NHK高校講座

日本史

Eテレ 毎週 金曜日 午後2:00〜2:20
※この番組は、前年度の再放送です。

  • 高校講座HOME
  • >> 日本史
  • >> 第33回 第4章 近代国家の形成と国民文化の発展 大正デモクラシー

日本史

Eテレ 毎週 金曜日 午後2:00〜2:20
※この番組は、前年度の再放送です。

今回の学習

第33回 第4章 近代国家の形成と国民文化の発展

大正デモクラシー

  • 監修講師:創価大学教授 季武嘉也
学習ポイント学習ポイント

大正デモクラシー

歴史を語り合う茶屋、歴カフェ。
日本史が大好きな店員、小日向えりさんのもと、歴史好きの平野詩乃さん、市瀬悠也さんが集まってきました。

今回の時代は20世紀前半の大正時代。
日露戦争のあと、国民は政治について声を上げるようになります。
人民の幸せのために政治は行われるべきだと主張し、さまざまな運動が沸き起こりました。
大正デモクラシーです。
この動きが、政治に大きな転換をもたらします。
今回のテーマに迫る3つのポイントは「第一次護憲運動」「第一次世界大戦の影響」「原内閣の成立」
大正デモクラシーは、どのように発展していったのでしょうか。

えり 「今回の舞台は1912年からの大正時代です。そこで起こったのが、大正デモクラシー。『デモクラシー』とは『民主主義』のことです。そのきっかけになったのが“一等国(いっとうこく)”という国民の意識でした。」

詩乃 「一等国ってなんだろう?」

悠也 「この時代だから、日露戦争とかに関係ありそうじゃない?」

えり「日露戦争でロシアに勝ったこと、それは列強の仲間入りをしたということで、これが国民に一等国の意識を作りました。」

「また、大正デモクラシーの背景には就学率の伸びがありました。
1872年に学制が公布されて、それから35年後の1907年には義務教育の就学率が97%を超えています。中等教育や女子教育も急速に普及して、多くの卒業生を出しました。」

詩乃 「日本の国民の教育水準が上がったってことだね。」

えり 「そして国民は『一等国にふさわしい政治を行うべきだ』と、政府に対して声を上げるようになっていったんです。
国民は憲法に基づく政治を求めたんです。特に憲法に規定されている、『議会を尊重しなければならない』という主張なんです。」

第一次護憲運動

1912年、明治天皇が崩御し、元号は大正に変わります。
その直後に成立した内閣の総理大臣は、長州藩出身の陸軍大将だった「桂太郎(かつらたろう)」でした。

桂の背後にいたのが「元老(げんろう)」・山県有朋(やまがたありとも)です。
元老とは政治の第一線から退いたあとも影響力を持つ人たちで、薩摩・長州の実力者たちです。
天皇の最高顧問ですが、非公式なものでした。
中でも山県は、貴族院、官僚、軍部などに強い影響力を持っていました。
これが藩閥(はんばつ)です。
自分の言いなりになる人物を総理大臣に就かせ、政治を独占していたのです。

桂内閣の閣僚を見てみると、半数が長州や薩摩の出身者で占められています。
これでは憲法に規定されている「議会を尊重する政治」が行われていない、と批判する声がありました。
こうした藩閥・官僚に対抗できる唯一の勢力として期待されたのが、政党です。
中でも最大の勢力を持っていたのが立憲政友会(りっけんせいゆうかい)でした。

憲法に基づく政治を行うべきだとして、立憲政友会の尾崎行雄(おざきゆきお)は、立憲国民党の犬養毅(いぬかいつよし)と共に、「憲政擁護(けんせいようご)・閥族打破(ばつぞくだは)」のスローガンを掲げ、「第一次護憲(ごけん)運動」を始めます。
これによって藩閥ではなく、政党が政治を主導する政党政治の実現を目指しました。
運動は全国に広がり、集会は押し寄せた群衆で満員になりました。

桂内閣は元老・山県有朋と共に、即位したばかりの(大正)天皇の権限を利用して政治を私物化していると批判を浴びます。
大日本帝国憲法では、天皇が議会の召集や停会、解散の権限を持っていました。
天皇の命令が「詔勅(しょうちょく)」です。
桂は、議会の流れが反対勢力に有利な方に向かうと詔勅を使い、何度も議会を停会させたのです。

尾崎らによって、桂内閣に対する不信任決議案が提出されます。
しかし、桂はまたも詔勅による議会の停会で対応します。
これに対し、数万の群衆が衆議院を取り囲み、警官と衝突しました。
騒動は全国に広がり、桂内閣は退陣に追い込まれます。
これが「大正政変」です。

これで藩閥政治が終わると思いきや、次の総理大臣は「山本権兵衛(やまもとごんべえ)」が就任。
薩摩出身の海軍大将でした。
藩閥政治は変わることなく継続したのです。

詩乃 「大正時代になっても、薩長の影響って残っていたんだね。」

悠也 「このころって、今と違って総理大臣は元老が決めていたんだね。」

えり 「改めて、当時の総理大臣がどんなふうに決められていたのか見てみましょう。
当時の憲法は、大日本帝国憲法でした。主権は天皇にありました。だから、内閣総理大臣も天皇が任命します。天皇さえ気に入れば、誰を総理大臣に任命してもいいんです。」

悠也 「じゃあ、えりさんでもなれたってことですか?」

えり 「もし天皇に気に入られて任命されたら、私も首相になっちゃうわけです。でも、私がもしなったら、とても総理大臣としてのお仕事はできないよね。」

「そこで、登場するのが元老です。天皇が政治の実情に精通した元老に、誰を総理大臣にすればいいのか相談する習慣がありました。事実上、その元老が総理大臣を決めていたんです。」

悠也 「今は、国民が選挙で選んだ国会議員が総理大臣を決めているよね。」

詩乃 「じゃあ藩閥政治をやめて、今みたいな政党政治にしようとするのが、第一次護憲運動ってことか。」

えり 「ご明察!憲法に規定された『議会を尊重しなければならない』という政治を行うために始まったのが、第一次護憲運動なんです。
第一次護憲運動が始まったころ、世界では大きな出来事が起こります。」

1914年、オーストリア・ハンガリーがセルビアに宣戦したことをきっかけに、ヨーロッパのほとんどの国が連合国と同盟国に分かれて戦う、「第一次世界大戦」へと拡大しました。
イギリス、フランス、ドイツ、ロシアなどの列強が参戦し、ヨーロッパ中が戦場になります。
日本は1902年に結んだ「日英同盟」に基づいて、イギリス・フランスなどの連合国側に加わり、ドイツに宣戦を布告します。
そして、ドイツの東アジアにおける根拠地の中国・山東省(さんとうしょう)、青島(チンタオ)に軍隊を送り、ドイツと交戦。
戦いに勝利し、青島を占領しました。

大戦でヨーロッパ列強の勢力が後退したのを機に、中国での権益の拡大をはかりたい日本は、「二十一か条の要求」を中国に示します。
これによって日本は、「山東省のドイツ権益の継承」「旅順・大連の租借期間の延長」「中国最大の製鉄会社の共同経営権」などを中国に承認させました。

悠也 「第一次世界大戦の結果ってどうなったんだろうね?」

えり 「1918年、イギリス、フランスなどの連合国側の勝利に終わります。」

詩乃 「日本は連合国側で参戦したから戦勝国になったんだね。」

悠也 「ということは、日清、日露、そして第一次世界大戦も勝って、ずっと勝ち続けているね。」

えり 「実は、この第一次世界大戦が、大正デモクラシーの追い風になっていくんです。」

第一次世界大戦の影響

第一次世界大戦で主な戦場となったヨーロッパの各国は、国のすべての資源や労働力を戦争につぎこむ、「総力戦体制」が敷かれました。
その結果、民主主義的な要求が高まり、世界では多くの改革が実現します。

イギリスでは女性の参政権運動が実を結び、30才以上の女性戸主(こしゅ)、または男性戸主の妻に参政権が与えられます。
ロシアでは、総力戦の影響によって街から生活物資が消えたため、食料配給の改善を求めた労働者のストライキが起こり、「ロシア革命」へと発展。
世界初の社会主義国家、ソヴィエト政権が成立しました。

日本でも民衆が声を上げます。
さまざまな団体が各地で結成され、労働運動などが活発化しました。
そうした運動に大きな役割を果たしたのが、東京帝国大学教授・「吉野作造(よしのさくぞう)」の唱える「民本(みんぽん)主義」の理論です。
吉野は「主権者が誰であれ 人民の幸せのために政治は行われなければならない」、と唱えます。
吉野はまた、「普通選挙によって民意を政治に反映すべきだ」と主張しました。
当時の選挙は、有権者が満25歳以上の男性で、10円以上の直接国税納税者に限られた制限選挙でした。
普通選挙を求める運動は、全国に広がっていきました。

詩乃 「吉野作造が主張した『人民の幸せのために政治は行われなければならない』って、今なら普通のことだよね。」

悠也 「でも、こういう声って、このころから強くなっていったんだね。」

えり 「吉野の主張を後押しに、社会では改革を目指す、さまざまな運動が巻き起こったんです。そして、大正デモクラシーは、政党政治と普通選挙の実現に向けて、動きが活発になります。」

原内閣の成立

このころ、大陸での権益拡大を狙った日本は、シベリアに軍隊を送りました。
「シベリア出兵」です。
アメリカ・イギリスなどもロシア革命の影響を恐れて出兵しました。

「シベリアに出兵した軍隊への補給で米がなくなるのでは」と考えた人々が米を大量に買ったため、米価は急上昇しました。
富山では、米の値上がりから生活に困った主婦たち700人近くが、米商人を相手に抗議を行います。
この騒動は、新聞などによって全国に飛び火し、暴動化。
「米騒動」に発展します。

時の総理大臣は寺内正毅(てらうちまさたけ)。
長州出身で、元老・山県有朋の推薦による藩閥内閣でした。
寺内は全国に軍隊を派遣し、鎮圧にあたります。
この鎮圧で、山口では10人以上の死者を出し、逮捕者は全国で2万5,000人以上にのぼりました。
それでも騒動は収束せず、その規模は全国で70万人以上に拡大しました。

事態を重く見た政府内から、寺内の退陣を求める声が上がり、内閣は総辞職しました。
「次の総理大臣は誰か?」日本中が見守る中、総理に就任したのが衆議院議員の「原敬(はらたかし)」です。
米騒動に衝撃を受けた元老らによる推薦でした。
原は衆議院で最大議席数を確保していた立憲政友会の総裁です。

それまで藩閥や軍人などで占められていた日本の総理大臣の座に、初めて選挙で選ばれた政党政治家が就くことになったのです。
国民は原総理に大きな期待を寄せました。
原は、陸軍・海軍・外務の3大臣以外をすべて立憲政友会党員で組織します。
初めての本格的な政党内閣が成立しました。

原内閣は産業の奨励(しょうれい)や高等教育機関の拡充(かくじゅう)などを行います。
また大規模な鉄道敷設計画を実行し、地方を中心とした交通網の整備を進めました。
しかし、普通選挙の要求には時期尚早(しょうそう)として反対の態度を取りました。

詩乃 「ついに政党内閣、政党政治が実現したんだね。」

悠也 「でも普通選挙は実現しないんだね。」

えり 「そうなんです。普通選挙が実現するのは原内閣成立から7年後のことです。」

悠也 「じゃあ、もうちょっと先だね。」

詩乃 「それにしても民主主義への大きな一歩を踏み出したって感じだよね。」

日本史なるほど・おた話〜スペインかぜの影響

今回は季武嘉也先生に伺います。

季武先生 「今回は、第一次世界大戦の影響によって世界中にデモクラシーの風が吹いたという話をしましたけど、実は別の“かぜ”も世界中に吹いていたという話なんです。」

詩乃 「どんな“かぜ”が吹いたんですか?」

季武先生 「実は日本で“スペインかぜ”と呼ばれるインフルエンザなんです。」

悠也 「“かぜ”って言ってたけど、そういうことだったんだね。」

季武先生 「(当時の)アメリカ軍の病院の様子なんですが、患者は戦争で負傷したのではなく、みんなスペインかぜの患者だったんです。」

悠也 「それだけ流行してたんだね。」

季武先生 「スペインかぜは、第一次世界大戦終盤の1918年から翌年の1919年にかけて世界的に流行した、A型インフルエンザだったんです。
スペインかぜでは全世界でおよそ4,000万人の方が亡くなったといわれています。第一次世界大戦の戦死者は、兵隊や民間人を合わせておよそ1,000万人ですから、その4倍もの人が亡くなっていたんですね。」

悠也 「今だと治る病気のイメージだけど、このころってなかなかそうはいかなかったんだね。」

詩乃 「スペインかぜってことは、スペインからきたんですか?」

季武先生 「スペインかぜと言われていますが、元々はアメリカで発生しました。
日本には情報がスペイン経由で入ってきたために、スペインかぜと呼ばれるようになったのです。」

詩乃 「なんで世界中で、はやることになっちゃったんですか?」

季武先生 「1918年の春に流行したインフルエンザの伝ぱ状況を調べたものです。(アメリカで)インフルエンザにかかった兵士が戦争に参加するためにヨーロッパに渡りました。そして1か月後にはヨーロッパで流行しました。5ヶ月で、実は世界一周しました。」

詩乃 「すごいスピードですね!」

スペインかぜは日本にも大きな被害をもたらしました。
政府はスペインかぜの予防として、外では必ずマスクをすること、たびたびうがいをすること、人の多いところには立ち入らない、病人には近づかない、などを呼びかけましたが効果があがりません。
当時の内務省衛生局の報告書には、患者総数2,300万人、死亡者39万人に達したと記されています。
当時の新聞記事は、死亡者があまりに多かったため、火葬場で焼けず、地方に輸送することが増え、駅に死体が積み重なったと伝えています。

詩乃 「日本でも悲惨な状況だったんだね。」

季武先生 「スペインかぜは、その伝ぱの速さから、当時の世界が急速に接近し、一体化が進んだことを表しています。
そして、このような人類共通の問題を解決するために国際協力が必要になってきました。そういうグローバルな視点が必要な時代に入っていったんです。」


それでは、次回もお楽しみに!

科目トップへ

制作・著作/NHK (Japan Broadcasting Corp.) このページに掲載の文章・写真および
動画の無断転載を禁じます。このページは受信料で制作しています。
NHKにおける個人情報保護について | NHK著作権保護 | NHKインターネットサービス利用規約