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民話集9・10

[2012年1月23日]

9、万福寺の鐘

万福寺の鐘イメージ画像

飯能から名栗行きのバスが永田のバス停を過ぎると、右手の高台に裏山の緑を背にした万福寺の鐘楼が見えます。
 この鐘つき堂から流れる釣り鐘の音の良さには、こんないわれがあります。
 江戸時代、徳川五代将軍綱吉は犬公方と言われ、犬をかわいがっていたため、江戸のあちこちで犬騒動が起きました。「やれ、犬をいじめた」「やれ、犬に餌をやらなかった」というだけで、重い罰を受けたのです。
 江戸の護国寺にいた徳の高い隆益(りゅうえき)というお坊さんも覚えのない犬騒動に巻き込まれてしまいました。将軍に誤解されて身が危なくなったので、護国寺の別院万福寺に逃れ、ここにかくまわれました。
 時がたち、ある日、将軍の使いが隆益を訪ねてきて、「和尚様、長い間ご不自由をなさったでしょうが、あなた様には何の罪もなかったことがはっきりいたしました。将軍様も誤解だったと後悔され、この品々をお届けするようにと言いつかってまいりました」。そして、金銀のかんざしや飾り物を差し出しました。
 これを受けた隆益は、万福寺の和尚様の前の手をついて、「無罪の身となって、元気に江戸へ帰れるのは一重にかくまってくださった万福寺様のお陰です。今日までのご恩は決して忘れません。将軍様がくださったこのような金銀のかんざしや贈り物は僧侶の私にはまったく用のないものです。この品々を鋳込んで釣り鐘を作らせ、お世話になったお礼に寄付いたしましょう」と言いました。
 このように万福寺の釣り鐘には、金銀が鋳込まれているので、特に音色が美しいということです。

10、子(ね)の権現の伝説

万福寺の鐘

子の山を開いたという子の聖(ひじり)には、幻想的な伝説が多く残っています。
子の聖の誕生
 天長9年(832年、子の年)、紀伊の国(今の和歌山県)で、子の月、子の日、子の刻に生まれたと言われています。
開山
 子の聖は、みちのくの出羽の月山で長い年月の修行を終えて山を下りるとき、聖地を求めて持っていた般若経を投げました。その落ちた所が子の山だと言われています。
 子の聖が、落ちた般若経から発する光を頼りに、はるばるこの吾野の地に着いたところ、山に住んでいた鬼たちが聖の開山を妨げようとして山に火を付けました。火はたちまち全山に燃え広がり、聖は衣に燃えついた火のために、やけどを負い、聖はもはやこれまでと思い、座って両手を合わせて、「火坑変成池(かこうへんせいち)」「火坑変成池」と一心に念じました。すると、たちまち黒雲とともに天竜があらわれて大雨を降らせ、火を消し去りました。
 こうして、聖は子の山を開くことができたと言われます。このため、この寺は天竜寺とも呼ばれます。
竜鱗石(りゅうりんせき)
 天竜寺の宝物に、竜鱗石という直径2センチメートルほどで瑠璃色の石があります。これは、天竜があらわれて大雨を降らせ、火を消し止めたとき、天竜の鱗(うろこ)が1枚落ちて石になったと言われています。
飯森杉(めしもりすぎ)
 子の権現の社の登り口に2本の老木があります。これは、子の聖が初めてこの山に登ったときに、ここで休んで昼食をとり、このときに使った杉の箸(はし)を地に刺したものが根付いて大きくなったものだと伝えられています。

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