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平成24年6月8日 神田雑学大学 定例講座No.598

戦後のベストセラー史 どうしてあの本は売れたのか 講師 植田 康夫



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  講師プロフィール
  1.司会者あいさつ
  2.ベストセラーの歴史
  3.戦後のベストセラー
  4.芥川賞、直木賞などとベストセラー
  5.大河ドラマで始まったテレセラー
  6.テレビで活躍する人のテレセラー
  7.最近のベストセラーの傾向
  8.携帯小説、ネット小説、電子ブックについて
  9.質疑応答

講師プロフィール

植田講師の写真 1939年広島県生まれ。上智大学文学部新聞学科卒。「週刊読書人」編集長を経て、上智大学文学部新聞学科助教授、教授を歴任。現在、名誉教授。

「週刊読書人」取締役編集参与のかたわら、出版評論家として活動。著書に『ベストセラー考現学』『売れる本100のヒント』『売れる本の作り方』(以上メディアパル)、『自殺作家文壇史』『ヒーローのいた時代』(以上北辰堂出版)、『出版・2011年版』(産学社)、『雑誌は見ていた』『本は世につれ』(以上水曜社)ほか。

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1.司会者あいさつ

本日の講座は、現在、千代田図書館の展示ウォールで開催している勉誠出版さんとの連携展示「書物で知る出版文化の歴史―江戸から現代、そして未来」に関連して、NPO法人神田雑学大学さんと共催しました。

講師の植田さんは50年間、「週刊読書人」の編集に携わられる中、上智大学教授や日本出版学会の会長などを務めておられ、多数の著作もおありです。

今日は出版界の重鎮、植田さんに戦後のベストセラーについてお話いただきますが、出版界の後輩として、勉誠出版の坂田亮さんにナビゲーターをつとめていただきます。戦後の本について広く研究されている植田さんに、ベストセラーを出したい出版社の立場から切り込んでいただき、それにお答えいただく形で講座を進めてまいりたいと思います。(千代田図書館 担当・幸田)

左から植田講師、ナビゲーター坂田亮さん、司会者幸田さん

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2.ベストセラーの歴史

(坂田)勉誠出版営業部の坂田と申します。勉誠出版について簡単にご紹介いたしますと、『源氏物語』や『平家物語』といったいわゆる国文学に関する書籍を刊行している出版社です。まず植田さんにおうかがいしたいのですが、何を持ってベストセラーというのでしょうか?

(植田) 出版ニュース社から『出版事典』が出ていますが、この中にベストセラーという項目がありまして、ベストセラーとは「ある期間中に発行された書籍のうち高位の売れ行きを示す書籍、期間は週または月ではかられ、せいぜい年間に売れるものであって、数年にわたるものはむしろロングセラーに属する」とあります。
坂田さんの写真 植田講師の写真 ベストセラーとロングセラーというふたつの言葉が出版界にはあるのですが、ベストセラーは1週間もしくは1カ月くらい、長くても1年までで、数年にわたって売れた本をロングセラーと呼んで分けております。

ベストセラーという言葉は、もともとはアメリカでできた言葉です。1895年、アメリカの月刊文芸誌「ザ・ブックマン」が、よく売れる本の新刊書リストを掲げたのが、ベストセラー調査の始まりだといわれています。このベストセラー調査については、武田勝彦早稲田大学名誉教授の『アメリカのベストセラー』という本の中でも紹介されています。また、丸善本の図書館長であった八木佐吉さんの『ベストセラーズことはじめ』などにもくわしい解説があります。

武田さんによると、1895年2月に「ザ・ブックマン」が創刊されたとき、編集者のハリー・ベックマンが「求められている本(Books in Demand)」というリストを載せたことが、ベストセラー・リストの端緒だそうです。その後、1903年に、この表題が「6冊のベストセラー(Six Bestsellers)」と改題されて続きます。

これは私の推測ですが、この6冊は、半ダースの6冊で発足したんではなかろうかと思います。今では、ニューヨークタイムズなどを見ると、ベストセラー・リストを掲載していますが、15冊になっています。1910年、アメリカの書物雑誌「ブック・オブ・ザ・マンス(Book of the Month)」が、100店を超える書店に協力を求めて、ベストセラーの書名リストを毎月掲載します。

日本で、このベストセラーという言葉を最初に使ったのは、1914年(大正3)だったと八木佐吉さんが「学燈」という雑誌にお書きになっております。これは、丸善のPR誌ですが、1914年1月の「学燈」に安成貞雄という方が「米国の通俗小説家其収入」というアメリカのベストセラーについて論じたエッセーを書いているそうです。そのエッセーでは「大売れ本」という言葉が使われ、それに「ベストセラー」というルビが付けられていると八木さんはお書きになっています。

しかし、戦前はベストセラーという言葉は、日本ではあまり使われておりません。「忽ち何十版」とかいう広告文が使われ、ベストセラーという言葉は、戦後になって使われるようになりました。

講演会場風景

では、ベストセラーという現象は、日本でなかったのかというと、そうではなくて、あったのです。
これについても武田勝彦さんが、「江戸時代には『千部振舞』という言葉があった」とお書きになっています。これは、1000部本が売れると、それを祝って、お宮さんにお参りして祝いごとをしたというのです。これが江戸時代のベストセラーのはしりではないかと武田さんはいっています。

江戸時代末期になると、町人文化が発展して文学物が愛読され、柳亭種彦の『偐紫田舎源氏』38編が1万5000部も売れたということです。当時の読書人口を考えると、これは驚くべきベストセラーです。ですから、ベストセラーという現象は日本でも江戸時代からあったのです。

そして、明治に出版が活版印刷を使って大量生産をするようになって、また違った現象が出てきます。そのなかで福沢諭吉の『学問のすゝめ』全17編が、明治5年から9年にかけて刊行されているのですが、毎編20万部以上、トータルで350万部くらい売れています。これは大変なベストセラーで、明治初期の日本人の人口は、3500万人くらいといわれていますから、350万部といいますと10人に1人は読んだということです。しかも、『学問のすゝめ』は、大阪では海賊版が出ています。ですから、実際に読まれた部数はもっと多かったのではないかという説もあります。

(坂田)当時は、当然、テレビもラジオもなかったわけですが、どういう情報ルートで、10人に1人が読むような状況が生まれたのでしょうか?

(植田)識字率からいうと、日本は当時でも世界で高いほうですが、それでも、今の情報メディアの常識では考えられない時代ですから、口伝えが主だったのでしょうね。新聞が100万部出るようになったのは大正末ですからね。

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3.戦後のベストセラー

(植田)ベストセラーということばは、アメリカでできたのですが、ベストセラー現象というものは、日本でも江戸時代から明治時代にかけて存在しました。しかし、日本でベストセラーということばが、一般に使われたのは戦後です。

(坂田)戦後のベストセラーは、どんな本から始まったのですか?

(植田)戦後のベストセラー史を繙くと、最初に出てくるのが、『日米會話手帳』と『旋風二十年』という本です。資料として、戦後のベストセラーズの昭和39年までのリストを用意しました。これは、出版科学研究所の『出版指標年報』の末尾に載っているものを一部引用させていただきました。これを見ますと、昭和21年と22年は、『旋風二十年』と世界評論社の『愛情はふる星のごとく』が並んでトップですが、実は部数からいって、一番売れたのは『日米會話手帳』という本です。

終戦直後のベストセラー
どうして、『日米會話手帳』が、このリストに載っていないのかというと、これは、四六半栽判32ページの横長のサイズで、今でいうとパンフレットみたいなもので、これが360万部も売れたのです。これが戦後ベストセラーの最初です。のちに黒柳徹子さんの『窓ぎわのトットちゃん』が出るまでは一番売れた本でした。戦後のベストセラーを語る時、『日米會話手帳』と『旋風二十年』は非常に象徴的です。

『日米會話手帳』は、誠文堂新光社の子会社である科学教材社から出て、『旋風二十年』は、鱒書房という今はもうない出版社から出ました。誠文堂新光社の創業者・小川菊松が、「昭和20年8月15日に千葉に出張した。その時に玉音放送が放送された。日本は戦争に負けて、アメリカ軍やイギリス軍が入ってくる。すると、英語の会話に関する本が必要になるんじゃないかと思いつき、東京に帰る途中、企画を立てた」と自分で書いています。小川菊松さんという方は、非常にすばしっこい人で、関東大震災の時も、震災に関する本をすぐ出しています。

もうひとつの増永善吉が出した『旋風二十年』。これは、昭和初期から20年までの歴史を森正蔵という新聞記者が共同執筆で書いた本ですが、増永さんは、伊豆の大仁温泉に疎開していて玉音放送を聞き、「戦前の日本について正しい歴史を教える本がない」と気づき、企画を立てたといわれています。つまり、二つのベストセラーとも、玉音放送を聞いて企画されたということです。
演壇風景
(坂田)時代を見ながらベストセラーを作っていた方々がいたんですね。

(植田)そうですね。ベストセラーはまさに、時代と非常に関わっているのです。『旋風二十年』は、上下2巻ですが、70万部くらい売れたといわれています。これは昭和20年8月15日を境に日本が変わったということで売れたのです。『日米會話手帳』も、戦時中は英語は敵性言語であるということで使用が禁じられていました。それが8月15日を境にガラリと変わった。いずれも、時代の変化が生み出したベストセラーであるといえます。

昭和21年と22年のベストセラー『愛情はふる星のごとく』は、今見ると甘ったるい題名ですが、著者の尾崎秀実は、戦時中ゾルゲ事件に連座してスパイ呼ばわりをされて処刑された人物です。この本は、彼が妻子に宛てて獄中から書いた手紙がもとになっています。それが雑誌に発表されたとき、「世界評論」では「遺書」という題名でした。そして、もうひとつの雑誌「人民評論」では「愛情は降る星のごとく」(雑誌では「降る」と漢字になっている)というタイトルでした。『愛情は降る星のごとく』という言葉は、尾崎が書いた遺書の中にそれに類する言葉があって、それから採られているのですが、もし「世界評論」に載った「遺書」というタイトルを使っていたら、果たしてベストセラーになったのだろうかという気がします。

(坂田)そういえば、『遺書』というタイトルは、松本人志さんのベストセラーにありましたね。

(植田)そうですね。『遺書』というタイトルは、まじめな著者が使うと駄目ですが、タレントが書いた本では、逆にベストセラーになる要素となるタイトルだと思います。そういうわけで、『遺書』というタイトルがいけないということではありません。『愛情はふる星のごとく』は、まさに尾崎秀実という人物の遺書を本にしたものですが、戦後ベストセラーのリストをたどると「愛」に関する本が連綿と今に至るまであります。それの一番最初の作品ではないかと思います。下記は、『出版指標年報』の末尾のリストから「愛」を扱った作品をピックアップしたものです。

●1954年=J・ローゼンバーグ『愛は死をこえて』(光文社)
●1957年=田宮虎彦・千代『愛のかたみ』(光文社)
●1962年=山口清人・久代『愛と死のかたみ』(集英社)
●1964年=河野実・大島みち子『愛と死をみつめて』(大和書房)
●1965年=佐伯浩子『わが愛を星に祈りて』(大和書房)
●1968年=御木徳近『愛』(ベストセラーズ)
●1970年=曽野綾子『誰のために愛するか』(青春出版社)
●1981年=加山雄三『この愛いつまでも』(光文社)
●1984年=小林完吾『愛、見つけた』(二見書房)
●1990年=ニ谷友里恵『愛される理由』(朝日新聞社]
●1996年=大川隆法『愛、無限』(幸福の科学出版)
●2003年、2004年=片山恭一『世界の中心で、愛をさけぶ』(小学館)

講演中の植田講師 このことを分析した学者が、辻村明さんと見田宗介さんという方です。
お二人とも社会学者ですが、辻村さんは『戦後日本の大衆心理』で、ベストセラーを分析しながら戦後日本の大衆心理がどう変遷してきたかを書いています。それによりますと、「愛と死」「笑い」「旅」「人生論」などがテーマとなったベストセラーがあると挙げています。見田さんも、戦後のベストセラーのテーマを「現代史と現代社会への関心」「見知らぬ世界への関心」「人間の生き方に対する関心」「恋愛とセックスに対する関心」「子どもと教育に対する関心」などのテーマに触れるものがベストセラーになるという分析をしています。見田さんの場合は、「恋愛とセックス」、辻村さんは「愛と死」で、両者とも愛情が大きなテーマになると指摘しています。

(坂田)今でも恋愛を書いている作品は多いですし、見田さんの「見知らぬ世界への関心」というと、私は村上春樹の作品を思い起こします。最近ですと『1Q84』も世界をテーマにしています。そうしたテーマは連綿と関心を持たれ続けているのですね。

(植田)そうですね。『1Q84』は「愛」のテーマでもありますね。

(坂田)「愛」や「セックス」をテーマにしたものは、これからお話しいただくケータイ小説では全面に押し出されてきますね。

(植田)そうです。辻村さんにいわせると、「愛」だけではなくて、「愛」と「死」がセットになるとより強いということです。それは、ともに人間の根本存在に関わるものであるから、愛と死が絡み合い、愛が死によって挫折したり、死が愛によって支えられたりするものは、一層の感動を呼び起こし、いつの時代にも大きな反響を呼んでいると指摘しています。この指摘は、今でも当たっているし、これからも続くものでしょうね。

(坂田)『世界の中心で、愛をさけぶ』などまさにこのテーマですね。

(植田)そうです。『世界の中心で、愛をさけぶ』は、作者が最初考えたのはこのタイトルではなかったそうです。作者が付けた題名は、『恋するソクラテス』だったそうで、編集者が『世界の中心で、愛をさけぶ』に変えたのです。この作品は、雑誌「ダ・ヴィンチ」に、柴咲コウさんが書いた書評を引用して、その言葉を帯に使って、これが非常に大きな役割を果たしたといわれています。

「泣きながら一気に読みました。私もこれからこんな恋愛をしてみたいなって思いました。」という帯のコピーが非常に効果的で、柴咲さんの人気に連動して10代後半から20代にかけての女性が買ったのです。本のプロでない人の書評が、大きな役割を果たすということがベストセラーになる要素の中にあるんですね。
演壇の様子

(坂田)ところで、このリストを見ますと、光文社のカッパブックスがずいぶんベストセラーになっているのが印象的です。このシリーズ本の生みの親は、編集者として有名な方ですよね。

(植田)神吉晴夫(かんき・はるお)さんです。この人はベストセラーメーカーといわれた方ですが、昭和40年代半ばに光文社で大闘争があって、当時、彼は社長だったのですが社長を追われて、晩年は不遇でした。この人が、戦後、出版社がベストセラーを作り上げる端緒を作った。つまり、意識的に編集者がベストセラーを出すことを考えたのです。

このリストの昭和25年の第8位に『少年期』という波多野勤子さんの本があります。昭和26年には、この本が第1位に入ってきます。

終戦直後のベストセラー2
神吉さんが、『少年期』を出したきっかけは、著者の勤子さんの旦那さまである波多野完治氏が光文社で本を出していて、彼から「実はうちの女房が原稿を持っているので、それを本にしてくれないか」と頼まれたからだそうです。神吉さんは、戦前、勤子さんの本を1冊出したことがあったけれども全然売れなかったので「弱ったな」と思いつつ、一晩で原稿を読む。ところが、夜が明けるまで読みふけって非常に感激し、おそらく6000〜7000人くらいはそういう人が出るのではないかと、すぐ出版にとりかかったわけです。この本は、戦争中、勤子さんと疎開していた息子さんの手紙のやりとりを集めた原稿です。これが出版されたはいいが、昭和25年の光文社では、とても宣伝費が使えない。それで神吉さんは、刷りあがった本を200冊くらい有識者に片っ端から送った。送られた一人が、朝日新聞でコラムを書いていた坂西志保さんという女性評論家で、彼女は『少年期』に感激したと朝日新聞のコラムに書きます。当時、新聞は今のようにページ数はありませんでしたから、コラム記事が出ると目立ち、大きな影響がありました。それが発端になってベストセラーになったのです。

それがきっかけで、神吉さんは、無名の著者の書いた本でも、テーマがよくて時代に合っていれば絶対売れると確信するのです。それ以降、神吉さんは「創作出版」をかかげ、それを実践するようになります。そういう形で出るのが、昭和28年に光文社から出た『人間の歴史』です。この本は安田徳太郎さんというお医者さんで、無名だったのですが、神吉さんは彼にお願いして書いてもらい、徹底的に注文を付けて書きあげてもらったのです。それまでは著者が書いたものをそのまま本にするというのが一般的な傾向だったのですが、そうではなく、編集者がテーマを設定して、企画力を発揮し、無名であっても編集者が徹底的に注文を付けて書いてもらえればベストセラーになり得るという「創作出版」を実践していくのです。その発端が『少年期』でした。それで、光文社が、カッパブックスという新書スタイルの本を昭和29年から出し、昭和30年代にベストセラーを毎年連発しました。

(坂田)昭和29年は新書判が多かったですね。

講演中の植田講師 (植田)そうです。光文社に「考える世代とともに」という四六判のシリーズで、『文学入門』という本を伊藤整さんという作家に依頼したのが発端です。ところが、伊藤さんは、頼まれた枚数まで書けなくてちょっと短かった。それで伊藤さんが、「すまないがこれを何とか新書判で出してもらえないか」とお願いしたのです。伊藤さんは過去に、『女性に関する12章』というベストセラーを新書判で出していました。神吉さんは最初躊躇します。なぜなら、新書という言葉は、岩波書店が作ったものなんです。昭和13年に岩波新書が創刊されたときに使われるようになりました。神吉さんは物まねするのは嫌だから、新書はやりたくないと思っていた。しかし、伊藤さんの原稿の量が足りないので、しようがないというので新書判で出しました。ただし、神吉さんは、新書は使いたくない。その代わりに「ブックス」という言葉を選び、それに「カッパ」という言葉を付けた。神吉さんの家の玄関に清水昆さんのカッパの絵の色紙があった。それを見て「カッパブックス」という言葉を考えたそうです。

神吉さんは、昭和36年に岩田一男さんの『英語に強くなる本』を出します。これがカッパブックスで最初に100万部に達した本です。昭和36年というのは、昭和39年に東京オリンピックが開催されるというので、英語に関する関心が高まってきた年でもありました。日本人には、戦前から英語に対するコンプレックスがあり、昭和15年に東京オリンピックが開催されることになっていたのですが、その時にも英語に関するハウツー書が出ています。このように、日本では、英語に対するコンプレックスを反映したベストセラーが出てくる。それに乗ったのが『英語に強くなる本』ですが、「なる本」は、実はカッパブックスでは、昭和35年に『頭のよくなる本』というベストセラーも出しています。「なる」というのは、非常に意味深な言葉で、「あまり努力しないでも自然になる」という意味合いがあるのです。それで『頭のよくなる本』で成功して、引き続き『英語に強くなる本』が出たわけで、非常に計算されたタイトルなのです。神吉さんは、ベストセラーの歴史を語る時、はずせない人物ですね。

(坂田)そうですね。タイトルの付け方は本当に重要だなと感じます。『頭のよくなる本』と聞くと、「これ読んだだけで頭がよくなるのか!」って思いますからね。出版界では「柳の下にどじょうがいる」とよくいわれますが、この「なる本」は、その典型のような気がしますね。

(植田)そうです。ベストセラーというものは、いい加減という面もありますが、出版人としてはものすごい計算をしているわけですね。

ナビゲーター坂田さん (坂田)ちょっと気になるのですが、昭和35年の第1位は『性生活の知恵』ですね。こうしたタイトルは、戦前は絶対付けられなかったように思います。こういった戦前では考えられない本がベストセラーに入ってきた背景は何でしょうか? (植田)「性生活」は、まさに戦後だからこそ使われたことばでしょう。戦前だと「夫婦生活」でしょう。この本は、謝国権さんというお医者さんが書いたものを池田書店が出したのですが、謝国権さんは、前に池田書店でお産に関する本を出していました。それは専門知識がなくてもよく分かる医学書だったということで、『性生活の知恵』が企画されたのです。ところが、タイトルを付けるときにゴタゴタしたようで、「性生活」という言葉を付けるのはどうかという議論はあったようです。しかし、この言葉は非常にうまいと思いますね。のちに『HOW TO SEX』という本が出てきますが、この『性生活の知恵』は、タイトルもさることながら、表現の仕方を非常に工夫しています。セックスの体位を説明するのに、人形を使ったのです。男女の人形を置いて、どことどこが接触するということを記号で説明しているのです。人形を使ったのはアイディアだと思いますね。合体した写真を載せればポルノだけれど、それを別々に離した人形で工夫していますよね。

(坂田)そのアイディアは、編集の方が出したのですか?

(植田)編集者が主でしょうが、お医者さんだけあって、謝国権さんが知恵を出されたようです。

(坂田)この本は、昭和35年から5年くらいベストセラーを続けていますね。

(植田)先ほどベストセラーは時代と関わるということを申し上げたのですが、戦後という時代はのっぺらぼうの時代ではなくて、ある時期ごとに性格が違うと見田宗介さんは指摘しています。それによると、昭和21年から25年にかけては、日本人が、時代と人生に対して根源的問いかけをした時代でした。真面目だったということでしょうかね。昭和26年から33年にかけては、同じ戦後でも、戦争批判と体制批判の精神が消えた。そして、昭和34年以降は、日常的な幸福や生活技術の追求に関心が移った。このように、同じ戦後でも、時代が変わると性格が変わってしまう。これもベストセラー史を見るときに気をつけなくてはいけない問題です。戦後というと、戦前との対比だけで考えてしまいでも時代によって性格が全然違うということです。それがベストセラーの性格に出てくるということを考える必要があるんではないかと思います。そういうことを見田さんの本は教えてくれます。

(坂田)その本は見田さんの『現代日本の精神構造』という本でしたね。

(植田)そうです。あの方はすごい人ですね。今、岩波書店から『見田宗介著作集』が出ています。あれも自分で編集しているんです。

演壇の講師 著作集は第三者が編集しますが、あの方は完全に自分でしています。見田さんは「真木悠介」というペンネームでも書いています。私は、見田さんとは不思議なご縁で、「週刊読書人」に入って、私がまだ24歳くらいの時、見田さんが、思想の科学研究会で発表をなさいました。私はその報告を聞いて書きました。当時、見田さんもまだ20代で、東大大学院の学生だったのですが、一般の新聞や雑誌には書いていませんでした。それがきっかけで「読書人」1面に「戦後体験の可能性」というエッセイを書いていただいたのです。最初、私が編集会議に提案した時は、「大学院生に1面を書かせるなんて」と危惧されました。見田さんは、今では社会学の大御所で、東大名誉教授になられました。そういう意味で、一般のジャーナリズムに書いていただいたのは、かなり早い方だったと自負しています。その後も見田さんは、戦後のベストセラーについて「読書人」に書いてくださっています。あの方の頭の良さは我々の及ぶところではなく、ほんとうに鋭い分析をなさいますね。

(坂田)先ほどの3つの区分からいいますと、昭和21年から25年までは根源的なものに向き合った時代とおっしゃいましたが、このベストセラーリストの中で非常に印象的なのは、ドストエフスキーの『罪と罰』が1948年の第5位に入っていることですね。この本こそ人間の根源的な本の代表だと思います。昭和35年以降、『性生活の知恵』などの実用的なものがでてきますから、まさに見田さんの分析は的確だと感じます。

(植田)そうですね。性に関する本は、昭和21年の『完全なる結婚』があります。これは戦前、性の問題はタブーだったのが、戦後の解禁でスポットがあてられるようになった。そういう中で出てきた最初の作品ですね。これは、同じ性に関するものでも『性生活の知恵』とは違うもので、見田さんのいう根源的なものへのアプローチの作品だと思います。
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4.芥川賞、直木賞などとベストセラー

(坂田)若手の登竜門といいますと、芥川賞や直木賞などいろいろありますが、こういった賞を作って新人の発掘に取り組み始めたのは、昭和31年の石原慎太郎さんの作品が最初のように思います。こうした傾向はいつごろから始まったのでしょうか?

(植田)芥川賞と直木賞は、昭和10年にもうできています。「文藝春秋」を作った菊池寛という作家が、彼の一高時代の友人の芥川龍之介や、「文藝春秋」創刊からよく書いていた直木三十五に非常に世話になっていた。「文藝春秋」は、最初は薄っぺらな雑誌でしたが、芥川が『侏儒(しゅじゅ)の言葉』という随筆を巻頭に書き、直木は文壇ゴシップを書いていました。それが「文藝春秋」の部数を伸ばすのに寄与したのです。その芥川が昭和2年に自殺する。昭和9年に直木は病気で亡くなる。菊池寛は非常に寂しくなり、親しかった二人を顕彰する賞を作ろうと考えたのが、芥川賞と直木賞で、昭和10年のことです。芥川賞は純文学、直木賞は大衆文学という形で設定されました。

第一回の芥川賞は石川達三の『蒼氓』という作品、直木賞は川口松太郎が受賞しています。太宰治が、芥川賞が欲しいのにとれなくて悔しがっていたという話がありますが、実際は、芥川賞も直木賞も昭和30年代になるまでは、あまり有名ではなかったのです。昭和20年代には、吉行淳之介さんが受賞していますが、その時、彼は清瀬の結核病院に入院していて、そこへ受賞の知らせがきたのですが、今のような大騒ぎにはならなかったそうです。ところが、昭和31年に石原慎太郎が『太陽の季節』で受賞した。これ以後、マスコミが非常に注目するようになって、芥川賞を受賞することがショー化していった。それ以後、開高健や大江健三郎が出て、非常に派手なお祭り騒ぎになりました。テレビの取材に入るようになり、受賞すると作家は金銭的にも恵まれるという状況を作ったきっかけが、昭和31年の『太陽の季節』でした。

演壇の講師と坂田さん (坂田)芥川賞と直木賞は、他の賞に比べると別格で、とり上げられ方が違いますね。NHKニュースでも、二つの賞は大きく取り上げられます。

(植田)新潮社の三島由紀夫賞、山本周五郎賞は、芥川賞、直木賞に匹敵する賞なんですが、どうしてもショーという意味ではかなわないんですよね。 (坂田)最近、青木淳悟さんが三島由紀夫賞、原田マハさんが山本周五郎賞を受賞されましたが、新聞に少し掲載されたくらいで、テレビのニュースではとり上げられなかった気がしますし、注目のされ方が芥川賞、直木賞とは違うと単純に思ってしまいます。

(植田)実は、芥川賞と直木賞は、「文藝春秋」と「オール讀物」の3月号と9月号の発表なんです。これは、菊池寛が考えたのか、うまいなと思うのですが、出版界には「二八(ニッパチ)の危機」という言葉があって、2月と8月は出版物が全然売れない月なんです。ところが、「文藝春秋」と「オール讀物」の3月号は2月に発売され、9月号は8月に発売される。すると、他の出版社が「二八の危機」でめげているんですが、文藝春秋だけは景気がいいのです。そういうことを菊池さんがどのくらい計算したのか定かではありませんが、菊池寛という人は作家としても、ジャーナリストとしてもすごい方だったと思います。菊池寛賞という賞が年末に発表されますが、これもバラエティに富んだ内容です。文学が対象になることもありますし、映画などさまざまなジャンルが受賞対象になります。そういう賞の設け方は、文藝春秋は上手だと思います。文藝春秋には、大宅壮一ノンフィクション賞や松本清張賞もあります。
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5.大河ドラマで始まったテレセラー

(坂田)芥川賞と直木賞はテレビへの露出もあって、売上が他の賞と大きく異なります。書籍の売上がテレビに大きく左右されるような時代にあって、植田さんは「テレセラー」という言葉を使われていますね。これはいつごろから始まったのですか?

(植田)昭和43年くらいからだと思います。昭和38年からNHKが大河ドラマを放送し始めるのですが、その原作はだいたい文学作品から選ばれています。昭和38年は、船橋聖一の『花の生涯』、昭和39年が大仏次郎の『赤穂浪士』です。ただし、昭和38年と39年は、放映されてもまだ原作の売行きには影響が少なかった。ところが、昭和43年に司馬遼太郎さんの『竜馬が行く』が原作になった時から、原作が売れるという現象が起こりました。

昭和44年、海音寺潮五郎さんの『天と地と』全3巻が原作になりました。これは足立巻一さんが『ベストセラー物語』で書いていらっしゃるのですが、『天と地と』は、最初、『週刊朝日』に昭和35年1月10日号から昭和37年3月23日号にかけて連載され、昭和37年5月に朝日新聞社から上下2巻で刊行された。その年の発行部数は上下巻、重版を合わせて2万3000部でした。ところが、昭和44年1月から大河ドラマの原作として脚色、放映されるようになると、朝日新聞社から3巻本の廉価本が刊行され、角川文庫にも入りました。そして廉価版上巻が52万8000部、中巻が49万9000部、下巻が48万8000部と売行きが上がったわけです。文庫版も上巻が53万部、下巻が48万部と大河ドラマの原作が非常に大きな売上を示すようになった」とあります。

ところが、原作者の海音寺潮五郎さんは絶望感を持つのです。「テレビ栄えて文学滅びる」というようなことをおっしゃって、以後、商業ジャーナリズムでの筆を絶ちました。最後に『西郷隆盛』という作品を書いて全12巻の予定が9巻まで書いたところで亡くなられました。非常に骨っぽい、見識のある方だったと思います。しかし、世の趨勢は、テレビがベストセラーを作る時代に入っていくのです。
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6.テレビで活躍する人のテレセラー

1994年に岩波新書で出されてベストセラーになった永六輔さんの『大往生』。これもテレセラーの一つに数えられてよいでしょう。お寺出身の永さんが、筑紫哲也さんが出ていたTBSのニュース番組「NEWS23」で、死の問題を「明るい死にかた講座」という題で語ったのです。これを岩波新書の編集者が、永さんに死に関する本を書いてもらおうじゃないかと企画された本です。

講演中の講師 これはあっという間に100万部売れました。その発端になったのはテレビですね。先ほど話が出た松本人志さんの『遺書』も永さんの『大往生』も、テレビに出ている人が書いたという面がベストセラーに繋がっているのは否めません。

この「テレセラー」という言葉を私が最初に使ったのは昭和55年ですが、「週刊文春」に「出版回顧」を書きましたが、テレビがらみで売れた本が結構ありました。その時、私が紹介したのは山口百恵の『蒼い時』、フリードマンの『選択の自由』などです。山口百恵の『蒼い時』は、2か月で180万部も売れた。山口百恵というタレントは、テレビが生み出したスターです。その方が自伝を書き下ろし、ベストセラーになったのです。その年は、フリードマンの『選択の自由』、ガルブレイスの『不確実性の時代』などがありますが、これらは著者が日本にきてテレビ出演してしゃべる、その結果売れた本です。

(坂田)海外の研究者であるマイケル・サンデルがNHKの番組に出て、本が売れたのも有名ですよね。

(植田)そうですね。マイケル・サンデルの場合はまさにそうですね。実は裏話があるのですが、「週刊文春」の「出版回顧」は、担当者が今の文藝春秋社長の平尾隆弘さんという方だったのですが、「植田さん、この言葉を流行らせましょう」ということで、意識的に使ったのです。業界でわりと流行りましてね。そうしたら1年だけですが、『現代用語の基礎知識』に載りました。うれしかったですね。

(坂田)「テレセラー」は、今でも十分通用します。TBSで土曜日に放送されている「王様のブランチ」という番組で紹介されると、すごく売れると聞きますし、テレビの影響力はいまだに強いと思います。

(植田)テレビは不思議なメディアで、テレビメディアの一番の特徴は、専門知識は8%しか伝わらないというメディアなんです。あとは顔の感じや声や服装が92%占めると言われています。ですから、外国の著者がテレビに出演すると本が売れるのは、テレビでは専門知識は8%しか伝わりませんから、本の内容がやさしく思えてしまう。ところが、本を読むと結構難しいのです。テレビで伝えられるとわかりやすい本だと思うので、読者は買ってしまう。これは活字メディアでは絶対あり得ないことで、そういう力がテレビにはあるのです。

昭和55年に、そういう現象があって、昭和56年の黒柳徹子『窓ぎわのトットちゃん』、これはまさにテレビの生んだ大スター、昭和57年の江本孟紀『プロ野球を10倍楽しく見る方法』、野球のテレビ解説者、昭和58年の鈴木健二『気くばりのすすめ』、NHKのアナウンサー、そして昭和59年の板東英二『プロ野球知らなきゃ損する』もテレビの人気者です。テレビで活躍した方たちの書いたものが毎年ベストセラーになった、これは1980年代の特徴だと思います。
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7.最近のベストセラーの傾向

(植田)今は、テレビはこれだけの影響力を持っていないように思います。テレビに出たから売れるということも少なくなっています。

(坂田)今売れている本と、これまでのベストセラー本との違いはどういったところにあるのでしょうか?

(植田)平成23年は、第1位が『謎解きはディナーのあとで』。これは本屋大賞にノミネートされました。そして第2位が『体脂肪計タニタの社員食堂 500kcakのまんぷく定食』です。 これは菜食を実践している本なのですが、こういうタイプのベストセラーというのは今まであまりなかった。実用的で、しかも社員食堂。タニタという会社も、そんなに有名ではないですよね。

講演中の講師 (坂田)読んでみましたが、結構面白かったです。
第5位の『もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーのマネジメントを読んだら』も意外性がありますよね。
第7位の『KAGEROU』は、俳優が書いた本です。第8位の『くじけないで』は100歳の柴田トヨという方の作品ですね。

(植田)老いの問題や健康は、死の問題に通じますが、以前の『大往生』に通じる傾向かもしれません。今年になって売れている幻冬舎の『大往生したけりゃ医療とかかわるな 』は、お医者さんが書いたものですが、初版1万部で、46万部くらいになっているそうです。要するに自然死の勧めの本なんで、「自然死を考える会」というのを作って、癌で死ぬのが一番いいという方です。私も読みましたが、非常に心安らぐ本ではあります。この人は癌もどきのものを持っているのですが、自分は絶対手術はしないという。手術すると癌が暴れ出すから、手をかければ手をかけるほど痛みも出るといっています。

(坂田)これはテレビで火が点いたのでしょうか?

(植田)書店でじわじわ売れ始めて、あっという間に40万部になったようです。今までにはあまり考えられなかったケースですね。

(坂田)当然、書店からベストセラーは生まれるわけですが、本屋大賞もそうですが、書店員さんの勧めた本が売れるというのも最近の傾向のようですね。『白い犬とワルツを』はどうですか?

(植田)それは新潮文庫ですね。千葉の本屋さんが手書きのPOPを立て、それが評判を呼び、売れ始め、全国に飛び火しました。そして、外山滋比古の『思考の整理学』、これも本屋さんが手書きのPOPを立てて、そこから火が点いて、あっという間に100万を超しました。書店さんが売れるきっかけを作る、これは以前にはなかった現象でしょうね。

講演中の講師とナビゲーター

(坂田)90年代後半から、本屋大賞のように、芥川賞や直木賞と匹敵するようなものが出てきていますね。

(植田)本屋大賞は、とくに権威のある選者がいるわけではないのですが、書店員さんが選ぶ本は、本好きのプロが選ぶ読みたい本ですからね。

(坂田)書店員さんは、プロの本読みといってもいいのかもしれませんが、ブログで書評を書いている方や、ツイッターやフェイスブックの情報もバカにできないという印象があるのですが、いかがですか?

(植田)ITの発達で、新しい書評家が出てきている時代も、以前ではなかった現象ですね。本の購入の動機が、ツイッターやフェイスブックの情報による傾向はますます強まるでしょうね。
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8.携帯小説、ネット小説、電子ブックについて

(坂田)最近、ネット上のコンテンツを携帯電話で読んだり、専用端末の電子ブックなどで見ることが話題になっています。この現象をどうとらえていらっしゃいますか?

(植田)ケータイ小説が面白いのは、紙媒体で豪華な本として刊行されたケータイ小説版が売れたりすることです。ある女性が、携帯で読んだ小説を手もとに置きたいので、ちゃんとした本で出してほしいという要望を出したらしいです。スターツ出版でしたでしょうか。紙媒体の本が今後どうなるかという話もありますが、紙媒体の本が持っている物質感が欲しいんでしょうね。電子書籍は伸びるといわれているのですが、紙媒体の持っている本の物質感への要望は消えないのではないかと思います。

(坂田)『恋空』もそうですが、『電車男』という「2ちゃんねる」のスレッドをまとめた本が新潮社から出ましたね。ネットだけだと、参加している人は面白いかもしれないけれど、その一方で、紙媒体にならないと多くの方々には、なかなか面白さが伝わらないんじゃないかと思います。

(植田)マガジンハウスでも『世界がもし100人の村だったら』を紙媒体で出しましたが、あれも最初はネットだけで読まれていたものですよね。

(坂田)ネットなどで発表されたものを紙媒体で出してベストセラーになった本はありますが、電子書籍オンリーで出てベストセラーになるという本が出てくる可能性はあるのでしょうか?

(植田)電子書籍はまだあまり普及していないからわからないのですが、ベストセラーというと、何かモノとして自立していて、それが数多く世に出て行くことをイメージするのですが、電子書籍の場合は、紙媒体の場合とは違った形になるのではないでしょうか。今のところ電子書籍でベストセラーになったという話はないですね。日本語は、文字の種類が世界でも一番多いでしょう。その制約の中で、電子書籍がどう発展するのか、アルファベット語圏とは事情が変わってくると思います。しかし、テレビも見られなくなってきて、一方でネットがますます発展してきて、さらに電子書籍も出てくる時代が到来していることは事実です。今後、ベストセラーをめぐる環境は変わっていくことは間違いないでしょう。
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9.質疑応答

質問:ベストセラーでゴーストライターが上手だったから売れたという話はあるんでしょうか?

植田:ゴーストライターの問題をいいますと、山口百恵の『蒼い時』、それから黒柳徹子の『窓ぎわのトットちゃん』。これは芸能人の書いた本ですが、これは自前で書いています。ゴーストライターを使わなかったといわれています。それまで、スポーツ選手や芸能人は、多くはゴーストライターを使っていたんですが、それをしなかったために、あれだけの売行きにつながった。私はちゃんとしたものは、やはり本人が書かなければ駄目だと思いますし、それが売上に通じることが実証されたと思います。編集者とプロデューサーが優れていたという面はあります。山口百恵の場合、残間里江子さんという女性がプロデュースして、黒柳さんの場合は、講談社の女性編集者がつきっきりで支えました。

質問:昔の日本人は均一的で同じ方向を向いて走りがちで、だからベストセラーもいっせいに買うような傾向があったようですが、今の若い人は変わってきているのですか?

植田:戦中戦後も日本人にはそういう性向があると思います。それがベストセラーを生む要因の中にあるのかもしれませんが、主体性とか個性が薄いということは、今でも続いているのでしょうね。

質問:ベストセラーが必ずしも良書でないことは常識的ですが、良書をより多くのみなさんにレベルを下げずに知っていただく方法はあるんですか?

植田:非常に難しい問題ですが、たしかに「ベストセラー イコール 良書」ではないですね。ベストセラーにもいいものはありますし、時代によっては良書だったが、今ではどうかという例もありますが、いい本を質を下げないで流通させるということ、これはたしか林達夫さんという方がおっしゃっていたのですが、外国にはポピュラーライターといわれる方々がいますね。それは専門知識を大衆に非常にわかりやすい言葉で書ける人をいうらしい。実際、イリンの『人間の歴史』は難しい内容をちゃんと噛み砕いて、それをわかりやすく伝えていますが、そういうことのできる人が日本には少ないと林さんは嘆いていらっしゃいます。翻訳ものの日本語訳が非常に読みやすくてベストセラーになったものもあります。が、日本では難しい内容を難しい言葉で表現するのが学者だという風潮がありますから、なかなか難しいと思います。

日本では、専門家と一般大衆が離れすぎています。それをきちんとつなぐのが編集者です。先ほど申しました神吉晴夫さんはそれをやろうとしました。編集者が主体性を持ってテーマを設定し、それを著者にわかりやすく書くように注文をつけることをやろうとしたけれども、昭和30年代になるとハウツー書籍に行きすぎてしまったのが残念でした。

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文責・会場写真撮影:臼井良雄
HTML制作:大野令治


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