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★1998年5月20日 朝刊
<20世紀−そして未来へ 北の記憶>2

ヒグマの森に人は踏み入った 時は開拓最盛期 行き場失う野生

 留萌管内苫前町古丹別の商店街。どの店の壁にも同町のシンボル、ヒグマのかわいいイラストが描かれている。ここから「ベア・ロード」と名付けられた道道を十数キロ行った三渓(さんけい=旧字名、三毛別)の神社境内に「熊害(ゆうがい)慰霊碑」が建つ。

 建立者は地元でクマ撃ちの名人といわれた大川春義(故人)。碑には一九一五年(大正四年)十二月九、十両日、三毛別の通称「六線沢」で、クマに襲われて命を失った開拓農家七人の名が刻まれている。当時、大川家にはクマ狩り本部が置かれ、春義は「子供心にも惨事の再来を防ぐ為(ため)一生を賭(と)して熊退治に専念」(碑文から)すると決意。六十二年後に百頭目を射止め、慰霊碑を建立したという。

 北海道最大の獣害事件といわれるこの惨事は、木村盛武(78)=札幌市在住=が古丹別営林署に勤務していた六〇年代、克明な聞き取り調査を行い、広く知られるようになった。

 木村の報告によると、クマは冬ごもりの機を逃した「穴持たず」。はじめに一軒の二人を襲ったあと、その通夜の席に再び侵入した。しかし、発砲されて逃走、その足で別の農家に避難していた五人の命を奪った。近隣町村の男たちで編成した討伐隊も一時はなすすべがなく、農民らを恐怖のどん底に突き落とした。クマは事件の直前、飢えをしのぐためか、農家の軒先のトウモロコシをあさっているところを撃たれ、傷を負っていた。

 作家の吉村昭は七七年、この惨事を題材に小説「羆嵐(くまあらし)」を発表し、それがテレビドラマにもなった。最近では九六年から、戸川幸夫作、矢口高雄画の漫画「野生伝説 羆風」が月刊誌に長期連載された。地元には郷土芸能「苫前くま獅子舞」も生まれ、開拓民の苦闘を今に伝えている。

 晩年の大川春義に同行し、クマ撃ちをした長男の高義(61)=農業、同町三渓=は「あの事件のあと穴持たずは現れない。犠牲者はたまたま運悪く、おかしなクマにぶつかったとしか思えない」と振り返りながら、「クマのすみかを荒らしたのは人間だから、どちらが悪いのかいえないというのが矢口さんの漫画でしょ。今はそれも本当だなと思う」ともいう。

 北海道の開拓は自然との闘いの歴史だった。苫前町三渓出身の元道開拓記念館学芸部長、関秀志(62)=江別市在住=は開拓の進展と、それに伴う自然の変化を五つの時代に分けて分析している。

 そのうち江戸時代後期から明治中期の漁場開拓期は、ニシンかすを製造する薪が大量に必要だった。このため、明治半ば過ぎまでにニシン漁場周辺の海岸地帯の森林は伐採し尽くされ、自然景観が大きく変わったという。

 それ以上に環境の激変をもたらしたのは明治後期から大正中期に盛んに進められた内陸部開拓。国の拓殖政策を背景に国有未開地が大量に処分され、北海道の耕地面積は一八八七年(明治二十年)の三万ヘクタールが三十年後には七十五万ヘクタールに急増。この間、人口も三十七万人から一気に二百九万人へと膨張した。

 苫前町の惨事はこの内陸部開拓の最中に起きた。北海道のクマの生息密度の高さは少なくともそのころ、世界有数だったといわれる。「開拓の進展でクマの生息域が急速に狭まり、そこに人が入っていくのだから、トラブルが起きても不思議ではなかった」と関は話す。

 似たような人と野生動物のトラブルは今、アジアの途上国でも起きている。マレーシア・サバ州では森を焼き払って造成したヤシのプランテーションにゾウが戻り、人家の周囲のバナナなどを食べる。それを追い払おうとした人が踏まれて死ぬことがあるという。

 国際協力事業団(JICA)から九〇年代前半、現地に派遣され、オランウータンの保護に当たった獣医師、赤松里香=札幌市在住=は語る。「ゾウをすみかから追う結果となっても、地元の人は農園を作らないと食べていけないのが現実。人類はいつまで同じことを繰り返すのだろう」

 ヒグマはオオカミとともに有害獣とされ、道庁は明治以来、駆除一辺倒の政策をとってきた。残雪期に効率よくクマを捕る春グマ駆除が廃止されたのは、つい最近の九〇年春。クマの生息域は狭まり、各個体群が孤立したため、石狩西部の地域個体群は環境庁のレッドデータブックに掲載されている。

 人が死亡する事故も減った。道は五五年からクマの捕獲数と被害状況をまとめているが、人身被害は六〇年代前半が最も多く、五年間で十六人が亡くなっている。その後は漸減し、八〇年以降は八五年(一人)と九〇年(二人)以外に死亡した人がいない。クマにけがを負わされる事故は今もある。だが、最近はむしろスズメバチによる被害が目立ち、九一年から六年間で計八人が死亡している。それでもなお、「クマには潜在的な危険性がある」と恐れられるのはなぜか。

 「クマに出合ったらどうするかの対処法に古今東西、決定版はない。頭がよく憶病な一方、力は強く、時にはずうずうしくなる動物だから、人間のかなわないところがある」というのは道環境科学研究センター(札幌市)研究員の間野勉。クマが擬人化されて民話に登場したり、畏怖(いふ)の対象となってきたのはこのせいではないかという。「むやみに人を襲うわけではないから、必要以上に怖がる必要はない。要は謙虚にクマとつき合うことだ」という。

 同センターの出先機関「道南地区野生生物室」が今年四月、檜山管内江差町に開設された。生態調査を行い、クマの保護管理のための技術開発に取り組む。歴史の相克を越え、野生と折り合いをつける試みはようやく始まったところだ。(敬称略)

 三塚昌男編集委員


<メモ>

 ヒグマは食肉目クマ科。北米やロシアなど北半球に分布しているが、西欧ではピレネー山脈など一部に残るだけ。北海道に生息するものは亜種「エゾヒグマ」とされる。雑食性で木の実やアリなどを食べているが、最近は胃の内容物からシカのほか、弁当の残飯が出てくることがある。食べ物への執着心が強く、残飯を山中に放置することはクマを呼び寄せるのも同様の危険な行為とされる。北米では登山客の食料を特別なコンテナに保管し、臭いが漏れないようするなど徹底した安全対策が行われ、テント内の調理も禁止されているという。


1915年12月 留萌管内苫前町でクマが開拓農家に侵入し、7人死亡
   23年8月 空知管内沼田町で夜道を歩いていた家族がクマに襲われ、出動した猟師と合わせ4人が死亡
   63年4月 市町村のクマ駆除に道が補助金交付開始
   66年4月 春グマの計画的駆除事業開始
   70年7月 日高山脈でクマが福岡大生のテントを襲い、3人死ぬ
   98年4月 道が檜山管内江差町に道南地区野生生物室を開設

★2002年6月11、12日 夕刊
<私のなかの歴史> 春告獣(はるつげじゅう)とともに

 野生動物研究家 木村盛武(きむら・もりたけ)さん

(8)苫前事件

 絶叫 哀願 人食いグマの惨事

 私が苫前村(現留萌管内苫前町)三毛別(さんけべつ)で起きた人食いグマの話を父から聞いたのは四、五歳ころのことです。事件は私が生まれる五年近く前の一九一五年(大正四年)十二月に起きました。雪深い開拓村をヒグマが襲い、死者六人(臨月の胎児一人と後遺症で後に死亡した一人を加えれば計八人)、重傷者二人という、記録に残るクマ被害としては日本最大の事件です。

 幼い私は、妊婦の腹から胎児がかきだされ、通夜の晩にまたこのクマが暴れこんだなど、凄惨(せいさん)な話を聞かされて恐ろしさに小用に行けなかったのを覚えています。のち、脳裏に焼きついたこの事件と私は真正面から向き合い、埋もれた記録を発掘することになったのです。

 終戦の年に海軍から遠軽営林署に復帰した私は次いで中頓別、幾寅、幌加内と道東北の各営林署をまわったあと六一年、奇しくも、事件があった苫前町の古丹別営林署に赴任しました。

 その数年前から事件を調べていましたが、役所に資料は何もなく、当時の新聞のつづりを見ても簡単な記述しかない。しかも記事と人に聞く話とではずいぶん違いがある。真相は分からず、これでは亡くなった人が気の毒です。日曜、祭日返上で聞き取り調査に歩きました。古丹別在任の四年間に、被害者、遺族をはじめ討伐隊に加わった人ら三十数人から証言を得て、事件から五十年目にして初めて詳しく正確な記録を世に出すことができたのです。あらましはこうです。

 −十二月九日午後、三毛別の通称六線沢で開拓農家が荒らされ、六歳の男児が死亡しているのが見つかり、三十四歳の主婦が行方不明になっていた。床は血の海、天井まで血痕が飛び散り、血まみれのまさかりや手形が残っていた。翌十日朝、捜索隊が近くの林で巨大なクマを発見、銃撃したが逃げられる。そこに食い荒らされ頭と両足だけの主婦の遺体があった。

 その通夜の最中にクマが暴れこみ棺おけをひっくり返し遺体が散らばった。発砲を受けてクマは逃げ去ったが、今度は約五百メートル離れた別の家で絶叫が上がった。討伐隊数十人が包囲したが、真っ暗な家の中から泣き叫ぶ声と何かをかみ砕く音、さらに「腹やぶらんでくれ、のど食って殺して」と哀願する声が聞こえた。中には生存者がいるのでうかつに銃撃できず、空に向けて発砲したところ、クマが飛び出し、取り逃がした。ここでは臨月の胎児を含め計五人の命が奪われ、三人が重傷を負った。うち一人は後遺症から二年八カ月後に死亡した−。

(9)真相を発掘

 粘り強く遺族訪ね歩き

 −二日間に十人を殺傷したヒグマの襲撃に恐慌状態に陥った苫前村(現留萌管内苫前町)三毛別(さんけべつ)の開拓農民は、集落を挙げて分教場に避難。それを尻目にクマは家々を襲い続け、十戸が侵入された。

 クマが付近の山中で猟師山本兵吉さんによって射殺されたのは、事件発生から実に六日目の朝のことだった。体長二・七メートル、体重三四〇キロ。七、八歳の雄だった。討伐隊の動員は小平、羽幌方面まで及び、延べ約六百人が出動。用意された鉄砲は六十丁だった。その日から西海岸一帯に連日暴風雪が荒れ狂った。村民は「クマ風」と呼んで語り伝えた−。

 事件を振り返るとき、いろいろな教訓が得られます。このクマは冬ごもりの時期を逃した「穴もたず」で厳冬期でも餌を求めてどん欲に動きます。しかも、事件の前にも人家を襲った前科があり、味をしめているのです。

 三毛別地区はクマの出没の多いことで知られていましたが、人身被害がなかったため住民に油断がありました。討伐隊が連携プレーを怠り、初動段階で手負いにしてしまったのも被害を大きくしました。通夜の席を襲ったのは、獲物を奪い返す当然の行動で、遺体を移し家を空けておくべきでした。

 私は、時の流れに埋もれかけていたこの事件の真相を発掘し、記録を残そうと関係者を訪ね歩きました。事件記録は最初に「獣害史最大の惨劇苫前羆(ヒグマ)事件」のタイトルで旭川営林局誌「寒帯林」の一九六四年十二月号に発表しました。まさに五十回忌の年です。その後、数冊の著書にしております。

 遺族の一人で、妊娠中の母親と弟二人を失った武田ハマさんは事件当時十三歳。私が訪ねた六一年当時は六十歳近かったが、事件を思い出したくないと、二度玄関払いを食わされました。だが、三度目に畑で農作業中に誠意を込めてお話しすると、氷が解けるように余さず詳しく語ってくれました。真意が通じたことに感謝したものです。

 記録発表は多くの反響を呼び、事件は全国に知られるようになりました。作家戸川幸夫先生は小説「羆風(くまかぜ)」(「小説新潮」六五年八月号)、同じく吉村昭先生も「羆嵐(くまあらし)」(新潮社、七七年)を発表。倉本聰先生の脚本でラジオドラマ(TBS−HBC、八〇年)になり、舞台も芸術名作劇場が公演(八六年)しております。

 私はクマ被害防止に役立てればと、それぞれに情報提供、現地案内などのお手伝いをして、少しでもこの惨劇が広く知られるよう努めました。

(聞き手・花摘泰克)
(きむら・もりたけ)


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