2009年4月25日
尾崎の瞳に映ったもの -その1-
一人のアーティストの人生を振り返るということは、彼の生きていた時代や風俗やその時代の風景を追体験するということでもあります。その時代の出来事、その時代の風俗、その時代の風景と、その時代を生きたアーティストの作品とのあいだには深い関係があります。尾崎は短い人生の中で瞳に映ったものに何を感じとり、それをどのように作品に残していったのか、尾崎の幼少のころから中学時代ぐらいまでの彼が、見てきた風景をまず振り返って見ましょう。
(練馬区春日町)
尾崎が幼少のころに暮らした練馬区の富士街道近くの春日町都営住宅は、残念ながらもう今はありません。
尾崎一家が暮らした場所の近くに大江戸線の練馬春日町駅ができ、環八の大規模な道路が通り、開発されて昔ののどかな風景は、すっかり失われてしまいました。尾崎が暮らしていた当時は、大江戸線も池袋−成増間の有楽町線も副都心線もなく現在の練馬区を横切る環状八号線もまだ通っておらず、尾崎家もよりの駅は西武池袋線の豊島園駅でした。
尾崎が暮らした都営春日町住宅は、平屋建て昭和25年築木造の住宅(豊が生まれたばかりのころは6畳2間で親子4人暮らし、その後許可をもらって庭に4.5畳の仮部屋を建て増し)でした。
住居部分は小さかったのですが、敷地は一軒あたり30坪近くもありゆったり作ってありましたので、庭は広く尾崎のお父様はそこに池を作ったりし、もぐらなどもいました。
「小さな家で生まれ、大きくて温かい愛の温もりの中で育った。小さな焚火が出来る程の庭があった。(-普通の愛)」
まわりにはキャベツ畑や芋畑があり原っぱもたくさんありました。
尾崎家が暮らした春日町の少し北、現在の防衛庁宿舎の付近一帯、田柄のあたりには、その面影が残っています。
このあたりは東京23区内といえど、時の流れに取り残されたかのように、今も畑や空き地がたくさんあり、
子育ての環境にとってすばらしい場所で、尾崎一家が朝霞市に引っ越す前まで、手狭で裕福ではない暮らしではありましたが
尾崎が、その環境の中ですくすくまっすぐに育っていった様子を思い浮かべることができます。
尾崎の通った練馬区田柄保育園
現在のパークタウン光が丘ゆりの木通り(板橋区)の近くにあり、尾崎一家の住んでいた春日町都営住宅からは少し遠かったので、次年度に練馬区春日町第二保育園に転園しました。保育園時代からの幼馴染は、終生尾崎の良き友でした。
この、春日町第二保育園や尾崎兄弟がともども通った練馬東小学校、後に朝霞市から越境通学することになる練馬東中学校は、かなり近いエリアの中にあります。
尾崎は「自分の第一の故郷は練馬で、第二の故郷は朝霞」と言っていたのですが、とりわけこのエリアが尾崎の原風景-故郷の風景ということになるのでしょう。
(埼玉県朝霞市)
春日町都営住宅が家族4人で暮らすには手狭であったために、尾崎一家は埼玉県朝霞市溝沼に家を建てて引っ越します。
豊、小学校5年生の二学期の時でした。朝霞市立第一小学校に転校しました。
この引越しが尾崎の人生にとっての最初のターニングポイントだったと言えます。現在でもいろいろな学校で転校生にありがちな、いじめと仲間はずれを経験し、登校拒否児童になってしまったのです。
しかし習っていた躰道(空手)のおかげか、この登校拒否の原因となったいじめのボスと喧嘩をして打ち負かし、兄の康さんの使わなくなっていたギターを練習し上達することでいじめ仲間に認められ、みずからその登校拒否を乗り越えます。「ユタちゃん」と呼ばれていた優しい少年は、理不尽な仲間はずれによる疎外感とその克服を経て、この頃からだんだんと「尾崎豊」としての自我を身にまとっていったのです。
尾崎は、その後学級委員委員になるくらい人気者になったのですが、練馬とその仲間たちへの思いが忘れられず、また学級委員になった後にも、校内でちょっとした暴力問題を起こして、学校を飛び出し秋葉原に行くということがあったりして、家族も朝霞の転校先の仲間には完全には馴染めないと考え、中学校は練馬東中学校へ越境通学することになりました。
朝霞のことを歌った曲には「坂の下に見えたあの街に 」があります。
滝の根公園(-尾崎中高生頃はただの小山でしたが今はきれいな公園になっています)のすぐ北側にこの坂はあります。
こちら
「まとまった金を貯め ひとり街飛び出して行くことが
新しい夢の中 歩いて行くこと」
(-新しい夢を実現するために一人で「街」を飛び出す尾崎)
「俺は車を止めて手を振っていたよ 坂の下暮れていく街に」
(-坂の下で暮れていく街にサヨナラをする尾崎)
「坂道登りあの日街を出たよ いつも下ってた坂道を
家飛び出して来たのは それより上目指してたから」
(-上を目指すために、坂道を下るのではなく上って「街」を出た尾崎)
「やがて俺も家族を持ち 同じように築き上げるだろう
何もかも分け合って行くようにね 」
(-家族から自立していく尾崎、しかし同時に家族への愛も感じさせます)
このように朝霞の実家は尾崎にとって、自立して巣立っていく対象でした。
(練馬東中学校)
そうして練馬東中学校に入学し、東武東上線で朝霞駅-下赤塚駅を往復する毎日が始まりました。
(溝沼の実家へは朝霞台駅も近いようですが、尾崎はおもに朝霞駅を使ってたようです。また練馬東中学校は現在では最寄り駅は「平和台」か「練馬春日町」ですが、前述のとおりこの頃は両線ともありませんでした。)
この練馬東中学校時代には、校内でタバコを吸うなどなど数々の事件を起こします。
(校舎の裏タバコをふかして 見つかれば逃げ場もない -「15の夜」)
また喧嘩も日常茶飯事で、中学1年生にしてすでに172cmあった身長と、躰道で鍛えた腕っ節は、卒業していく3年生の上級生グループに売られた喧嘩を買い、相手をボコボコの返り討ちにするほどでした。
70〜80年代当時の練馬東中学校は、通称ネリトウまたはネリトンと呼ばれ、代々練馬区で最強の不良グループがいるということで有名な学校だったそうです。
それから高校生時代にかけて音楽、ナンパ、喧嘩、バイクに明け暮れる日々。当時練馬で同級生だった方々の中には、グループの仲間ともどもかなりのワルだったという話をされる方もいらっしゃいます。
それは確かに非行なのですが、この頃すでに尾崎はそういう悪さをしながらも、客観的に自分を見つめ作品として昇華する才能があったと評されています。ただの非行ではなく、まず飛んでみて、その後客観的に考える「飛考少年」だったと言えるかもしれません。
尾崎は東武東上線の始点駅である池袋には、中学をさぼってよくやってきました。
中池袋公園(豊島区役所・豊島公会堂のすぐ近く)で時間をつぶし、そのまわりにある楽器屋に通い、よくギターを見てまわりました。
イケベ楽器、クロサワ楽器(店舗の場所が昔とは少し違います)、ヤマハ池袋店などです。
池袋には1973-1978年にかけて複合都市施設サンシャインシティが建てられました。今でも池袋のランドマークとなっている60階建ての複合都市施設
ビルです。
サンシャインシティの完成オープンした1978年は尾崎が中学生になった年で、練馬東中学校の4階の校舎の窓からこのビルと新宿の高層ビル街がよく見え、
「落書きの教科書と 外ばかり見てる俺
超高層ビルの上の空 届かない夢を見てる」という「15の夜」の歌詞に反映されています。
(尾崎の告別式の日、小雨の中、文京区の護国寺からこのサンシャインシティまでファンの列ができていたことが思い出されます。)
池袋駅のすぐ近くにはタカセ洋菓子店の本店もありますね。誕生日のたびにバースデイケーキをお父様が買っていったタカセ洋菓子店は板橋店(板橋工場-東武東上線下板橋)のほうになります。こちら