのはまったく正しい。
> しかし、「もし我々が望むならそのものは
> 存在できない」というのは正しくない。フォ
> イエルバッハの宗教批判と彼の無神論の証明は、
> この単純な議論と誤謬に基づいている。
> (E.ハルトマン『論理の歴史』より引用)
フォイエルバッハは目のつけどころは鋭いが、神の存在を否定する議論に論理的な飛躍が見られる。そういう点に留意して本書を読まれるとよいと思う。
2009年6月4日に日本でレビュー済み
1840年に発表された、フォイエルバッハの主著の一つと目されている著作。従来の神学と、ヘーゲルを頂点とする思弁哲学を批判することを通じて自身の「人間学」の内実を詳細に証し立てていく。
議論の始めとしてはまず人間の本質を定義し、それは認識と意志と愛だという。ここで大事なのは、その人間の本質は人々が共に生きている状態、個体としての人間ではなく類、人類として生きている状態の下で初めて意識され、育っていくということだ。特定の相手と向き合って生きていく中で認識は鍛えられ、意志は強くなり、愛は深まっていくという。この部分を読み進めていくと、何か強烈に励まされていくのを感じる。
その後に宗教についての本質を探っていくのだが、著者は、宗教の本質とは類的存在としての人間の本質に他ならないという。人間が考えられる限りの、意欲できる限りの、愛について求められる限りの人間の卓越性が神として表象しているのだという。このあたりの発想は、自然的自由を一点に集めることで主権を形成したという社会契約の仕組みとダブって見える。この部分は上巻全体で繰り返される論法で、神に強い卓越性を与えれば与えるだけ、人間の類的本質は弱まっていくのだという。その後、神学を体系化する人々が神の卓越性を人間とは関わりのないものとして糊塗し、神の超越性を神秘的に語り、信仰者を世界無視、他人無視の方向に導いたということが、キリスト教の具体的教義に即して論じられる。
この著作を通過することで、デカルト・カント・ヘーゲル、後にはキルケゴール・ニーチェ・ヤスパース等々、哲学者が神を論じている部分が理解しやすくなるのではないかと思う。「人間が神を作った」という言葉の意味がここでは縦横に展開しているし、ニーチェが言った「神は死んだ」という言葉も、人間の類的本質、及びその契機となる、共に生きて強くなれる関わり合いが失われたこととして理解できるし、その時期が国民国家体制の無効化と、国家・社会との結びつきを失った「大衆」の出現の時期と繋がっていることなども思い浮かべると、著者の論述は様々な現象を理解する鍵になっていると思う。フォイエルバッハ本人の構想する「人間学」も、これを信頼して生きていけたら素晴らしいと思える、人々への優しさに満ちている。フォイエルバッハの思想に出会えて幸せだと思える一冊。
議論の始めとしてはまず人間の本質を定義し、それは認識と意志と愛だという。ここで大事なのは、その人間の本質は人々が共に生きている状態、個体としての人間ではなく類、人類として生きている状態の下で初めて意識され、育っていくということだ。特定の相手と向き合って生きていく中で認識は鍛えられ、意志は強くなり、愛は深まっていくという。この部分を読み進めていくと、何か強烈に励まされていくのを感じる。
その後に宗教についての本質を探っていくのだが、著者は、宗教の本質とは類的存在としての人間の本質に他ならないという。人間が考えられる限りの、意欲できる限りの、愛について求められる限りの人間の卓越性が神として表象しているのだという。このあたりの発想は、自然的自由を一点に集めることで主権を形成したという社会契約の仕組みとダブって見える。この部分は上巻全体で繰り返される論法で、神に強い卓越性を与えれば与えるだけ、人間の類的本質は弱まっていくのだという。その後、神学を体系化する人々が神の卓越性を人間とは関わりのないものとして糊塗し、神の超越性を神秘的に語り、信仰者を世界無視、他人無視の方向に導いたということが、キリスト教の具体的教義に即して論じられる。
この著作を通過することで、デカルト・カント・ヘーゲル、後にはキルケゴール・ニーチェ・ヤスパース等々、哲学者が神を論じている部分が理解しやすくなるのではないかと思う。「人間が神を作った」という言葉の意味がここでは縦横に展開しているし、ニーチェが言った「神は死んだ」という言葉も、人間の類的本質、及びその契機となる、共に生きて強くなれる関わり合いが失われたこととして理解できるし、その時期が国民国家体制の無効化と、国家・社会との結びつきを失った「大衆」の出現の時期と繋がっていることなども思い浮かべると、著者の論述は様々な現象を理解する鍵になっていると思う。フォイエルバッハ本人の構想する「人間学」も、これを信頼して生きていけたら素晴らしいと思える、人々への優しさに満ちている。フォイエルバッハの思想に出会えて幸せだと思える一冊。