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“無敵の不沈艦”はなぜ沈んだ?
武蔵の知られざる真実と最後

2017年2月14日

2015年3月。フィリピン沖1,200mの海で、世界の研究者が探し求めていた巨大戦艦、武蔵が発見された。戦艦大和の姉妹艦であり“無敵の不沈艦”とまで呼ばれた武蔵はなぜ建造され、なぜ沈んだのか? その真実に迫った。

完成からわずか2年で海へ消えた最強の戦艦

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発見したのはマイクロソフトの共同創業者で実業家のポール・アレン氏による海底探査プロジェクトチーム

2015年3月。長年、世界の研究者が探し求めていたものが見つかった。日本海軍が誇る戦艦大和の姉妹艦として日本の命運を託されながらも、多くが謎に包まれてきた巨大戦艦、武蔵だ。

全長5メートル、重さ15トンとも言われる巨大なイカリ、艦首に残されていた菊の紋章の痕跡、甲板に貼られたヒノキの板、航海中の娯楽だったといわれる映画フィルム、乗組員が身につけていた軍靴・・・。70年以上もの間、深海で眠り続けていた武蔵の腐食は、微生物の少ない低水温によって最小限に留められていた。

武蔵は、太平洋戦争末期、日米が激突した史上最大の海戦「レイテ沖海戦」の切り札として、日本の技術の粋を集めて建造され、1942年に完成。そのわずか2年後の1944年10月24日に沈没した。しかし、武蔵の詳細な姿を捉えた写真や資料はほとんどない。そのため、どのような戦艦だったのか、なぜ作られ、なぜ沈んだのかは詳細は分かっていなかった。そこでNHKは武蔵を発見した探索チームから100時間を越える未公開映像を入手。最新の映像解析技術と、造船技師や歴史学者、爆発の専門家など7人の専門家の分析によって長い間、謎に包まれてきた武蔵の実像に迫った。

最強・鉄壁だったはずの武蔵の誤算

武蔵の建造が極秘裏に始まったのは、太平洋戦争勃発の3年前。その最大の特徴は絶対に沈まない“不沈艦”と言われた設計だ。内部は1,000以上の区画に細かく分かれており、多少の浸水では沈没しないうえ、エンジンなどの心臓部を守る装甲板は世界一の厚さ。それを破ることができるのは世界中を探しても、武蔵の主砲以外になかった。

今回の歴史的発見まで、武蔵は原形に近いまま沈んだと考えられていた。ところが集められたデータによって、艦首と艦尾が見つかったほかは、粉々になって、1キロ四方の広範囲にバラバラに散らばっていたことが明らかになったのである。

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艦首の残骸と150m先で見つかった裏返った艦尾

なぜ武蔵は沈み、粉々に砕け散ったのか?

謎を解明するため、NHKは入手した映像を1,000万枚の画像に分解し、それらを組み合わせることで、武蔵の立体モデルを作成。完成した武蔵は全長263メートル、基準排水量6万5千トン、ジャンボジェット機3機分もの大きさだった。前方に世界最大の46センチ砲を2基、後方に1基を搭載し、主砲からの砲弾は42キロ先まで届いたとされる。当時のアメリカの最新鋭の戦艦、アイオワ級の38キロをしのぎ、遠距離攻撃で敵をせん滅する戦術だった。

さらに武蔵は最強の防御力も誇っていた。40センチもの厚さの装甲板は、敵艦の砲撃からの衝撃を和らげるため、斜めに取り付けられていた。建造を担ったのは日本最大の造船設備を誇っていた三菱重工長崎造船所。4年の歳月をかけ、1942年に完成した。

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技術の粋を集め、国の命運をかけて建造された武蔵。しかし、その命は短かった。

太平洋戦争末期、南方の重要拠点、フィリピン・レイテ島に侵攻するアメリカ軍をせん滅するため、大和とともに出撃した武蔵だったが、作戦の途中、シブヤン海で沈没した。戦艦同士の戦いならば、たしかに武蔵は世界一の攻撃力に加え、最強の防御力を誇っていた。しかし、武蔵と戦ったのは戦艦ではなく航空機だったのである。

日本の真珠湾攻撃によって、航空機が戦況を左右すると認識したアメリカは、事前に情報をつかみ、パイロットたちに至近距離から魚雷を命中させる訓練を徹底。一方、レイテ沖海戦の4か月前、マリアナ沖の海戦で空母3隻を失うなど壊滅的な被害を受けた日本は、武蔵に護衛航空機をつけることができなかった。

このとき、海軍上層部の一部は武蔵が出撃したとしても、戦況を覆すのは難しいと認識していたようだ。武蔵がいた艦隊の参謀長は戦後、当時の作戦について、手記でこう振り返っている。
「レイテ沖海戦は、兵理(へいり)を超越して、ただ遮二無二突撃するという肉弾特攻戦であった」

「幻の図面」から見えてきた沈没の原因

武蔵の姿を撮影した最後の写真からは、アメリカ軍の攻撃によって、艦首が沈み込んでいたことがわかっている。しかし、シミュレーションによると、武蔵は艦首からの浸水だけでは沈まない。ではなぜ、武蔵は沈没したのか?

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70年間部外秘として扱ってきた詳細な内部の図面

沈没の理由を解明する決め手になったのは、武蔵の建造にあたった三菱重工が初めて公開した内部の図面。これによって海底に散乱していたのは、機関室のボイラーなど心臓部であることが明らかになり、海底に映像からは船体の側面を覆っていた30メートルにも及ぶ装甲板の一部も見つかった。当時の溶接技術では分厚い装甲板をつなぐことができず、リベットと言われる鉄の留め具でつなぎあわされていた。

武蔵は戦艦の砲撃の角度に対しては強度を高めていたが、航空機による魚雷は真横からの攻撃。専門家は複数の魚雷がつなぎ目付近を直撃した結果、リベットがはずれ、その隙間から浸水して沈没したのではないかと分析する。しかも海軍上層部はその弱点に気付きながらも、対策をとらなかったことが、武蔵の建造に携わった人物の手記からもわかっている。

武蔵沈没の原因は、攻撃によって装甲板を破られたのではなく、分厚い装甲板をつなげていたリベットにあったのだ。

しかし、武蔵にはもうひとつの謎が残っている。形をとどめたまま沈んだ武蔵が、なぜ、バラバラになっていたのか?

この点について、爆発研究所代表の吉田正典さんは武蔵が積んでいた火薬が水中で大爆発した可能性を指摘する。

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主砲付近に大量の弾と火薬を積んでいた

戦闘で主砲を撃つ機会がほとんどなかった武蔵には、160発以上の弾とそれを発射するための100トンの火薬が残っていたと見られる。さらに、火薬の缶の残骸が海底に散らばる一方で、映像に映っていた主砲弾はわずか3発。戦況を覆すための攻撃力があだとなって、武蔵は砕け散ったのだ。

10代から20代の若者を中心に構成された武蔵の乗組員、およそ2,400人のうち、1,000人以上が戦死。沈没時に救助された乗組員は、さらにフィリピン・ルソン島に向かわされ、アメリカ軍と激戦を繰り広げた。陸上戦に投入された武蔵乗組員640人のうち、生き残ったのは50人に満たない。

70年以上もの間、フィリピン沖1,200mの深海で眠り続けてきた武蔵。その姿は私たちに改めて戦争のむなしさを問いかけている。

photo 海底1200メートルの深海に沈む武蔵
photo 三連装機銃
photo 全長5メートル、重さ15トンとも言われる巨大なイカリ
photo 艦首に残されていた菊の紋章の痕跡
photo 木甲板の一部
photo フィルム。武蔵の甲板ではときどき映画が上映されていたという
この記事は、2016年12月4日に放送した 「NHKスペシャル 戦艦武蔵の最期 ~映像解析 知られざる“真実”~」 を基に制作しています。
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