バーニング社長・周防郁雄氏が初めて語る「芸能界と私」

あの「移籍騒動」からサザンのことまで
田崎 健太 プロフィール

郷ひろみは'72年1月、NHK大河ドラマ『新・平家物語』で平清盛の弟、経盛役で俳優デビュー、8月に『男の子女の子』で歌手デビューした。翌'73年には紅白歌合戦に出場している。ジャニーズ事務所社長のジャニー喜多川が手塩にかけて育てたタレントだった。

ところが――。

郷は'75年3月の契約終了をもってジャニーズ事務所からバーニングプロダクションに移籍した。バーニングにはすでに南沙織なども所属していたが、絶大な人気を誇る郷ひろみの加入が、成長の大きな弾みとなった。そのため、郷ひろみをジャニーズ事務所から周防が「強奪した」というのが定説となっている。

周防はこう明かした。

「郷ひろみが人気が出たあと、ジャニーさんとトラブルになったらしい。彼がどんな経緯で辞めたのかはよく知りませんが、ぼくは当時、松竹芸能とある大手プロダクションが彼のマネージメントを引き受けることになった、と耳にしたんです。

しかし、いろいろと調べてみたところ、どうもその情報は間違っていて、移籍先はまだ決まっていなかったらしい。ぼくとしても、郷ひろみはぜひうちでやりたい、という思いがありました」

メリー喜多川と話したこと

そこで、渡辺プロダクションの渡辺晋社長と、田辺エージェンシーの田邊昭知社長が仲介役となって、周防はジャニーズ事務所のメリー喜多川副社長と話し合うことになった。場所は渡辺の自宅だった。

「(渡辺の妻の)美佐さんに、メリーさんを呼んでもらいました。そこで『メリーさん、私に(郷ひろみを)やらせてください』と頼んだら『いいわよ』と言ってくれた。ですから、ぼくはジャニーズ事務所とは全く揉めていないんです」

周防は「この話をするのは、これが初めてです」と付け加えた。

 

同じ年には、演歌歌手の細川たかしもバーニングからデビューした。

「知り合いが『北海道のナイトクラブにすごく歌の上手い子がいるから、どうですか』という話を持ってきた。それで東京に来てもらい、スタジオで歌ってもらったんです。同席したレコード会社の人も彼の歌を気に入って、すぐにデビューさせましょうという話になった」

その翌々年には、高田みづえがデビュー。彼女を見つけたのは、日曜日の朝のテレビだった。

「『目ン無い千鳥』という昔の歌を、彼女がフジテレビの『君こそスターだ!』で歌っていたんです。それを聞いてぼくは飛び起きた。すぐフジの人に電話すると、『もう所属事務所は決まっている』と言うので、『譲ってくれませんか』と頼みに行った。そして(彼女の住んでいた)鹿児島まで行き、スカウトしたんですよ」

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