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【吉田昌郎 元福島第一原発所長】 社命に背いて日本を救った男の生き様

『Voice』2013年9月号より》
<写真:Shu Tokonami>

太平洋の水を使うしかない

 田原 門田さんがお書きになった『死の淵を見た男』(PHP研究所)はたいへんいい本ですね。福島第一原発の事故後、東京電力は悪の権化のように国民から思われていた。しかし本書を読んで、吉田昌郎所長(当時)以下、福島第一原発の現場の人間はほんとうに命を懸けて事故の収束にあたっていたことがわかりました。そうした姿はまったく報道されてこなかっただけに、感動しました。門田さんが取材を開始されたのは、いつごろからですか。

 門田 2011年3月11日の事故発生直後からです。すべては事故当時に福島第一原発の所長であった吉田昌郎さんに取材できるかにかかっていました。1年数カ月は、吉田さんを説得するためだけに動いていた、といってもいいぐらいです。福島第一のいわば“親分”である吉田さんの取材のOKさえとれれば、そのもとで闘った現場の人間にも一気に許諾が得やすくなると考えていました。

 田原 門田さんが吉田さんに取材したのは昨年7月、彼が食道がんの手術と抗がん剤の治療を終えてから、脳内出血で倒れるあいだのことでしたね。取材のOK自体は、だいぶ前にもらっていたわけですか。

 門田 いや、そうではないんです。取材OKとなったのは、吉田さんがまだ抗がん剤治療を受けているときでした。2012年5月のことです。

 田原 すでに、がんが発見されたあとのことだった。現場の技術者に取材していったのは、それ以降ですね。東電の広報部の許可を得て、取材を開始されたわけではなかった。

 門田 東電の広報部も、私のようなフリーランスの人間が勝手に動いて吉田さんを説得してしまったことで、困っただろうと思います。吉田さんは東電の執行役員でもありました。その立場の人間がOKを出した以上、取材をやめさせるわけにはいかなかったのでしょう。

 田原 本書を読んで驚くのは、なんといっても関係者が実名で出てくることです。東電の広報部を通しての取材だったら、こうはいかなかったでしょう。

 門田 あとは取材に応じてくれた方一人ひとりに直接、実名を出していいか、確認していったわけです。だから、東電広報部も本が出るまでは、実名だということを知らなかったはずです。

 田原 事故当日のことを振り返っていきたい。東日本大震災が起こったとき、地震で電気がストップした。本来であれば、非常用の自家発電が作動して、原子炉を冷やす仕組みになっていた。しかし、頼みのディーゼル発電機が津波にやられてしまい、午後3時41分、全電源喪失という事態に陥る。炉心を冷却水で冷やすことができなくなって、核燃料がどんどん燃え始めた。このままでは原子炉の格納容器が爆発する恐れがあった。そのときです。現場はどうすればよいと判断したのですか。

 門田 免震重要棟の緊急時対策室にいる吉田さんも、現場の中央制御室(中操)にいるプラントエンジニアたちも、ほぼ同時に「太平洋の水を使うしかない」と考えました。つまり、原子炉を冷やすには海水をぶち込むしかないと判断したわけです。そのために水を入れるライン(経路)をつくっておく必要があったのですが、原子炉建屋に水を通す消火ラインを組み直して、炉心に水を送れるようにした。真っ暗闇のなかで懐中電灯を使いながら、決死の作業が行なわれたのです。

 田原 すでに周辺の放射線量は高くなっていて、身の危険があったはず。そこはどう考えていたのですか。

 門田 やはり恐怖心はそうとうあったそうです。原子炉建屋のなかはとても熱く、真っ暗闇のなかを白い粒子が漂っていた。当時の作業者に「それは放射能だったのか」と聞くと、「わからない」といっていました。そんななかで、バルブの番号を読み上げながらの作業が数時間かけて行なわれた。

 その後、午後11時以降に線量が高くなったため、吉田所長によって原子炉建屋に入ること自体が禁じられました。したがって、このとき現場の判断で水を入れるラインを確保していたことが、のちのち重大な意味をもつことになる。そうしていなければ、炉心を冷やすことはもはや不可能になっていたわけですから。

家族のことすら考える余裕がない

 田原 続いて、ベントの問題についてお聞きしたい。格納容器の爆発を防ぐため、原子炉内の圧力を外に逃がす必要があった。これがベントですね。門田さんの本によれば、吉田所長から現場に(1号機の)ベントの準備指令がきたのは、日付が変わった午前0時ごろのこと。だがすでにその前に、当の吉田所長によって原子炉建屋への入域禁止命令が出されていた。だからベントに行くということは、死と直接、向かい合うことでもある。はっきりいえば、その役割は「特攻隊」といっていい。

 門田 たしかに、突入部隊を生と死の狭間に立たせることですから、吉田所長の苦悩も深かったと思います。現場でその人選を決める責を負ったのは、1、2号機の中操の当直長だった伊沢郁夫さんです。「申し訳ないけれども、若い人は行かせられない」。伊沢さんはまずこういったそうです。若い人にはこれから子孫を残す未来があるから、突入部隊のメンバーはベテランが中心とされた。

 一瞬の静寂のあと、沈黙を破ったのは伊沢さん自身でした。事態が悪化していくなかで、伊沢さんはそれまで何度も部下を原子炉建屋内など危険な場所に派遣していた。それが申し訳なく、最後は自分が行きたかったそうです。そうすることで、楽になりたかったともいっていました。それを「おまえはここに残れ」と制したのが、2人の先輩当直長です。

 田原 そのあと、若い人も次々と志願しましたね。

 門田 ええ。暗闇のなかで「僕が行きます」「私も行きます」という声が上がっていく。伊沢さんはそのときの様子を涙ぐみながら語っていました。

 田原 そんなときに福島第一原発にやってきたのが、菅総理(当時)でした。3月12日にヘリで飛んできて、「なんでベントをやらないんだ!」と怒鳴りつけた。現場はさぞ迷惑だったでしょう。

 門田 ええ、大いに。というのも実際にベントを行なうと、同時に放射性物質が放出されます。まだ住民の避難が確認されていませんでしたから、ベントのために原子炉建屋に突入する「GOサイン」が出なかったのはむしろ当然だったのです。

 所長の吉田さんの立場としては、放射能が拡散された状況下でやってくる総理一行に、それなりの装備をして来てもらう必要がありました。しかし現場は対処する余裕がなく、そこで吉田さんはテレビ会議で本店に装備を用意するように頼みましたが、「現場でやれ」といわれたものだから、「ふざけんじゃねえ」と大喧嘩になった。吉田さんは事あるごとに本店と衝突していましたが、本店に従順なタイプだったら、あそこまで部下に信頼されなかったでしょう。喧嘩を繰り返したのは、現場の人心掌握のためもあったでしょう。

 田原 なるほど。それで結局、総理一行の装備は本店が用意したんですか。

 門田 いいえ。何の装備もなく、総理一行は吉田所長のいる免震重要棟に入りました。要するに、「自分たちが放射能の汚染源になるかもしれない」という意識がなかった。

 田原 現場にとって菅さんたちは邪魔な存在でしかなかった。とはいえ、門田さんの本を読んで初めて、私には当時の菅さんの行動が理解できた。なにしろ情報が錯綜しており、総理のもとへちゃんとした報告が上がってこない。それなら自分で確かめたくなる気持ちもわかる。

 門田 そうですね。そして、最大のミスは、原子力安全委員会の班目春樹委員長のような専門家を、官邸の危機管理センター中2階にある小部屋に閉じ込めたことです。連絡や情報収集の手段は固定電話2本しかなく、いわば“情報隔絶地帯”に専門家を置いてしまった。

 田原 吉田所長から現場にベントの「GOサイン」が出たのは、菅さんたちが帰ったあとですよね。何時ごろですか。

 門田 12日の午前9時です。いざ原子炉に突入するとき、いったいどんな気持ちだったのか。私は選ばれた突入部隊のメンバーに聞きました。「奥さんや子供のことを考えなかったか」と聞くと、「そんな余裕はなかった」というのです。突入前の時間は、メンバー同士で「このハシゴを上がって次に進むのは右か、左か」というように、原子炉建屋内の構造を頭に思い浮かべながら、イメージトレーニングを繰り返していたそうです。自分たちが死ぬ前に、バルブのハンドルを回せるかどうかが勝負だった。

 田原 ベントをせずに死ぬわけにはいかなかった。

 門田 失敗すれば、文字どおり日本が終わるわけですから。だからこそ先の答えのように、家族のことすら考える余裕もなかったわけです。

<<次ページ>> 「昔から、リーダーだった」

著者紹介

門田隆将(かどた・りゅうしょう)

ジャーナリスト

1958年、高知県生まれ。中央大学法学部卒業後、新潮社に入社。『週刊新潮』編集部副部長などを経て、2008年に独立。『この命、義に捧ぐ』(集英社)で第19回山本七平賞を受賞。『なぜ君は絶望と闘えたのか』(新潮社)、『蒼海に消ゆ』(集英社)、『康子十九歳 戦渦の日記』(文藝春秋)、『太平洋戦争最後の証言』(小学館)、『死の淵を見た男』(PHP研究所)など著書多数。

田原総一朗(たはら・そういちろう)

ジャーナリスト

1934年、滋賀県生まれ。早稲田大学文学部卒。岩波映画製作所を経て、東京12チャンネル(現・テレビ東京)に入社。77年よりフリー。98年、城戸又一賞を受賞。著書に、『人を惹きつける新しいリーダーの条件』(PHP研究所)、『40歳以上はもういらない』(同)ほか多数。

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