クラカウアーはモーテンソン批判の番組を制作し、地元の住民の証言や、自らの登山家としての経験を基に、モーテンソンの本が矛盾と嘘に満ちていることを明らかにした。
また、クラカウアー自身も多額の寄付金を出した中央アジア協会の資金のうち、およそ5億円が、モーテンソンの本の宣伝と、彼の旅行や私的な支出に使われたと糾弾した。
さらに世の中を驚かせたのは、モーテンソンが建てたという学校を現地に訪ねたが、どこにも存在しなかったというのである。
ライターがエピソードを脚色
『スリー・カップス・オブ・ティー』には共著者がいた。デビッド・オリバー・レリンというジャーナリストである。
レリンは出版社の紹介でモーテンソンに会い、筆力に欠ける彼を助けることになった。本は2人の共著本として出版され、レリンも印税をもらっていた。しかし、ベストセラーになったのはレリンの力が大きかったにもかかわらず、レリンが脚光を浴びることはなかった。
モーテンソン批判のキャンペーンが始まると、レリンも口を開き、本がどのような作業で作られたものなのかを打ち明けた。
当初の出版社からのレリンへの依頼は、モーテンソンが書いた文章を商品になるように書き直してほしいということだった。しかし、共著者ができて安心したのか、モーテンソンは文章を書くことはしなかった。自らの体験を語って聞かせ、メモなどを渡すことはあったが、文章はすべてレリンが書かなければならなかった。
それでもモーテンソンの語るストーリーが魅力的だと感じたレリンは仕事を続けた。その際、レリンは詳細な部分を確認したり、モーテンソンが語るエピソードに脚色を加えてもいいかという判断をモーテンソンにあおごうとしたりした。しかしモーテンソンが世界中を旅していたためなかなかつかまらず、思うようにできなかったという。