『サウンド・オブ・ミュージック』製作50周年記念吹替版 インタビュー  歌唱シーン演出 市之瀬洋一/聞き手:とり・みき

──まずは生年月日と出身地を教えていただけますか?

1953年7月11日生まれ、出身は鹿児島県。大学は東京芸術大学なんですが、高校は鹿児島県立甲南高等学校というところです。

──鹿児島市内ですよね?

そうです。自慢しますとね(笑)、薩摩藩の藩校「造士館」の流れを汲む高校で今回ノーベル賞物理学賞を獲った赤崎勇さんは先輩なんです。

──お生まれも鹿児島市内ですか?

違います。特攻基地のあった川辺郡(現在南九州市)というところです。基地のあったのは川辺郡知覧町ですが、僕のところは川辺郡川辺町。基地から車で10分くらいのところです。幼稚園までそこにいましたが、祖父の遺言の「子供には教育を」というのを父親が守ったのか、本人が都会に出たかったのかは分からないですが(笑)、小学校に上がる時、まず当時人口5万人くらいだった加世田市(現南さつま市)というところに出ました。その後小学校4年からは鹿児島市内です。

── どんなお子さんでしたか? 上京されたのは芸大に入られた時ですよね。元々音楽志望だったんでしょうか?

元々は文系・理系に分けるとすれば頭は理系だったので、出来れば九州大学の工学部に行きたいと思っていました。ところが僕は色弱だったので、高校の先生に「理科系は学部によっては入れない」と言われて悩んでいるうちに音楽と出会って・・・というより、小中学校の時からずっと合唱部に在籍していて、高校時代の合唱部の先輩が芸大に入ったので、「僕も芸大に行こうかな」と高校2年くらいの時に考えて。それで目指したという次第です。

──ずっと合唱部だったということは、歌を歌うのは好きだったんですね。

はい、歌うのは得意だったと思います。ただ専門的な教育は受けていなかったので大変でした。当時はピアノも一切弾けませんでしたし(3ヶ月でバイエルを終え、バッハのインベンションにいきなり突入みたいな感じでした)、1、2学期の試験である程度点数を取り3学期は受験に必要ない授業時間はもっぱら楽典という音楽理論みたいなものを勉強していました。(市之瀬は音大を受けると言うのが知れ渡っていたので先生方も公認でした)
中でも一番不得意なのは「聴音」と「視唱」でした。「聴音」と言うのは試験官がピアノで弾いた旋律や和音を書き取る作業で「視唱」はその場で渡された譜面を初見で歌うと言うものです。皮肉にも今はその聴音力と視唱力で仕事をしてます。

結果的に、1浪してしまいましたが、当時、歌を習っていた先生からは「芸大行くなら2浪くらいしたほうがいい」と言われていたんです。後から先生のおっしゃった意味がよく分かるんですが、でも当時は早く行きたいですよね、できれば現役で(笑)。ところが、実際に入ってみたら、周りには年上のおじさんとおばさんがいっぱいいるじゃないですか。そうなると、あの世代の2~3歳の差というのが大きくて、やはり子供なんですよ、精神も身体も。置いていかれる感じはちょっとありましたけれど、後になって苦しい1浪時代が何かと効いてくるというか、精神的な強さに繋がってくるんです。長い人生順風満帆で行くよりは、そういう挫折があってもいいなと、今はそういう思いがありますね。

──合唱部に入られたのは、お家がやはりそういう音楽的な環境だったからでしょうか?

いえ、全然関係ないです。ウチの親父は公務員ですし、たまたま僕の入った小学校が県で1~2位を争うような合唱部だったんです。先生がクラス毎に歌わせて上手いヤツをピックアップして、入部を勧めるんですよ(笑)。それで口説かれて入ったのが、音楽を始めるきっかけだったんでしょうね。そのまま中学校に行って、サッカー部かバスケット部に入ろうと思ってたのが、また音楽部の先生が来て強引に連れて行かれてという感じで。(中学校時代の恩師は未だに〜私が誘ったばっかりに〜中略〜あなたのお父さんに申し訳ない〜とおっしゃいます〜芸大受験の際先生はレッスン料無しでピアノを教えてくださいました!いつも感謝しています)高校時代もなんとなく・・・本当になんとなくですね。合唱部は特に男性が足りないので、しつこく勧誘を受けるんです(笑)。

──芸大で声楽を学ばれた後、卒業後はクラッシック方面に進まれたんですか?

1年間だけ高校の先生をしていました。和光学園というところです。当時、丸木正臣先生と言う立派な方が校長をされていていろんな意味で勉強になりました。東京の片隅で先生をしながら生計を立てていたんですが、学校の先生というのはとにかく授業で声を消耗するんですね。授業が終わった後に歌の練習なんかできなかったですね。中にはそれでもやっている凄い人もいるんですが僕はダメでした。悩んだ末「このまま先生をするなら故郷に帰ろう」と思いました。芸大を出て九州に帰れば、それなりの仕事はありましたから。東京にいるのは歌うため、そのための場所でしたから、歌わなければこっちにいる意味はない、どんな貧乏してもいいから歌おうと思い、1年で先生を辞めちゃったんです。

──そこから、ポピュラー・ソングのお仕事をされるようになった経緯を教えてください。

ルーツを辿れば大学3~4年生の時に、みなさんもご存知の「8時だョ!全員集合」(ザ・ドリフターズ出演の人気バラエティ。1969年から85年にかけてTBS系列で放送)に合唱隊のコーナーがありまして、そこで学生のアルバイトとして歌っていたんですね。足掛け3年くらい。仕送りが当時2万円だった当時、1日行けば7千円もらえる。しかも弁当2食が付いて、有名なタレントさんにも会える。さらに故郷の両親に(画面を通じて)無事を伝えられると(笑)。もの凄く良いことずくめなことをやってたんですが、高校の先生を辞めた時に1度そこに帰ったんですね。

以前に依頼を受けていた先輩を頼って、それからテレビの番組やスタジオの仕事を少しずつやるようになりました。それでも一番に目指すのはオペラ歌手でしたから、発声的にはオペラの勉強しながら、仕事ではポップスをやるという感じでした。でもなんだかんだ言って、25歳過ぎても全然ダメでした。僕が27歳の時に、おふくろが死んじゃったんです。その時に今後の方向性をもっときっちりしないといけないと思い、明くる年に女房と結婚して、まあ身を固めるというか。(プロポーズの言葉は「葬式に出てくれる?」でした)その後、30歳になって二期会というオペラ団体に研究生から入り、もう1回勉強することにしました。3年間勉強して、二期会でチョイ役をもらって歌っていましたが、でも、やっぱり食えないですよね。食えないので相変わらずスタジオでなんだかんだやりながら、そうこうして40歳前になった時、二期会の大きなオーディションに受かって(レナード・)バーンスタイン作品の役をもらったんですよ。同時に40歳(1993年)でスタジオ仕事の会社を立ち上げたんですが、こちらでは通信カラオケのコーラス音源を作る仕事を・・・あ、説明しないといけないですね、カラオケにも色んな時代の変遷があるじゃないですか。8トラックのカートリッジの時代からレーザーディスクになり、最終的に今の形になるんですが、これを全部デジタル化するというので、過去の曲からさかのぼり、通信カラオケのカタログに全部入れていく。5万曲という大きなパイを早い者勝ちでみんなが崩す作業が始まったんですよ。その時に僕は会社を立ち上げたので、「一応法人になっていますよね? こういうコーラスの仕事があるんですが、やってもらえないですか?」と誘われて引き受けたんです。

 オペラを取るか、カラオケを取るか、ある意味人生の岐路だったと思います。オペラは3ヵ月間練習してトータルで10何万円行くか行かないか。カラオケはひと月に5~6百万円という額で。なら、普通カラオケを取るでしょう(笑)。20代だったら分からないですけど、もう40歳でしたから割り切っていたんです。とりあえず仕事を請けてからは死に物狂いでそのパイを崩しました。原曲を全部聴き取って、譜面取りをして、それに合った歌手を集めてドンドン録音していくんです。そういう作業を数年間やりました。ものすごく聴音力は鍛えられました。スタジオの時代からクラシック〜ポップスまでいろんなジャンルの歌を歌って来た経験を生かして「いずれはこういう吹き替えのディレクションの仕事をしたいな」という気持ちを持っていました。カラオケの仕事で歌詞や曲の作りを勉強して、ディレクションの研究もして、満を持してこの世界に入ったという感じです。あれ、こういう答えでよかったんでしたっけ?(笑)

──はい、そういうお話をうかがいたかったんです(笑)。加山雄三さんのサポートをされていたのはどの時期ですか?

会社を作る前ですね。35歳くらいからじゃないですかね。

──それは主にスタジオのレコーディングだったんですか、それともツアーですか?

ツアーです。少し因縁めいた話なのですが、ウチの女房が小さい頃から加山雄三の大ファンで、もの凄い量のスクラップブックを持っていたんです。たまたま僕の住んでいた南浦和のホールに加山さんがツアーでいらして。「チケット2枚買ったから、アナタも行くよ」と言われて観に行きました。加山雄三と言えば僕らの時代の一番の大スターじゃないですか。「いやぁ、加山さんはやっぱりいいなぁ。曲も全部知ってるし、いいなぁ」と思って、「俺も加山さんのバックで歌いたい」と念を込めたんです。本当に「歌いたいな」と思ったんです。そうしたら3ヵ月後に話が来たんですよ。「加山さんのバックコーラスをやってくれ」という。

──まったくの偶然なんですか?

はい、偶然です。あるときそれを加山さんに話したら喜んでくれて(笑)。スクッと立ち上がって「イッチャン、うれいなあ〜!ありがとう!」と手を握って喜んでくださいました。それからだんだん、いろんな仕事が増えて来て、吉幾三さんのバックコーラスの仕事も入っていましたから。この2つを仕事の柱に会社を起こしたと言う訳なんです。するとカラオケの話がトントンと来て、その内にこうした吹替のお仕事も・・・まあ、この仕事は自分から乗り込んだんですけれどね。

──最初の吹替関係のお仕事は覚えていらっしゃいますか?

覚えてますよ、はっきり覚えてます。英語の教材です。ディズニーの素材を使った、英語の単語が入った子供向けの教材でした。音楽のディレクターは、そこで歌う歌手も自分で連れてこなきゃダメなんです。歌手仲間はいっぱいいたんですが、英語がネイティブに聴こえないとNGが出てしまう。たまたま女性2人と男性1人が必要だったんですが、女性のほうは帰国子女と、ご主人がカナダ人で普段から英語をネイティブでしゃべっている人がいたんです。でも男性に適役がいなくて苦労しましたが、何とかOK。それからは、同じような仕事をしばらくやっていました。

──劇場映画で最初のお仕事というとなんでしょうか?

『ターザン』(1999年のディズニー・アニメ。フィル・コリンズの主題歌も話題に)だった気がします。

──ディズニー・アニメの吹替版ですと、キャスティングから関わられるのですか?

いえ、コーラスやちょっとした役は任されますが、メインは音声ディレクターや制作会社のプロデューサーが決めますね。

──基本的には歌える人が選ばれると思いますが、そうじゃない場合は歌唱指導もされるわけですね。

そうですね。

──それは、お芝居の演出家と話し合われながらですか?

いいえ、もう(芝居と歌の演出は)完全に別と思ったほうがいいですね。ほとんどこちらが担当する際にはいらっしゃらないことが多いですから。今回の『サウンド・オブ・ミュージック』みたいに、台詞の演出家さんが後ろにずっと居てくださるというのは珍しいです。

──特にディズニーは分業制という気がしますよね。他の作品と比べるとより手間暇を掛けるのではないかと思うのですが、普通の会社と比べていかがですか?

 最近は、各映画会社さんとも吹替版がかなり多いと思うんです。実際ディズニー以外の吹き替えのお仕事もたくさんさせて頂いております。ディズニーが手間暇掛けてるとしたらオリジナルを作る際でしょうね!みなさんご存知の名曲がディズニーにはいっぱい有ります。
 ディズニーと他社の主たる違いはディズニーがディズニーであるがゆえの約束事の多さだと思います。子供の夢を壊すような事は絶対にしません!下品な表現もないし言葉遣いもしません。僕らも制作の際言葉選びには細心の注意を払います。それがディズニーの他社と一線を画すところであり逆にある意味ジレンマなのかも知れません。
 一方他社の現場は自由です! 何でもありです! 中には数秒おきにピーピー鳴って、なに言ってるか分からない作品も有りました(想像はつくし画を見てるだけでも楽しかったですけど!)

──歌詞もひとつひとつ日本語にするわけですが、それも翻訳家の方が担当するのですか?

翻訳家の方が大体を作って、映画会社のプロデューサーと制作会社のプロデューサーが手直しされますね。

──日本語と母音が違ったりして、リップシンクが上手くいかなかったりする場合は、どのように調整されるんでしょうか?

そこが、僕のような音楽ディレクターの腕の見せ所じゃないかと思います。音符を自由に扱えるので、言葉数やイントネーションに応じて、増やしたり削ったり、変えたりできるんです。あるいは翻訳者さんが作られた日本語のイメージを「いや、こちら側にズラした方がいいよ」とアドバイスしたり、そういうことができるのが僕らの仕事ですね。

──そういう権限があるわけですか?

もちろん「これどうですか?」というプレゼンをして、みなさんも納得の上でOKが出る形ですね。僕らは頭の中でシュミレーション出来るので、それを具体的に歌って提示することができます。それが僕らの仕事です。

──歌の収録には、大体どれくらいの時間が掛かるものなんですか? 例えば、劇場公開用の長編アニメの場合ですと・・・。

中味にもよりますけれど・・・と言いながら、今回はその中味が一番多いわけですが、よくこの時間でできたなと思います。劇中で歌われるのは、普段はあっても4曲、多くて5曲ですから。通常の仕事の段取りとしては、まず役者さんやタレントさんに歌ってもらうための仮歌を作る作業が1日、収録が2日、トラックダウン(別々に録った音をまとめる作業)が1日。今回の『サウンド・オブ・ミュージック』は内容の割に少ない日数で済んだというのが実感です。

──ミュージカルですから曲数も多いですよね。

量が少ないと完成形が見えますから、頭の中で全てを組み立てられるんです。でも、多いとそれが作れない。バランスや歌の内容、スケジューリングにしても、量が多いと難しいですね。

──『サウンド・オブ・ミュージック』製作50周年記念吹替版についておうかがいしたいのですが、それ以前にも実写のミュージカル映画の歌唱指導をされたことはあったのでしょうか?

映画ではないんですがありました。実写版はディズニーさんのホーム・コメディみたいな作品があるじゃないですか。お客さんの笑い声がバックに流れているような、ああいったものは経験しているんですよね。あとは40周年版の後、3年くらい前ですが、『オペラ座の怪人』を日本テレビでクリスマス時期に放映する際に、劇団四季のメンバー全員が揃って吹替をやったんですが、歌の演出は僕が担当させてもらいました。

──劇団四季で普段からその役を演じた方が、吹替版も務めたんですか!?  それは通常よりやりやすいものでしょうか?

圧倒的にやりやすいですよ。“音楽用語”が通じるんです。しかも主役のファントムとヒロインも含めて、4人程が芸大の後輩だったんです。特にファントム役は、昔一緒にオペラに立ったこともある高井治さんで、「何でキミいるの?」と訊くと、「いや、僕一応ファントムです」みたいな(笑)。「えぇ!?」なんて言ってね。彼は今、世界で3本の指に入る公演回数のファントム歌いなんですよね。

──テレビ用に歌まで吹き替えるのは珍しいですね。

オンエアは12月の20日前後だったと思うんですが(2010年12月17日)、忘年会シーズンで、『金曜ロードショー』でしたから、金曜日はもうみんな忘年会に行っていたという状況でした。だから数字はあまり良くなかったかもしれないけれど、出来は良かったです。

──今回の『サウンド・オブ・ミュージック』50周年版では、主役のお三方を録られたわけすが、まずジュリー・アンドリュースを担当されたのは平原綾香さん。

はい、平原さんは素晴らしいです。もうビックリしました。「こんなに歌える人がいるんだ」と思いましたね。声だけで言えば、彼女くらい出る人はたくさんいます。でも、あれだけ緻密に歌を歌える人はなかなかいないです。頭のいい歌を歌う人ですね。行き当たりばったりではないんです。ちゃんと計算しているのだと思います。多分みなさんそうですけど、必死ですから、無い時間の中で映画を何度も観て研究されていたんでしょう。彼女の掘り下げ方は非の打ちどころが無いくらいでした。僕も舞台に立っていたので色んなことを教わってきましたが、その時にそこに出ている役の人が、役的に何歳であるとか、血液型は何か、どういう性格なのか。実際に映画の中で語られていなくとも、そういうことまで自分で想定するんですよね。誕生日は言われてないけど、まあ4月生まれにして、ですとか。自分で色々とバックボーンまで想像しながら役を作り上げていくのですが、彼女もそういう作業をしたんじゃないかなと思うくらい、マリアという役をよく研究されていたと思います。

──最初は10代であろうと思われるマリアが自由奔放な印象で、子供っぽさも残っていますが、最後にはトラップ夫人となるわけですから、その間の女性としての成長を出さないといけないですよね。佐藤さんは演技に関してはそうおっしゃってたんですが、歌に関してもそうだったんでしょうか?

映画の中でトラップと(立場が)逆転しますからね(笑)。あれは見事ですよね。

──ほとんど順録りだったのでしょうか?

はい。「どうしますか?」と訊いたら「順番でいいです」と言われました。僕もその方がいいと思うんですよね。

──ジュリー・アンドリュースの歌い方は、どういう感じなのでしょう?

うーん・・・あの人はイギリス人ですよね。経歴は分からないですけれど、一番近いのはウィーンのフォルクスオーパー(大衆オペラ)というか喜歌劇みたいな、オペラまで行かない感じの発声なんですよね。

──オペレッタ(軽歌劇)のような?

そうそう、オペレッタ。オペレッタの歌い方ですね。ミュージカルだともう少しポップス寄りですし、クラシックだともう少し重い感じがするんですけれど、その間くらい。歌に品があるんです。そこが彼女の凄いところで、平原さんも品がありました。品は2つの方向から出て来ると思うんです。ひとつは育ち、もうひとつは音楽的教養だと思います。僕は元々クラシック畑なので、誤解されないように話しておくと、クラシック音楽にもし品の良さを感じるとすれば、それは譜面にある楽譜をきちっと守る、ルールに則って様式感を出すことによるものだと思うんです。あっ、躾もそうですかね。ルールに則ってやるということですから。

 平原さんはきっちとした音楽教育を受けていて譜面が読めますから、そういった品みたいなものが出て来るんだと思います。音楽がきちっとしています。

──ジュリー・アンドリュースと平原さんの声質や声域というのは似ているんですか?

平原さんの方が少し低いかも知れません。今回は、一番高い音がBフラットで、彼女は軽くクリアして完璧に出しています。アンドリュースはクラシックでいう一番高いコロラトゥーラ・・・「夜の女王」(モーツァルト作曲のオペラ『魔笛』の中の役)などではFまで出すものがありますが、それを歌えると思います。平原さんの声は、そこまで高くないかも知れませんね。でも音域は個性みたいなもんですから!身長とか体重の部類の話です!

──試写を観た人は平原さんの声がアンドリュースに似ている、違和感がないという感想が多かったそうです。

おそらく、地声と裏声の使い方が凄く似ているんだと思います。オペラ歌手だと中声域をあんなに地声で歌いません。オペラ歌手だと頭声(裏声)になっちゃうんですね。そこの切り替えが難しいのですが、平原さんは上手くやってます。もちろん、ジュリー・アンドリュースも上手いわけですが。

──つまり声だけが似ているのではなくて、発声方法も似ているということでしょうか?

そうですね、似ていますね。

──それは、平原さんが似せたんでしょうか?

発声というものは似せようとして似せられるものではないですよ、難しいですから。

──石丸幹二さんのトラップ大佐役は、いかがでしたでしょうか?

さすがです。ミュージカルであれだけ歌われているので、対応が早いです。同じ大学を出ているというのもありますが、「ここソット・ボーチェ(sotto voce)で」と言っても普通は分からないですよね。イタリア語でソフト・ボイスのことなんですが。「あ、はい」と答えてくれて、早い早い(笑)。音楽家同士の言語で話せますからね。あと、人柄というのでしょうか、素直で、何でも気軽に聞いてくれるんですね。「はい、分かりました」って。

 石丸さんは、吹替はあまりやられていないでしょう。はっきり言って難しい作業なんですよ。『オペラ座の怪人』をやった時、劇団四季のみなさんも苦労していましたから。ステージだと、囁くような台詞でも客席に届かなければならないので、ある程度歌わないといけないんです。それをやっぱり吹替の場合でもやっちゃうんですよね。身体に染み付いてしまっているんです。石丸さんも最初は「何かよいこと」を歌う時、鳴る声で歌っていて、歌うのは耳元だから「囁くように」「もう息だけでいいから」と何回かディレクションして進めていきました。結果、画とマッチするような歌になったと思うんですけれど、あそこまで声を抜いて歌うことは、今まであまりやって来なかったと思います。

 僕も同じ経験をしていますから分かるんですね。オペラ歌手というのは立派な声を聞かせてなんぼだ、というイメージがありましたから。それでこそお金が稼げると思っていたわけです。でも、例えば爽やかな香りのガムのCMで「ハァーーーっ!♪(と大声を張り上げて)」は爽やかさは表現出来ないじゃないですか。オペラ歌手としては立派な声を出さないとダメだと思っているから、「もっと軽くやって」と指示されても、何回もそうなってしまうんです。「ふぅ~♪(息だけで)」お金になるとは思っていません。ディレクターの求めているのがこれだと分かるまでに、僕の場合時間が掛かりました。そういう意味では、彼は呑み込みが早かったですね。

──平原さん、石丸さんに関しては、それほどご苦労がなかったと?

基本的にスイスイ行きましたからね。平原さんの場合は量が多すぎて、体力的にはキツかったというのはありましたけれど(笑)。全然問題なくというか。

──台詞から徐々に歌に変わるようなシーンがありますよね。その部分はどのように録られているんですか?

最初に台詞を録ってあるので、まずそれを聴かずに、歌は歌で録り始めるんです。そして、録り終わった時点で台詞から聴いて、整合性を確かめて、何ヵ所かは録り直しました。「この台詞からこの歌には入れないので、ここをもう一度録らせてください」と。そういう作業はしますけれど、録った台詞にくっ付けて歌まで録ってはダメだと思うんです。歌は歌で独立して録って、それが繋がるかどうかは直前の台詞を直す方が正解でしたね。

 今回は特に平原さんには、例えばDVDをサントラ盤として聴いた時に画が無くても納得できるくらいの歌・・・もちろん画が無くても成立する歌もありますが、歌だけ聴いても上手と思わせるレベルにしようと、そこにかなりこだわりましたから、歌を中心に録りました。もちろん画との整合性も確認しますが、まず歌だけで成立することが重要でした。画の口に合わせるとギクシャクしてしまって、リズムが合わなくなってしまう。それじゃダメなんです。英語のリズムとしては良くても、口がそう見えてしまう時があります。そんな場合はもう合わさなくていいからと。そこが難しいところですね。その修正のための時間は、普段以上に使っていると思います。結構しつこくやりましたから、特に平原さんの場合は。

──日本語版サントラとして成立するくらいの歌を録ろうと思われたのは、平原さんの歌を聴いてからですよね?

そうですね。仕事によっては、時間内に済ませることを優先すべき時もあるんです。一応成立したらこれで終わりにしてしまおうと。でも今回は彼女と話し合って納得できるまでとことんやりました。

──長女リーズル役の日笠陽子さんに関してはいかがでしたか?

日笠さんは最初聴いた時に、正直難しいと思ったんですよ(笑)。現代的な歌い方でしたから、あとのお二方と合わないんです。それで、今風のコブシとビブラートを全部取ってもらいました。するとその後は、それ以上言わなくても大丈夫でした。彼女も対応が早かったです。

──「現代的な歌い方の特徴」というのを教えていただけますか?

今の歌い手さんは、ちょっとリズム&ブルース的なフェイクが入るんですよね。カラオケでもそれが入ると加点されるとか、あるじゃないですか。それにしゃくったり。それはもう、音楽の様式が違うわけです。同じ様式下に揃えないと、このミュージカルは成立しません。貴族の娘であり、教育を受けた子ですから、「キャピキャピした感じではなく、それなりに歌ってくれ」と伝えるとすぐに対応してくれましたね。

──この『サウンド・オブ・ミュージック』という作品自体については、個人的にはどんな印象を抱いていらっしゃいますか?

これは僕が男だから、思うのかもしれませんが、僕的にはトラップ大佐の「エーデルワイス」に一番魅力を感じるんです。愛国心というか、たまらないですね。女性の見方とはちょっと違うと思うのですが、祖国を思いつつ国境を越えなければならない(=国を捨てなければならない)という悔しさとかね。そしてトラップ大佐は歌えなくなってしまう(と目を潤わせて)・・・涙が出て来ます。ジーンと来るんです。丁度日本の「さくらさくら」のようなあの歌・・・このミュージカルを観るまでは、そういう思いの込められた歌だとは思っていなかったですから。「エーデルワイス」は、単なる綺麗なミュージカル・ナンバーくらいに思っていたんです。20年くらい前かな、色んなミュージカル・ナンバーを集めたメドレーで僕も人前で歌ってるんですけど、その時には何も分かっていなかったです(笑)。歌詞を見ても、そんなことは書いてないですからね。昔から歌われている歌なんだという程度で。

──「エーデルワイス」は、『サウンド・オブ・ミュージック』のミュージカルのために作られた曲なんですが、みんなオーストリア民謡と勘違いしていると思います。

そうですよね。僕もオーストリア民謡かなと思っていました。そう思えるくらいの出来なんですよね。

──今だとプロツールス(Pro Tools 米アビッド社のデジタル・オーディオ・ワークステーション)などの機械の力で後から歌をいじれると思うのですが、どうお考えでしょうか? もちろん便利なことも多いと思いますが。

最初にカラオケでプロツールスを使っていたので、導入は早かったんです。以前ディズニーの仕事をした時に、本国から「もう少し音程を直してくれ」と言われて、「えっ? リテイクしろってことかよ」と、みんなでブーブー言っていたら、「耳のいいディレクターがいればすぐに直せるだろう」と言われて、「これはどういう意味だろう? もしかしてプロツールスを使えってことじゃないか?」と気がつきました。当時の吹替の現場ではまだ違うソフトを使っていて、まだ音程を直すプラグイン(拡張機能)は無かったと思います。「プロツールスを使って、そういうプラグインで直せということじゃないの?」と理解して使ってみたんです。

 その時に感じたのが、「ハリウッドともあろうものが音を直すわけ?」でした(笑)。「ちゃんとできるまで歌手に歌わせるんじゃないのか?」とも思ったんですが、そうしろと言っているし、「なるほどアメリカ人はやはり合理的なんだ。結果を出せれば方法や過程は問わないんだ」と僕は解釈した上で「やりましょう」と使いました。

 僕はそれに関してまったく抵抗がありません。機械を使って直そうが、やはりその人が歌ったものなんですよね。今回も、いつでもそうなんですが、僕は音楽をディレクションする時に、かなりその方個人の音楽性を……今回の平原さんにしても、彼女の音楽をもしかしたら否定するかもしれないくらいのところまで、失礼かなと思いながらも、立ち入ってディレクションをするんです。でも、それは結果を想定した時にこっちの方がいいと思うから。プロツールスで直そうが直すまいが、やはりその人が歌ったものですから、その人の勝利であり財産だと僕は思うんです。そして、僕らはそれをお手伝いする役目に徹すべきだと思いますから、プロツールスに関しては「ありがたいな、ありがたいな」と思っています(笑)。

 あともうひとつあって、一曲を覚えられない人がいっぱいいるんですよ。短い曲でも。そういう人がプロツールスのおかげで歌えるようになるわけです。僕が一小節ずつ歌ったものを真似してもらって・・・それを繋げていくんです。するとちゃんとした歌になるんです。名前は申し上げませんが、僕の父親と同じ昭和4年生まれの方が、僕のことを「市之瀬先生」と呼んでくれます。「市之瀬先生のおかげで、僕はこの役が続けられるようになった」とおっしゃって下さるんです。それはプロツールス無しにはできないことです。そういう良いこともあります。機械を使うからインチキみたいに言われることもありますが、そういう時代なんですからいいんじゃないですかね(笑)。

 でも総じて、上手い人もそうでない人もレベルの差はあれ同じくらいの時間直しますね。プロツールスでというよりもディレクションで直します。上手い人でもズレることがあるのは確か。パッと歌って「ハイ、OK」という人はほとんどいません。

──最後に『サウンド・オブ・ミュージック』製作50周年記念版を購入される方へのメッセージをお願いします。

この作品は、現在もなおミュージカル映画の最高峰だと思います。まず名曲が本当に多いですよね。今後もこんなに凄い作品が出て来るか分からないくらい凄い作品なので、初めて「あの曲はこの映画の曲だったんだ」と感じる方もいらっしゃるかと思いますが、とにかくこの素晴らしさを味わって欲しいのと、「原音に勝る」とまでは言いませんが、今回は聴き劣りしない作品になっていると思いますから、その辺りを聴いて欲しいです。

(2014年2月24日/於:20世紀フォックス ホームエンターテインメント/文:村上ひさし/協力:フィールドワークス)

市之瀬洋一(いちのせ よういち)

1953年7月11日生まれ。鹿児島県立甲南高等学校卒業、東京芸術大学音楽部声楽科卒業。板橋 勝、原田茂生、F.アルバネーゼ、各氏に師事。卒業後、私立和光学園高校の専任を経てスタジオの世界に入る。ソロヴォーカル及びコーラスとして活動するかたわら、加山雄三はじめ多くのアーチストのツアーにも参加。また、ヘヴンゲートシンガーズ やダン・ドゥ・ビーなどコーラスグループのリーダーとして活躍、現在はキングストーンズのリードヴォーカルとしてコンサートやライブを企画、演出。93年には(有)ヴォイスフィールドを設立しディレクターとしての活動も開始。当時スタートした通信カラオケの音源制作に参加。その後ディズニーを始めとする日本語吹き替え版の音楽演出を担当、平行して2003年開局したディズニーチャンネルの多くの作品に取り組んでいる。またプロデューサーとして若いアーチストの育成、CD製作にも携わっている。
(有)ヴォイスフィールド代表取締役 関東二甲会幹事長

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