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奇跡の初優勝見えた レスター・岡崎が激白「試合後はいつも悔しい」(4月27日)
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【ボクの思い出STADIUM】東京スタジアム&駒沢球場2016年4月20日 紙面から まだ高層ビルもなかったころ、下町の住宅地の一角に「光の球場」と呼ばれた美しいボールパークがあった。名物オーナーが宙に舞ったオリオンズの本拠地「東京スタジアム」。東映の暴れん坊がプレーした「駒沢球場」。どちらも東京が誇る名球場だった。 (文中敬称略) 開場以来初のV
これは一種の暴動である。 1970(昭和45)年10月8日の東京中日スポーツ1面に、こんな書き出しの記事がある。ロッテが東京スタジアムでの前日の西鉄戦に5−4で勝ち、10年ぶりのリーグ優勝を決めた。この球場では62年の開場以来初の優勝だった。 決定直後、約5000人のファンがグラウンドになだれ込んだ。その一角でファンの手によって胴上げが始まった。輪の中心にいたのは、何とオーナーの永田雅一。監督の濃人渉よりも早く宙に舞った。中日が優勝した74年、82年、88年でも、優勝直後にファンがグラウンドに殺到したが、お目当ては監督であり選手。ところがこの時にファンが駆けつけたのはオーナーだった。まさに異例。その様は暴動に見えたが、感情は怒ではなく喜だった。 私財30億円投入「ファンも永田会長の力の入れ方をよく分かっていたのですよ」。こう話すのは当時のロッテ正捕手の醍醐猛男(77)。映画会社・大映の社長であり威勢のいい語り口から「永田ラッパ」としても有名だった名物オーナーは、オリオンズを愛していた。私財を投じ30億円もの総工費で造った東京スタジアムは、その象徴だった。 サンフランシスコ・ジャイアンツの当時の本拠地だったキャンドルスティック・パークをモデルにした球場。2本のポール型鉄塔が支える照明灯は、当時主流の鉄骨組みとは違って格好いいと評判だった。内野も美しい芝生が覆い、日本の球場では初のゴンドラ席…。ファンも選手も誇れる球場だった。 「画期的で、当時は群を抜いてすごい球場だった」 57年のプロ入り以来19年間オリオンズ一筋でプレーした醍醐が今でも声を弾ませ、こう続けた。「トレーナー室や医務室、きれいな食堂もあって、でも、一番心が和んだのはロッカールームです。すごく広くて、深く座れた。後楽園や神宮は狭くて隣ともぶつかって、着替えるのもせわしかった。東京スタジアムは試合前にゆっくりできる場所でした」という。 さらに、こう言って目を細めた。「僕と隣のアルトマンの間にあった50センチほどのスペースに、小さな冷蔵庫を買ってビールを入れてました。ナイターが終わると2人で乾杯。うまかったなぁ」 スターも通ったスタンドには大映所属のスターがよく来ていた。「京マチ子を何度か見た」と醍醐。勝新太郎や若尾文子らの姿もあったようだ。もっとも、東京スタジアムといえば下町情緒。「げた履きでカランコロンと音をさせながら近所の人が来ていた」と醍醐。そんなスタンドによく通った一人が、元ロッテ職員で現在はロッテ葛西ゴルフ勤務の横山健一(52)だ。 東京都港区で育った横山は「親や近所のおじさんがオリオンズファンで、幼稚園のころからよく連れていってもらった。照明やカラフルなスタンドが格好良かった。球場の近所の子が見ているところに、入り口でお母さんに『お弁当を渡して』と頼まれた係員がよく持ってきていた」。 球場は下町の誇りだった。 興奮の「るつぼ」横山は優勝当日もスタンドにいた。先発の小山正明が5回までに3失点。だが6回、先頭の代打・江藤慎一がソロ本塁打を放ち、アルトマンが同点2ラン、さらには山崎裕之の勝ち越し三塁打、そして醍醐も右犠飛を放ち一挙5点。木樽正明が最後の3イニングを逃げ切り歓喜の瞬間が訪れると、当時小学1年生の横山もグラウンドに降りた。 「最初は一塁側内野自由席。知り合いのつてでどんどんネット裏の方へ進出し、優勝の瞬間は応援団がいた一塁ベンチの上あたり。結構高かったけど、ベンチの上から知り合いの人が降ろしてくれた。何だか分からないくらい興奮しましたが、みんな喜んでいて、いいなと思いました」 「すべてが劇的」
醍醐は「うれしくて試合は忘れちゃった」と話す一方、永田の様子はよく覚えている。「すごく満足げな表情をしていましたね」。当時の記事によれば、永田は「すべてが極めて劇的じゃないか。映画のストーリーでもこうはいかんぜ、キミー」と感激を語っていた。 ただ、これが最初で最後の優勝だった。歓喜から3カ月後の71年1月、永田は不振に陥った大映の経営再建に専念するため、球団経営権をロッテに譲渡し、オーナーからも退いた。膨らむ赤字にあえいでいた東京スタジアムも72年のシーズン限りで閉場となった。 (井上洋一) 鈴木孝政も少年時代にかぶりつきで見ていた醍醐はある日、バックネットの金網に手をかけて練習を見ていた子どもを注意したことがある。「僕、危ないよ、けがするよ、ってね」。その少年こそが、のちに中日で活躍する鈴木孝政だった。 「彼がプロ入りした後、オフのイベントで会った時に『僕が小学6年生の時に注意されたんです。覚えてますか』って言ってきてね。もちろん覚えていて、ビックリしたよ」と醍醐。一方、鈴木は「初めて東京スタジアムに行った時のことです。危ないのはその通りですね」と、懐かしそうに笑っていた。 【アラカルト】東京スタジアム▼所在地 東京都荒川区南千住6−45−5 ▼完成 1962年5月。6月2日の大毎−南海戦が初試合。大毎が9−5で勝利。5回の南海・野村克也の3ランが球場第1号本塁打 ▼規模 両翼91.4メートル、中堅121.9メートル。収容は公称3万5000人 ▼榎本喜八 68年7月21日の近鉄とのダブルヘッダー第1試合で、鈴木啓示から右翼線二塁打を放ち、史上3人目の2000安打達成。31歳7カ月での達成は史上最年少だった ▼野球以外にも 左翼の地下にはボウリング場を併設。シーズンオフの冬には、客席をスケートリンクにもした ▼最後のプロ野球公式戦 72年10月15日のヤクルト−阪神戦(阪神が5−1で勝利) ▼解体 77年4月1日に始まり、同年9月26日に終了。現在の跡地は、荒川総合スポーツセンター
【回想録】暗い路地を抜け、球場前に出ると「ポン」と明るくなる
東京スタジアムは「光の球場」とも呼ばれた。高層ビルが少なかった当時、住宅街の一角に明るい光を放っている様子をそう表現していた。人気漫画「こちら葛飾区亀有公園前派出所」の82巻では、主人公の両さんが子どものころ、狭い路地裏を抜けて光を放つ球場へ通う姿が描かれている。元ロッテ職員の横山が、大きくうなずいた。 「地下鉄の三ノ輪駅を降りて、車1台分くらいが通れる下町の路地を抜けて行くんです。路地はまだ暗いんですが、球場前の通りに出ると突然、『ポン』と明るくなる。本当にドキドキする感じでした」。まさに、両さんと同じ世界がそこにあった。 「珍事件」の舞台 駒沢球場1960年7月19日、駒沢球場での東映−大毎戦で前代未聞の珍事件が起きた。大毎は1−3の8回2死満塁で山内和弘(当時、のち一弘)が見逃し三振。捕手が後逸した球がバックネット前まで転がったが、東映は取りにいかず。その間に打者走者まで生還した大毎が逆転勝ち。「見逃し振り逃げ」も珍しいが、東映がルール(2死は一塁に走者がいても成立)を勘違いしていたのが原因のようだ。 元中日の谷沢健一は、この話を中日監督時代の山内から聞いた。山内自身も一度ベンチに戻りかけたが「ルールをよく知っているやつが『走れ』と言う。じゃあしょうがないから走るかとなった」そうだ。この時の東映投手は土橋正幸。谷沢は解説者で一緒だった土橋からも聞いた。「俺は三振を取ったのに、あいつら勝手に回りやがって」と話したという。 【アラカルト】駒沢球場
▼所在地 東京都世田谷区駒沢公園1−1 ▼完成 1953年9月。東急フライヤーズの親会社である東急電鉄が造り東京都に寄付。もともと駒沢公園は東急が所有。戦時中の43年に防空緑地に指定され、東京都に敷地を譲渡。48年に国有地、49年から再び都有地となった場所に、球場を造り都に寄付という形を取った ▼規模 両翼91.5メートル、中堅122メートル。収容3万人(当初は2万5000人) ▼暴れん坊 土橋、山本八郎、張本勲ら猛者が在籍。「駒沢の暴れん坊」の異名を取った ▼閉場 駒沢が64年東京五輪の第2会場に決まり、球場施設の都への返還を求められ、61年のシーズンをもってプロ野球の開催を終了。現在の駒沢オリンピック公園総合運動場内の第二球技場あたりが駒沢球場の跡地 (次回は5月10日掲載) PR情報 |