小野田寛郎プロフィール
略歴
平成24年1月現在 | ||
大正11年(1922) | 3月 | 和歌山県亀川村(現・海南市)に生まれる 男5人、女2人の5番目・4男 旧制海南中学校時代は剣道に熱中、県下有数の剣士だった(現在5段・錬士) |
昭和14年(1939) | 3月 | 旧制海南中学校卒業後、商社員として「田島洋行」漢口(現・武漢)支店勤務。 |
昭和17年(1942) | 12月 | 和歌山歩兵第61連隊に入隊、同年同日歩兵第218連隊に転属 |
昭和19年(1944) | 1月 | 久留米第一予備士官学校に入学 |
8月 | 同校卒業 | |
9月 | 陸軍中野学校二俣分校に入学 | |
11月 | 同校卒業 | |
12月 | フィリピンに派遣 比島派遣軍指令部参謀部付 ルバング島に派遣 遊撃指揮・残置諜者(注記説明)の任務を与えられる。 ー(以来、30年間 任務解除の命令を受けられないまま戦闘を続行)ー |
|
昭和49年(1974) | 3月 | 作戦任務解除命令を受け 日本に帰還 |
昭和50年(1975) | 4月 | ブラジルに移住 約1200ヘクトアール(1200町歩)の牧場を開発10年後に軌道に乗せ現在1800頭の肉牛を飼育 |
昭和53年(1978) | 12月 | 移住地の日本人会を設立 初代会長に就任4期8年を勤め 以後顧問に就任 |
昭和59年(1984) | 7月 | ルバング島の経験を生かし、キャンプを通して逞しい青少年育成のため「自然塾」を開く |
平成元年(1989) | 3月 | (財)小野田自然塾創立発起人会を開催 帰還15周年を節目として プレスセンターに於いて財団創立を発表 |
6月 | 財団法人小野田自然塾設立 理事長に就任 | |
平成3年(1991) | 8月 | (財)小野田自然塾本部施設完成 |
平成4年(1992) | 5月 | 本部開塾・活動開始 |
平成11年(1999) | 11月 | 文部大臣より社会教育功労賞を受賞 |
平成12年(2000) | 6月 | 北陸大学講師 |
平成13年(2001) | 4月 | 拓殖大学講師 |
平成16年(2004) | 12月 | ブラジル国空軍より民間最高勲章 メリット・サントス・ドモント を授与される |
12月 | ブラジル国マットグロッソ州より名誉州民に選ばれる | |
平成17年 (2005) |
11月 | 藍綬褒章を受章 |
(今年度を以って 活動開始以来29年 財団設立より24年を迎えた)
(注記) | 遊撃指揮 (ユウゲキシキ) |
ゲリラ戦について、未教育の部隊や兵員に実地で指導すること |
残置諜者 (ザンチチョウジャ) |
敵の占領地内に残留して 味方の反撃に備え各種の情報を収集しておく情報員 *攻撃を予定する方面に事前に潜入し 同様な任務に付く者を「先遣諜者」と言う (共に旧陸軍の遊撃戦闘教令の軍用語) |
活動内容
昭 和59年(1984)より、全国各地において青少年育成野外活動の指導。その実績を踏まえて福島県塙町にキャンプ場を設定・整備し、青少年及び一般人の野 外活動指導を軸に、指導者及びボランティアの養成・心身障害者の野外活動の援助・青少年国際交流事業・研究会・講演会等随時開催している。
自然塾活動の動機
1980年、1200ヘクトアールの牧場開発も終わり、牛も1800頭となり経営が軌道に乗り始めたころ、川崎市の「金属バット事件」をブラジルの邦字紙が報じた。
青少年の「心」の歪みはかねてから報ぜられていたが、猶予できない問題だと感じ、少しでも彼らの力になれればと決心した。
「自然は最高の教師である」と先人は教えている。私も自然に教えられ助けられて、ルバングの島でもブラジルでも厳しい中を自分らしく生きてきた。
彼ら青少年達と自然の懐に飛び込んで、一緒に行動しよう、そうすれば彼らはきっと人間の本質に目覚め、自己を見つめて目的を持ち、逞しく生きられるようになると考えたからである。