猫城合戦(福岡県中間市上底井野)

             「森 鎮実不覚討ち死多数

       福岡県中間市に上底井野と云う所がある。中間市の脇を西に鞍手町方面へと抜けるこ県道98号線。
     遠賀川を渡り2kmほど行くと右手道路沿い沿いに極小さな丸い山が見える。標高は30mほどか。頂上は
     「月瀬神社」となっている。此の山、元は戦国時代の「宗像氏貞」の端城「猫城」跡である。

      「猫城」は(猫ヶ城)」とも呼び、戦国時代は筑前国遠賀郡上底井村であった。築城は室町時代に筑前
     「麻生氏」とされている。
     城は南北一町、東西0,7町程の楕円状した小振りの山で、その姿がが猫の背を丸めた形に似ている事から
     猫の獲物を襲う時、或いは外敵より身を守るときの変幻自在な姿に因み呼ばれるようになった。この一帯
     では長い間麻生氏、宗像氏が争いを繰り返していた。
     筑前国続風土記などによれば、天正6年(1578)頃遠賀川を挟んで東は「麻生氏所領」、西は「宗像領」と
     なったいう。
     「宗像氏貞」は「猫ヶ城」に「吉田倫行(よしだともゆき)」に雑兵150を付けて籠もらせた。この時代上流直方
     「鷹取山城」には「森(毛利)兵部少輔鎮実」が居り、鎮実は立花山城「戸次道雪立花道雪)」とは主従関
     係にあった。宗像氏は永く中国大内氏に従い、大内後も陶氏、毛利氏と中国との関係は続いた。(氏貞は
     陶氏血統の出)この為、蔦ヶ岳城の氏貞と、中国に敵対する大友氏「立花山城城督戸次道雪」とは争いは
     絶えなかった。
      (風土記の伝える年は、道雪と氏貞はまだ和睦中であったと見られるので、年次には疑問残るが事件は
     史実と見 られるので、そのまま記す。)
     天正8年5月(1580)鷹取山城主毛利鎮実は、立花山城督「戸次道雪」の「氏貞の端城を攻めよ」との勧めに
     従い下鞍手と云う所に出張り木屋瀬(こやのせ)に陣を置いた。この鎮実に道雪は使いをもって指示した。
     「其の方らが氏貞の端城(はじょう)を攻める素振りを取れば、氏貞は必ずや多勢をもって後詰してくるに
     違いない。然らば其の方の軍勢は、馳せつ返しつ(押し寄せては引きを繰り返し)敵をあしらい、宗像勢を
     鞍手郡に攣り(つり)とめ日数を送らせよ。その間、此の方(道雪)は西郷より稲光(現福津市)より打って
     出て氏貞の居城「蔦ヶ岳城」に押しかけ乗っ取るべし。攻め込んだら合図をあげよ(狼煙をあげよ)」と伝達
     した。鎮実は使いの者へ「仔細なく承知」と受け合い使者を道雪の下へ送り返した。
     鎮実は先ずは手寄り(手近な城)なればと木屋瀬の北西一里半程の氏貞の端城「猫ヶ城」を囲んだ。
     猫城に籠もる兵達は多くは雑兵ではあったが攻め口に下り激しく応戦した。しかし攻める鎮実に城中の兵
     は防ぎ兼ねているように写った。この時鎮実は優位な戦況に城中の兵は少勢なりと見侮った。道雪への
     合図の日限も忘れ、攻め手は皆息も尽かせず攻めあげた。
     一方「宗像氏貞」は予てより領内の守将らに指示してあった。それは「旗下の城々、若しくは領内に不慮の
     事あらば直ちに狼煙(のろし)をあげて蔦ヶ岳へ急を告げよ」と手配していた。守将「吉田倫行」は鷹取勢が
     攻め来るや直ちに予ねての手筈通り合図の狼煙を立てた。 この時点でこの戦いの優劣は決まっていた。
     道雪への合図忘れた鎮実、方や忠実に急を告げた倫行。合戦緊急時の両武将の行動の差が出た。
     「森鎮実」は筑前国内の大友氏の勢力の衰退する中でも、この地域で唯一大友に従った武将であったが、
     戦況を見誤り思慮が足りなかった。
     一方蔦ヶ岳の見張り櫓では、猫ヶ城の立てる狼煙に「猫ヶ城に事出来たり」と察し氏貞へ告げられた。
     氏貞は「直ちに駆けつけよ」と、吉田少輔六郎貞永、占部下総貞康、石松源次郎貞次、小樋対馬を先手と
     して蔦ヶ岳を一騎(一気)駆けにて打って出た。一行は早々に浅木(現遠賀町)畷(なわて:縄手・長い畦の
     続く田地一帯のこと)に着いた。
     おそらく蔦ヶ岳勢は上畑(古くは城畑:じょうはた:岡垣)より海老津を経て城の越から浅木に至ったと見ら
     れる。浅木畷に至った蔦ヶ岳勢は、城中に勢いをつける為先ず「鯨波(とき)」をあげた。この凄まじい鯨波
     (とき)の声に鎮実は、「蔦ヶ岳より大勢後詰するぞ。此の方は小勢なれば捕りかこまれては敵わぬ、木屋
     瀬に引取れ」と鎮実自ら殿をつとめ引き始めた。
     蔦ヶ岳勢に猫ヶ城勢は一つになり合わせ千五百余人にて引き退く鎮実勢を追いかける。 鎮実も今許斐
     (場所不明、おそらく現在のJR鞍手駅付近、今村・小牧のあたりと見られる)の川端にて取って返し、火の
     出る程に戦ったが、如何せん小勢、一太刀打っては引き、一槍突いては引く有様で、宗像勢は勝ちに乗り
     鎮実勢を川に追い込めて二百許討ち取った。川は五月の雨に増水し胸板の浸る程であった。
     動きの取れない鎮実勢は手負いの兵も助けず川を越えて敗走する。これに宗像勢も川を渡り激しく追討を
     掛けたので、鎮実もあわやの危ない事態となったが忠義の士共、鎮実を押し隔て七、八人が討たれる間に
     虎口を逃れてようやく木屋瀬永満寺迄引取った。
     宗像勢は勝ち鬨上げて其の儘蔦ヶ岳へと引いた。この城攻め、鎮実が道雪との相図の約束に相違した
     ことが一時の間に敗軍してしまった。 
     西郷まで出張って蔦ヶ岳の奪取を狙った「戸次道雪」も鎮実敗軍の知らせに立花山へと引き返し、今回の
     道雪の謀り事は徒労に終わった。

           
            猫城跡は平野の小山にすぎないが斜面は急峻。城跡は現在月瀬神社社域
            猫城は写真に見るように小城である。しかし鎮実は攻め倦んだ。おそらく当
            時周囲には水濠が回され、さらに湿地(牟田・無田)が広がっていたと思われる。