戦争と神宮
【5】戦意高揚へ誇大発表
1945(昭和20)年1月14日午後2時50分、外宮宮域に高性能爆弾6発が落とされた。その4時間半後、ラジオが大本営発表を伝えた。「斎館2棟、神楽殿5棟崩壊せり」
だが、当時の神宮の日誌は記す。「発表は誇大で神宮職員をも一驚せしめた」。実際の被害は、軒先や戸障子などが破損。板塀が倒れ、爆風で屋根数カ所に穴が開いた程度で済んだ。
それでも翌15日、新聞は大本営発表のまま「醜弾、伊勢の神域を汚す」「米、鬼畜の本性を現す」と報じ、「神ながらの国、神ながらの民族に対するこれ以上の挑戦はあろうか」とあおった。内務大臣は、おわびの参拝のため飛行機で県内に入った。17日には東京で「一億総憤激大会」が開かれた。
元防衛庁防衛研究所戦史部主任研究官の軍事史家、原剛(74)は推察する。
「戦意高揚のため誇張して発表したのかもしれない」
旧制宇治山田中学1年だった川村守一(しゅいち)(80)は大音響に驚き外宮に走った。五丈殿近くに直径約10メートルのすり鉢状の穴が開いていた。
そこでは大人たちがささやき合っていた。「日本人の精神的なよりどころを狙ったんじゃないか」「やっぱり危ないと思っていた」。心のどこかで神宮の加護や神風を信じていた川村の疑念が、次第に膨れた。
空襲は続いた。4月7日には内宮に近い山林に500キロ爆弾8個が落とされ、宇治橋の衛士見張所などのガラス60枚が割れた。宮域林では火災が起きた。5月14日には、皇学館大学寄宿舎2棟が全焼した。
そして7月28日深夜。2日前に上空からまかれた予告ビラ通り、B29の編隊180機が津や伊勢などの上空を襲った。川村は形容する。「ピアノの鍵盤を全身で一度にたたいたような、それは不気味な爆音だった」
外宮は約2時間、焼夷(しょうい)弾投下にさらされ、その殻はトラック3台分に及んだ。内宮にも3回に分けて無数の焼夷弾が落とされた。
市街地は火に包まれた。防火用水はカラカラにかれ、熱気で目を開けていられなかった。川村は消火をあきらめ、横殴りに火が襲ってくるなか走った。神宮への類焼を防ぐため、民家が強制疎開させられた跡の外宮前の空き地に逃げた。
「よう命があったな、という感じでしたね」
十数回の空襲で両宮の社殿は無事だったが、市街地は6割が焼失。犠牲者は100人を超えた。=敬称略(中村尚徳)
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