フォーク編<422>村下孝蔵(4)
村下孝蔵が自分用の本物のギターを手にするのは、熊本県水俣市の水俣第一中学の2年生のときだ。村下はその時のエピソードをギター雑誌のインタビューで話している。
ギター購入をねだられていた父親は「不良になるから」などと断っていたが、条件を出した。
「ベンチャーズの曲をちゃんと弾けたら買ってやる」
村下は友だちのギターを借りて猛練習、父親の前で「ダイアモンド・ヘッド」を演奏しきった。これには父親も折れて、日本製のグヤトーンのエレキギターを買い与えた。友だちと形ばかりのバンドも整え、村下にとって二大スターのベンチャーズ、加山雄三の曲などを弾いた。当時のエレキブームに反応したギター少年だった。
× ×
村下家の映画館経営が悪化するのもこのころだ。
全国の映画館数は1960年ごろをピークに急減する。その流れの中で、村下家の映画館も60年代後半には閉館した。中学の同級生たちは話す。
「再起するために出水市(鹿児島県)で温泉発掘をしようとしましたが、だめだった、と聞いています」
当然、家業の行き詰まりは水泳とギターに没頭していた村下の生活にも直結する出来事だった。高校進学を控えていた。村下は1968年、熊本市の鎮西高校に進学する。
同級生が「水泳でスカウトされた」と語るように、特待生として選ばれた。この選択には若きスイマーとして実力を試したい、との思いがあったはずだ。同時に、家族に経済的な負担をかけたくない、との村下の気持ちも併存していた。
村下の父親は熊本県阿蘇にあるホテルの支配人として就職、家族と共に水俣の地を離れた。鎮西高校で寮生活をしていた村下は、週末になると阿蘇の家族の元に帰った。
村下はギターケースを抱えて阿蘇町(現・阿蘇市)内牧のレコード店「スズヤ」に、よく顔をみせた。「ギターを弾いてみらんね」。店の中垣明美はある日、声をかけた。
「一人で弾いているのに、3人くらいいるように上手でした」
それから村下と中垣との交友が始まった。中垣は高校生の村下にライブ出演も依頼した。
現在、中垣は熊本市内でブティックを経営しているが、村下の死後も偲(しの)ぶ会を開催するなどファンであり続けている。村下がデビュー前の広島時代に「スズヤ」のために無料で作ったCMソングがある。
〈遠慮はいらない さあどうぞ 小さな町のかわいい店です…スズヤ~〉
阿蘇はミュージシャン・村下を成長させた青草の地であった。
=敬称略
(田代俊一郎)