東京五輪開催目前の1964年9月に開業した東京モノレール。都心と羽田空港を直接結ぶ交通機関として日本から海外に旅立つ人や日本を訪れた外国人を50年間運び続けてきた。その間に沿線では開発が進み、海だった場所に新たな町ができるなど、車窓から見た風景は変化を続けてきた。高度成長、バブル期、現在と続く変遷は50年の日本の縮図ともいえる。
五輪に向け急ピッチで整備
64年9月17日、東京五輪開幕まで23日と迫ったこの日、東京モノレールが開業した。それまで都心から羽田空港に向かうには車を使うしかなく、慢性的な道路渋滞もあり「1~2時間程度かかっていた」(東京モノレール)。訪日客の増加が予想される中、空港アクセスを改善すべく計画されたのがモノレールの開設だった。
当初は新橋―羽田間での開業を目指したものの、騒音問題などで地域の理解を得られず、土地の買収が難航。五輪に間に合わせるため浜松町―羽田間に計画を変更した。工事着工は開業前年の63年5月。突貫工事の末、五輪開幕前に開業にこぎ着けた。モノレール開業は「日本の交通革命」とも称され、五輪効果と都心に初めて出現した本格的モノレールという物珍しさも手伝い、休日には浜松町駅に長蛇の列ができるほどの人気ぶりだった。
同社OBの宮崎紘一さん(69)は開業前日に開かれた出発式で、車体を花で飾った「花電車」を運転した。宮崎さんは当時の熱狂ぶりを「土日は家族連れでいっぱいだった。空港で世界各国の飛行機を見ることができ、飛行機に乗るというよりも空港を見物しに行く人が多かった」と振り返る。
だが、人気は長続きしなかった。五輪終了後の不況により航空旅客が減少したのに伴い、モノレールの乗客も急速に減少した。片道運賃が250円とほかの交通機関に比べ割高で4人でタクシーに乗ればモノレールより料金が安いことも痛手だった。66年には早くも150円への値下げを迫られた。
開業当時の駅は浜松町と羽田しかなく、沿線の風景も現在とは全く違った。東京湾の埋め立てが進んでおらず、路線の多くが海の上を走っていた。宮崎さんは「浜松町を出て天王洲の辺りから路線の左側はほとんど海だった」と話す。海の上をさっそうとモノレールが走る様は「まるで空を飛んでいるよう」と形容されたという。
初の中間駅として誕生したのが大井競馬場前駅だ。開業翌年の65年5月に大井競馬と当時開催されていたオートレースの客を運ぶため、開催日のみ営業する仮設駅として競馬場近くの海上面に駅舎を造り、67年6月からは常設駅として営業を始めた。現在は橋を渡った先に野球場などがある大規模公園や大規模マンションが立ち並ぶ住宅街が広がっているが、開業当初はまだ埋め立てられていなかった。
大井競馬場前駅周囲の海だった場所は72年に東京都によって埋め立てられ、現在の大井ふ頭が誕生した。人口増加による住宅整備が求められ日本住宅公団(現都市再生機構)や東京都などが土地を取得し、81年に大規模な団地の建設が始まった。これが83年から入居が始まった八潮パークタウンだ。かつて海だった場所にまったく新しいまちが誕生した。
高度成長、バブル・・・新しいまちが誕生
「都市計画の中で水と緑を大事にするまちと掲げていたのが気に入って入居を決めた」。83年から住み続ける八潮自治会連合会元会長の水野谷育男さん(87)は振り返る。品川区民に入居の優先権を与えられていたものの、四国や鹿児島など全国各地からも集まったという。
もっとも、新しいまちということもあり、不便なことも多かった。「道路が舗装されておらず、雨が降ると田んぼのようになった。バスの運行も現在と比べて少なく、モノレールだけが頼りだった」(水野谷さん)。
時代は平成に変わり、92年に開業したのが天王洲アイル駅だ。外国の軍艦に備えて江戸幕府が作った台場の跡地だったこの地区は倉庫や石油の備蓄タンクが立ち並んでいたが、85年に地権者らが総合開発協議会を結成、新たなまちづくりがスタートした。
石油の備蓄タンクなどは取り除かれ、新たなオフィスビルが次々と建設された。コンサルタントとして天王洲再開発に携わったアール・アイ・エー(東京・港)専務の砂金宏和さん(61)は「モノレールの新駅開業が開発の前提にあった」と話す。当初の計画は駅付近だけだったが、バブルを挟んだ時代背景もあり、地域全体の開発へ広がったという。
開発が進んだ天王洲は今や就業人口2万人以上のまちに生まれ変わった。品川に近く、天王洲に住む人も増え、モノレールは通勤・通学の足として使われるようになった。
90年代後半にはモノレールに強力なライバルが現れた。98年、京浜急行電鉄が延伸され羽田空港に直接乗り入れるようになった。モノレールは強敵に顧客を奪われ、京急延伸前の97年度に6520万人だった輸送人員は翌年5390万人に減少、その後も輸送人員の低迷に苦しむ。
京急の参入はモノレールの経営にも大きな影響を与えた。同社は日立物流の完全子会社だったが、競争が激化したことで東日本旅客鉄道(JR東日本)との連携強化が必要と判断。JR東日本もモノレールを傘下に置くことで利用客の増加が見込めるとみて、2002年2月に日立物流保有株の70%を取得した。こうしてモノレールはJR東日本のグループ企業として新たなスタートを切った。
2000年代に入っても沿線の変化は続く。04年には羽田空港第2旅客ターミナルが整備され、モノレールの羽田空港第2ビル駅が開業した。開業効果により、この年、モノレールは輸送人員減をようやく食い止めることができた。さらに羽田への国際線再就航を求める声が航空業界などから高まり、10年には国際線ターミナルビルが開業した。モノレールも国際線ビル駅を開業し、現在一番新しい駅となっている。
再開発構想 高齢化人口減にも直面
まちにも変化が起きている。八潮パークタウンは少子高齢化と人口減の課題に直面している。ピーク時に約1万7000人だった人口は現在1万2000人台にまで減った。八潮自治会連合会元会長の水野谷さんは「最初のころの入居者の子どもが独立した」と話す。
だが、明るい兆しもあるという。「親の近くで住みたいと戻ってくる子供たちも出ている」(水野谷さん)。14年4月時点の人口は、底だった12年4月に比べわずかだが増えた。水野谷さんは「もっと増えれば活性化するはず」と期待を寄せている。
都心の起点である浜松町駅は今後大きく生まれ変わる。駅に隣接する世界貿易センタービルディングや東日本旅客鉄道(JR東日本)は浜松町駅一帯の老朽化したビルなどを解体し、3棟の高層ビルや低層ビルなどを建設する計画を進める。24年度に全体が完成する見通しだ。港区も「今よりもよりにぎわいを生むまちになってほしい」(開発指導課)と期待を寄せる。
モノレールも大きな変革期を迎える。「悲願の東京駅延伸」(同社)が、実現に向けて動き出した。JR山手線に沿って高架橋を建設し、東京駅では東海道線のホーム上に乗降場を造るという。一方で親会社のJR東日本は都心からの新たな空港アクセス路線を建設する。羽田へ向かう公共交通機関として誕生してから50年、東京モノレールは将来、どのような「路線図」を描くのだろうか。
細川明良・東京モノレール社長に聞く
開業50年を迎えた東京モノレール。沿線開発が進む一方で京急の参入など事業環境も大きく変わった。長年の悲願だった東京駅延伸は実現しそうだが、親会社の東日本旅客鉄道(JR東日本)も羽田新線を計画している。細川明良社長に50年の歩みと今後の展望などを聞いた。
――開業から50年、モノレールが歩んできた道のりをどう評価しますか。
50年にわたって安全で快適な輸送を続けてこられたことは誇りに思っている。鉄道は強風などの悪天候で止まってしまうことが多いが、モノレールは風にも強く遅れも少ない。最近1年間の列車1本あたりの遅れは6~7秒程度と、新幹線の10分の1程度にとどまる。50年の間には空港の沖合展開に伴い新しい駅もできたほか、国際線の駅も新設した。常に乗客の利便性を優先して対応してきた。
地域の足としての役割果たす
――沿線の開発も進みました。
モノレールの利用者は飛行機に乗る人ばかりと思われているが、実は4割以上がそれ以外の人たちだ。空港で働く人や、(開業後に開発が進んだ)天王洲アイルや流通センターなどで働く人の利用も多い。今後は天空橋駅周辺の開発計画もある。八潮パークタウンの居住者など通勤で利用する人もおり、地域の足としての役割を果たしてきたと思う。沿線には公園や古い町並みなど見どころも多く、地域と一緒に情報を発信していかなければいけない。
――長年の悲願だった東京駅への延伸計画が明らかになりました。東京五輪に向けた対策ですか。
東京駅への延伸は2005年から国土交通省などと委員会で勉強してきた。当社単体では出来る話ではないので、国や自治体の審議会などで議論してもらえればありがたい。工期は10年かかるため、残念ながら20年の東京五輪には間に合わない。ただ、五輪に向けて浜松町駅でのJRとの乗り換えが楽になるように改善したいと考えている。現在JRからモノレールに乗り換えるには階段を使わずに済むが、反対にモノレールからの乗り換えには改札を出て階段を下りなければならない。これを双方、階段を使わずに乗り換えられるようにする。
高い利便性、今後も重要な役割担う
――親会社、JR東日本が羽田新線構想を発表しました。すみ分けは可能でしょうか。
天候に左右されない安定性、高頻度での運転が当社の強みだ。ほかの路線と接続していないから、(事故などで)ダイヤが乱れることもほとんどない。羽田への重要なアクセス路線との認識はグループ内で一致して持っている。モノレールは国際線のカウンターには降りて1分以内でたどり着ける。新たな沿線の開発計画もあり、空港の利用者も増えるだろう。モノレールを利用してもらうためにも付加価値の高いサービスを生み出したい。
(聞き手は電子整理部 三宅一成)