ジャニーさん、グループ戦略は“苦悩”から生まれた 郷ひろみ退所が分岐点

[ 2019年7月11日 10:00 ]

ジャニー喜多川氏死去

ギネスブック2012年版に掲載されたジャニーズ事務所のジャニー喜多川社長の写真。「最も多くのコンサートをプロデュースした人物」「最も多くのNo.1シングルをプロデュースした人物」の2部門で認定された
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 【緊急連載 どうなるジャニーズ(2)】トップスターを次々に生み出したジャニーさん。「(グループの)人数は少ない方が好み」と話し、実際、1970年代には多くのソロアイドルを手掛けていた。しかし80年代以降、ソロアイドルのプロデュースは減り、グループを多く作るようになった。背景には、人生の転換点になった出来事があった。

 75年3月、当時、デビューから3年でトップアイドルだった郷ひろみ(63)が契約満了をもって、別の事務所に移籍。ジャニーさんを昔から知る芸能関係者によると、これはジャニーさんにとって「人生最大のショック」だったという。同関係者は「郷さんは中性的でありながらダンス、水泳、野球と何でもできて、ジャニーさんが心底ほれ込んでいた。移籍のショックで一時入院したほど」と振り返る。

 その後、ジャニーさんは井上純一(60)や川崎麻世(56)らソロアイドルを売り出したが伸び悩み、苦肉の策として「VIP」という女性2人を含む5人組をデビューさせたこともあった。当時を振り返り「世の中は冷たいもんでね。郷ひろみが移籍したら、みんな態度が変わった」と話していた。

 窮地を救ったのが田原俊彦(58)野村義男(54)近藤真彦(54)の3人。TBSドラマ「3年B組金八先生」にそろって出演し、大ブレークを果たした。3人は別々にレコードデビューしたが、ジャニーさんは1人に比重を掛けすぎて、移籍後の影響が大きくなった郷の教訓を生かして、3人を「たのきんトリオ」の愛称でユニット活動させた。その人気は、バックで踊っていたシブがき隊や少年隊にも波及し、ジャニーズは80年代のアイドルブームをリードした。

 苦い経験に学び、成功への道を切り開いたジャニーさん。編み出した「勝利の方程式」は、その背中を間近で見ていた後継者の滝沢秀明氏(37)に引き継がれたはずだ。

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