さらばウルフ!元千代の富士の九重親方、急死…がんが胃や肺などに転移

2016年8月1日6時0分  スポーツ報知
  • 91年5月、横綱土俵入りで雲竜型を披露する千代の富士

 大相撲で史上3位の優勝31度を誇る第58代横綱・千代の富士の九重親方(本名・秋元貢=あきもと・みつぐ)が、31日午後5時11分、すい臓がんのため都内の病院で死去した。61歳だった。精悍(せいかん)な顔つき、筋肉質の体から「ウルフ」の愛称で親しまれた。昭和以降3位の53連勝など数々の記録を残し、89年に角界で初めて国民栄誉賞を受賞。91年夏場所中に現役を引退、92年4月に九重部屋を継承。日本相撲協会でも重職を担った。

 大横綱、千代の富士が逝った。7月の名古屋場所を途中で休場。15年に手術を受けたすい臓がんが完治せず、31日午後5時11分、入院していた都内の病院で家族にみとられ、苦しむことなく息を引き取った。久美子夫人と長男の剛氏に付き添われ、東京・墨田区内の部屋に遺体が到着したのは午後8時12分。部屋付きの佐ノ山親方(元大関・千代大海)と幕内・千代の国ら力士6人が出迎え、ひつぎを運んだ。

 15年7月にすい臓がんの手術を受け、今年4月には体調が悪化して入院。最近がんが胃や肺などに転移していることを周囲に漏らし、体重は13キロも減ったという。ただ、7月の名古屋場所は初日から勤務し、最近の力士の稽古不足などを鋭く指摘。口数も多く、元気だったが、4日目の13日を最後に休場した。居合わせた関係者によると、重い足どりで室内に入り、いすに座ると机に突っ伏した。「きついなあ…。きついよ」とマスク越しに声を絞り出し、目を閉じた。大横綱がやせ我慢さえできないほど弱っていた。帰京後に入院。午後8時半過ぎ、玄関先で対応した佐ノ山親方によると、この日の昼に病室を訪ねて声をかけたものの「声をかけても反応しなかった」という。

 同郷の北海道・福島町の横綱・千代の山の先々代・九重親方に「飛行機に乗せてあげる」と誘われ、中学3年で上京。1970年秋場所で初土俵。抜群の運動神経と昆布漁を営む家業の船の上で鍛えた足腰に支えられ、19歳5か月で新十両に昇進。後に師匠となる横綱・北の富士(先代九重親方)が、激しい気性と鋭い眼光の弟弟子に「ウルフ」の異名を与えた。

 入幕直後から両肩の脱臼に苦しめられたが、1日500回の腕立て伏せ、20キロのダンベルを振り回す過酷な練習でけがを克服。小柄ながら一気に寄る速攻相撲を体得し、豪快な左上手投げを武器に、81年初場所では関脇で初優勝と同時に大関に昇進。同年の名古屋場所で2度目の優勝を果たして横綱に昇進した。

 言葉力も一流だった。若手のホープだった貴花田(現貴乃花親方)との対戦を周囲が望んでいると知り「早く上がってこないと俺が引退してしまうぞ」とインタビューを通じて“挑発”した。その貴花田に91年夏場所初日に敗れて世代交代を実感。2日後に「体力の限界。気力もなくなり、引退することになりました」と土俵に別れを告げた。

 89年秋場所では大潮の通算最多勝記録(当時)を更新。当時の海部総理から角界初の国民栄誉賞を授与された。相撲協会から功績を認められて一代年寄を打診されたが、「部屋を一代限りで終えたくない」と辞退。引退後は九重親方として大関・千代大海ら多くの関取を育てた。葬儀・告別式は「部屋から送り出したい」という久美子夫人の意向で、九重部屋で営まれる。

 ◆九重 貢(ここのえ・みつぐ=本名・秋元貢)1955年6月1日、北海道生まれ。70年秋場所初土俵。81年名古屋場所後に横綱昇進。優勝回数は史上3位の31回。88年夏場所から昭和以降3位の53連勝。89年に角界初の国民栄誉賞受賞。90年春場所に史上初の通算1000勝達成。通算1045勝は史上2位、幕内807勝は同3位。91年夏場所限りで現役引退。92年4月に年寄「九重」を襲名し部屋継承。08年2月に初めて日本相撲協会理事に就任。弟子の八百長関与で11年に辞任したが、12年に復帰し事業部長。14年の理事候補選挙で落選。家族は久美子夫人と1男2女。次女の秋元梢はモデル。

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