宮城のニュース
  • 記事を印刷

<仙台東西線>36年 曲折を乗り越え

地下鉄南北線が開業
藤井黎市長(当時)が東西交通軸を地下鉄として整備する方針を示しルート案を公表
本体工事に着手
最初のトンネル「青葉山トンネル」が貫通

 仙台市地下鉄東西線の開業までには長い道のりがあった。故島野武市長時代の1979年に市審議会で計画が提案されて以来、JR仙石線の延長やモノレール整備案などが浮上。西は茂庭団地、東は仙台港までの延長も長期目標として検討され、曲折をたどった。
 総事業費2298億円の巨大事業だ。採算面での不安から具体化は進まず、98年にようやくルート案が公表され事業が動きだした。2007年の本体工事着手後は東日本大震災に見舞われ、東の起点の荒井駅では震災復興施策が進む。東西線は復興まちづくりの一端も担うことになった。

<東西線開業までの歩み>
1979年 8月 仙台都市圏交通計画懇話会で東西線計画が初めて公式提案される
  81年    JR仙石線と相互乗り入れによる仙台―西公園駅ルートの整備方針を固める
 85年〜86年 モノレール南西線(西公園―茂庭団地間)の原案完成
  87年 7月 地下鉄南北線が開業
  89年 4月 仙台市が政令指定都市に移行
  91年 3月 石井亨市長(当時)が仙石線の西公園延長の断念と南西線を東部地域に延ばす計画検討を表明
  92年 7月 南北線が泉中央まで延長
  93年 7月 仙台市議会が東西交通軸促進調査特別委員会を設置
  95年 3月 東西線建設促進期成同盟会が早期実現を求め19万人分の署名を市に提出
  98年 8月 藤井黎市長(当時)が東西交通軸を地下鉄として整備する方針を示しルート案を公表
2000年 3月 ルートをリニアモーター式車両の導入を正式決定
     10月 駅の位置と駅名(仮称)を発表
  02年12月 国が東西線を補助事業に新規採択し、事業化が決定
  03年 9月 国が事業認可
  07年 2月 本体工事に着手
  09年10月 最初のトンネル「青葉山トンネル」が貫通
  11年 3月 東日本大震災
      6月 震災で中断していた工事が再開
  12年 5月 車両の製造開始
      7月 市が1日当たりの需要予測を11万9000人(03年試算)から8万人に下方修正
  13年 7月 トンネル採掘工事が完了し全線貫通
  14年 9月 車両の搬入開始
     11月 開業日を15年12月6日とすることを発表
  15年 3月 車両が線路を走る入線試験始まる
      7月 全15編成の車両搬入が完了
      8月 運転士の訓練開始
     11月 国が完成検査を実施
     12月 開業


◎軌跡/モノレールからの転換に難儀/仙台市東西線建設本部 初代本部長 高橋秀道さん(65)

 仙台市の第三セクター、仙台交通の前社長高橋秀道さん(65)は、市職員として長く東西線計画に携わり、市東西線建設本部の初代本部長も務めた。事業化に至る経緯と開業への期待を語ってもらった。

 東西線事業はもともと、JR仙石線の地下化に伴う西公園までの延長と、西公園から太白区の茂庭団地までをつなぐモノレール整備という二つの計画を合わせたものだった。(事業が公式提案された1970年代)当時の市の課題は西部開発。広がる住宅地に合わせた交通機関の整備がテーマだった。
 しかし仙石線の延長は難しく、青葉山にモノレールを通すのも困難と判明。市の開発も西から東に重点が移り、東部に延びるルートに変わった。
 当時は中央省庁再編(2001年)以前の時代。地下鉄は運輸省(現国土交通省)、モノレールは建設省(同)と担当が分かれていた。モノレールを推進したい建設省の調査費を使っていたこともあり、地下鉄への方針転換が簡単にはできなかった。
 市内部でも採算性を理由に慎重論が根強くあった。国との窓口役も務めたが「いいかげん決断してほしい」と国から何度も言われたことを覚えている。
 紆余(うよ)曲折あったが実現して本当に良かった。建設時期がデフレ期と重なり、建設費の高騰がなかったのも幸運だった。インフラ整備はタイミングを逸すると実現しない。既存の南北線とともに十字型の強固な都市基盤が完成した。


関連ページ: 宮城 社会

2015年12月05日土曜日

  • 記事を印刷

先頭に戻る