初恋〜浅き夢みし 価格:¥ 1,529(税込) 発売日:1990-10-15 |
76年の、浜田省吾&バンバン・ジョイント・コンサートの最終日は静内だった。どうして、日高の静内なのかといえば、PAを担当していた札幌ウイークエンド・ステージ・サービスの社長、土田さん(小栗秀秋さんがぬけて、小島紳二郎さんが社長になる前のこと)の依頼だった。地元の電気屋が買ったのだ。しかし、静内でだいじょうぶなのか。札幌でさえ、大谷会館のチケットが400枚たらずしかはけてない。結果はやはり、さんざんな入りだった。
このツアーは、「『いちご白書』をもう一度」がヒットしていたので、バンバンがトリだったが、札幌・大谷会館だけは、東京でラジオ番組があるというバンバンが、先に出演した。トリは、浜田さんだ。もちろんバックバンドは、帯広の3人だ。ドラム・田中やすおくん、ギター・東川佳人くん、ベース・門脇優くん。そして、リードギターは、町支寛二さんだ。
バンバンというバンド名は、きっと1966年に大ヒットしたソニー&シェールの「バンバンBang Bang (My Baby Shot Me Down)」からとったのだろう。この曲は、日本では67年にナンシー・シナトラのカバーでも大ヒットした。タランティーノ監督、ユマ・サーマン主演の映画「キル・ビル」のオープニングは、このナンシー・シナトラ・バージョンの「バンバン」だった。
ソニー&シェールのオリジナルは、300万枚いじょう売れた。当時としては超ビッグヒットだろう。作者でプロデューサーのソニー・ボノは、88年パーム・スプリングの市長になり、その後カリフォルニア州選出の下院議員を生涯つづけた。シェールは、「月の輝く夜に」でアカデミー主演女優賞をとった名優で、シンガーとしても、いまもワールドツアーをつづけるビッグアーティストだ。
帯広には、バンバンという店がある。ライブハウスだ。マスターの中山さんがもう30年もがんばってやってる。たいしたものだ。このバンバンに、村下孝蔵が出演したことがあった。マネージャーの嶋田さんは、かって荒井由実のマネージャーだった。わたしとは、1975年と76年、荒井由実の北海道ツアーでいっしょに旅をした仲だった。
村下孝蔵が、「初恋」というシングルで勝負するので、まず北海道をこまかく回りたい、ライブハウスをブッキングしてくれないか、と嶋田さんから電話が入った。「もう派手なのはやりたくない。地道にじっくりと聴かせるアーティストをやる」、嶋田さんがアルファー・ミュージックで担当した荒井由実は、ブレークしたあと、結婚して松任谷由実になり、雲母社をつくり独立した。どんな敏腕マネージャーでも、力をそそいだアーティストが、ブレークして独立していけば、また一から新人を育てなくてはならない。
アルファー・ミュージックは、作曲家の村井邦彦がつくった会社だ。JR田町の駅から飛行機を描いた白い派手なビルの壁がみえたものだが、いまはもう、そのビルはみえない。村井邦彦は、トワ・エ・モアや赤い鳥の作曲者でプロデューサーだ。トワ・エ・モアの札幌オリンピックのテーマ曲「虹と雪のバラード」「或る日突然」、赤い鳥の「翼をください」、ピーターの「 夜と朝の間に」、辺見マリの「経験」、そしてザ・モップスの「朝まで待てない」、村井邦彦作品には、あの時代の大ヒットがたくさんある。YMOイエロー・マジック・オーケストを世界ヒットさせたのは、アルファー・レコードだ。
荒井由実は、赤い鳥のファンで高校生のときから、田町のアルファー・ミュージックの事務所に出入りして、コピー取りの手伝いをしたりしていた。そしてユーミンは、アルファー・ミュージックからデビューする。赤い鳥は解散して、紙ふうせんとハイ・ファイ・セットにわかれる。ハイ・ファイ・セットが、松任谷由実の「卒業写真」や「冷たい雨」や「中央フリーウエイ」をカバーするのは、こういういきさつもある。同じ事務所の先輩後輩の仲なのだ。
バンバンのライブが終わって、村下孝蔵さんと話をした。浜田省吾が、帯広では特別人気がある、という話題になった。村下さんは、浜田さんが北海道から火がついたことを知っていた。浜田さんと町支さんは、広島フォーク村の仲間で、いっしょに演奏したこともある、という。村下孝蔵さんは、九州・熊本の人だが、広島のヤマハで調律師をやりながら、音楽活動していたのだ。
会場の名前ははっきり覚えていないが、とにかく新しいきれいな
会場でした。
他の五ヶ所のコンサートから少し間を空けてのステージで少し
慣れてきた事と北海道最後のコンサート、しかも会場も立派で
楽屋も非常に居心地が良く、リラックスして最後を終えた様な
記憶があります。
楽屋では恒例になっていたアメリカンページワンを皆でやって
いたはずです。
このトランプは浜田さんと私ばかりが勝っていたと記憶しています。
たしかホテルで最後のさしの勝負と言うことで、勝っていた者同士の
浜田さんと私の一発勝負で私が負けた記憶が鮮明に残っています。
そう言えばシェールの話が出ていましたね!
けっして超美人と言う訳では無いですが、妖艶な雰囲気が強烈な
なんとも言えないイイ女でした。 ソニーと離婚後に
シェールがソロになってから、あのデュアン・オールマンの弟であるグレッグ・オールマンと結婚して一緒にアルバムも出しました。
けっこう好きなアルバムでした。
その後破局してから、キッスのベーシスト「ジーン・シモンズ」と恋に落ちて・・・なんて恋多き女性のイメージもあります。
若い時の彼女は外見だけの印象が強くかったんですが
役者になってからの活躍等を見てもやっぱただ者ではなかったんですね!
彼女の母はハリウッド女優でチェロキー・インディアンの血を引いているという事を後で知りました。
あのエキゾチックな雰囲気と役者の成功は裏づけされたものだったんです。
楽屋でも、ホテルでも、
アメリカンページワンが、ずいぶん流行ったけど、
優勝者が、浜田さんだったとは、
知らなかった。
ずいぶん昔のことだけど、きのうのことのようだね。
思い出せば、楽しい旅だった。