1992年喇嘛舎刊
「ねじ式」夜話・つげ義春とその周辺より抜粋



「ねじ式」夜話

権藤 晋


 私は、1967年から約5年のあいだ青林堂に在籍し、『ガロ』の編集に携わっていた。
 ほかのところでも告白したことだが、私が青林堂への転職を希望したのは、つげ義春という作家にこだわりたかったからだ。私にとって、「沼」「チーコ」「初茸がり」の衝撃は計り知れなかった。しかし、つげ義春はそのあと「古本と少女」や「手錠」の旧作を描きかえるばかりで新作に手をつけなかった。
 私は苛立ちをおぼえていた。「沼」や「チーコ」の出現によって、ようやくマンガが表現として耐えうる地平にたどりついたと判断した矢先だったからだ。このままつげ義春が作品を発表しなかったら「沼」や「チーコ」の表現的な価値までが消し飛ぶのではないか、と惧れを感じていた。
 私が青林堂に入社して数日後、水木プロダクションにつとめていたつげ義春氏と話す機会があった。
 「もうマンガは描かないのですか?」
と私はたずねた。氏は、
 「あの作品もあまり評判は良くなかったんですよ。マンガを描くのは辞めようかなと・・・・・・・。」
と低い声で、自信なさそうに答えた。私の周囲ではすごいマンガ家が現れた≠ニささやきあっていたものだから、氏のそんな話を聞いて我が耳を疑った。そして、これはなんとかせねば、と思った。
 親しくしていた石子順造、山根貞男、梶井純と相談して、『漫画主義』という批評同人誌を出すことになった。創刊号で「つげ義春特集」を編んだ。つげ作品への評価を保留した石子を除いて、山根、梶井、私の三人がつげ義春の作品について言葉を重ねた。私達は自らの判断に相当の自信をもっていた。それは、二十代の半ばを超えたばかりの私達の傲慢を意味していようか。あるいは、つげ作品に対する私達の買いかぶりに過ぎなかったのだろうか。そうではないのだと思う。当時、山根や梶井は、沈着で冷静な編集者として活躍していた。客観性を大切にする彼ら編集者からみて、つげ作品は無視してはならないマンガと映っていたのである。
 つげ義春本人が『漫画主義』のつげ特集をどのように受け止めたのかを直接聞くのはためらわれた。氏自信も、私にどのような感想も伝えてこなかった。ただ、同じ水木プロのアシスタントであるK君から、「うれしかったといってました」ということばを聞いて、少しはプラスに働いたかな、という印象をもった。
 それから一、二ヶ月して、つげ氏は「通夜」の原稿を持って青林堂に現れた。確か当日は紺色地のジャンパーを着込んでいた。原稿を裸のまま丸めて輪ゴムで留め、ポケットに突っ込んでいた。私は、その無頓着さにあきれると同時に、そこにつげ義春という作家のすごさみたいなものを感じていた。自らの表現に対して、必要以上に神経質にならない態度は、極めてさわやかであった。
 以後、私はつげ作品の第一番目の読者という恩恵に浴すことになった。これは編集者の役得、特権と言っていいかもしれない。やがて、私はつげ氏から幾つもの作品の構想を聞く機会に恵まれたのである。その半数以上が遂に陽の目をみることができなかった。それらの作品についてここで詳しく記す紙数はないが、氏がポツリポツリと作品の粗筋を語り始めたのは「海辺の叙景」あたりからだったろうか。
 ともかく、「通夜」「山椒魚」「李さん一家」が続けざまに発表されると、山根も梶井も、私も有頂天だった。私達の評価が、買いかぶりでなかったことがあらためて実証されたからだ。『漫画主義』は二号、三号とつげ論を展開し、石子順造は私達以上につげ作品にのめり込んだ。
 だが、当時の『ガロ』の読者欄をふり返れば明らかなように、つげ作品は一部の読者の心を捉えたに過ぎなかった。暗く∞難解である≠ニいうのが大半の読者の受け止め方であったのかもしれない。




 以後、氏は「紅い花」「西部田村事件」「長八の宿」「二岐渓谷」「オンドル小屋」と矢継ぎ早に発表していく。もはや私は驚嘆する以外にはなかった。毎月のように手渡された作品には、優しさや暖かさが今まで以上に加味された。私達つげファンは日常の会話の中にまで「旅もの」セリフを放り込んでは楽しんだ。
 もちろん「旅もの」ユーモアの背後には“暗い現実”が露出しており、つげ作品の本質に大きなな変化はなかったのだが、「旅もの」が多くの読者を魅了することで、方向転換を余儀なくされるかなあ、という危惧を少しは持った。もしかすると、私は遠まわしの言い方でつげ氏にそんなことを言ったような気がする。たまには「沼」や「李さん一家」や「海辺の叙景」のような硬質な作品を描いて欲しい、と。
 「二岐渓谷」や「オンドル小屋」を描き継いでいた頃のことだ。学芸書林という出版社から「現代文学の発見」というシリーズの小説集が出ていた。そこには忘れられた作家を含む、鋭い光芒を放つ戦前・戦後の文学作品が収められていた。それらの作品についてつげ氏と語り合ったことがあった。ある日、氏は突然、
 「抽象的なマンガを描いてはいけないですかね。」
と尋ねた。私は、「沼」だって「山椒魚」だってとりようによっては極めて抽象度の高い作品だと思う、と答えた。しかし氏が頭に描いているのはもっと進んだ作品らしかった。
 「植谷雄高さんの『虚空』だかに非現実的な場面が出てくるんですね。そんなシーンをマンガで表現してはいけないんですかね。」
とも言った。
 「女の子が深夜に裏道を歩いてくるんですね。それを青年が二階の部屋から見下ろしているんです。青年の窓の下を通り過ぎたとたん、女の子の首がガクッと折れて、顔が空を見上げるんです。」
 氏がこだわる非現実的な光景には、ある種の暗さとエロティシズムが混在していた。
 1968年の春に『ガロ』の増刊として「つげ義春特集」を出すことになった。旧作ばかりでは売行きに不安がつきまとったので描きおろしを収録することにした。だが、新作はいっこうに進まなかった。時に氏は観念的な作風を示した筋立てを話し終わったあと、
 「こういう作品を描いてもあんまり意味はないかも知れないね。」
とつぶやいた。それは「沼」や「チーコ」を発表した後の読者の否定的な反応を思い出しての言葉だったのだろうか。

 「旅もの」を発表し続けている頃だったと思う。『ガロ』にアンケート用紙がはさまれ、好きなマンガ家の統計がとられた。
 白土三平、水木しげるの順位は予想どうりだが、その後には手塚治、石森章太郎、永島慎二の名があり、勝又進、つりたくにこ、楠勝平がそれに続いた。つげ義春は十番目前後であった。指摘を待つまでもなく、アンケートに答える読者の大多数は若年層であるから、読者全体におけるつげファンはさらに数パーセント上積みしてもいいだろう。だが、
 「つげ義春のような無意味な暗い作品は載せないでほしい」といった感想が添えられた葉書は一、二枚には留まらなかった。当時マンガは楽しいもの∞おかしいもの≠ナなければならないという観念がまだ支配的であったからだ。
 「ねじ式」の構想を聞いたのはそのような状況の下でであった。最初の段階では、もっと地味な内容だったのだが、夢をヒントにしたらしいその物語は孤独の恐怖を伝えて余りあった。
 「血管をネジで止めるなんていうのは現実ではあり得ないことだから、描いていいのかどうか迷っているんですよ。」
と心細そうな顔で語った。
 その頃のつげ氏は、水木プロに近い薄汚いラーメン屋に接したボロボロの木造アパートに住んでいた。四畳半の部屋には小さな本棚と机があるだけだった。「ねじ式」はその部屋で生まれた。私は「ねじ式」の発想の自在さに舌を巻き、誰が何と言おうと構わないからその作品を描き上げて欲しい、と訴えた。だがつげ氏は再び、
 「こんなの描くのはまずいんじゃないかなあ」
と繰り返した。マンガ界全体を見渡したとき、氏の心配と動揺が理解できないわけではなかった。私はこの作品も発表されないで終わるのかもしれない、と半ばあきらめていた。
 『ガロ』五月増刊への描き下ろしは間に合いそうになく、急遽六月増刊に変更した。連日の催促の末に、氏は「ねじ式」の原稿を携えて青林堂にやってきた。
私は原稿を前にして圧倒されていた。その何日か前に断片的な画像は目にしており、シュールな作品の完成が間近いことは薄々気付いていたのだが、これほどまでに派手な作品になるとは思ってみなかった。そして、「ねじ式」こそは旧来のマンガ観を木っ端みじんに粉砕するだろうと思った。
 私は作者の想像力のダイナミズムにあらためて感動していた。だが、忘れてならないことは、「ねじ式」と前後して「ほんやら洞のべんさん」が描きつがれたということだ。私の記憶に間違いはないと思うが、「ほんやら洞のべんさん」は「ねじ式」の一週間後に原稿を受け取った。この作品は「西部田村事件」と並んで「旅もの」の秀作である。そして、私はこの作家の表現者としてのバランス感覚の見事さに言葉を失っていた。




 さて、この辺で「ねじ式」における私自身のミステイクを記さねばならない。
 冒頭シーンのメメくらげについては、作者が××クラゲと書き込んだのだが、印刷屋のミスでメメクラゲになってしまった、と巷間伝えられている。だが、真実は違う。私は届けられたばかりの「ねじ式」の生原稿を作者の目の前で読んだ。この奇怪な作品にとってメメクラゲという不気味な生物の存在はごく自然に思えた。当然メメクラゲは作者の創作に違いないとうけとり、椅子に座ってお茶をすすっている作者に「××かメメか?」と尋ねもしなかった。
 三時間後には白山下の写植屋に原稿を渡した。翌日打ち上がった写植もメメクラゲとなっていた。原稿に写植を貼っているとき、右隣の同僚のI君が「メメクラゲとは実に異様ですね。」と言ったので、すかさず「さすがつげさんだね!」と応じたのを憶えている。
 増刊号が出てしばらくして、つげ氏に会ったとき、
 「あれは××と書いたんだよね。」
と言われた。別に非難するふうでもなかったが、私は「えっ?」と言ったきり、大きなミスをしたことで身体を縮めた。ところが氏は、
 「いや、いいんですよ。メメクラゲのほうが作品に合っているような気がするね。」
と助け船を出した。私は自分のミスを棚上げして「そうですよね!」と元気づいた。以後メメクラゲは定着した。そして、私は、訂正を要求せずに、校正(読解)ミスさえも作品の力としてしまう作者の判断力に脱帽せざるを得なかった。

 増刊号は二万部ほど発行された。「ねじ式」という怪作が掲載されたにもかかわらず、当初は期待されたほどの反応もなかった。我が同志の石子順造でさえ、
 「ちょ、ちょっと待てよ。あの作品はすごいと思うけどさ。ショックの方が大きくて、まだ整理できていないんだよ。一週間だけ待ってよ。あの作品の意味と価値についてじっくり考えるからさあ。」
と尻込みしていた。私は面白半分で、会う人ごとに「ねじ式」の感想を求めた。まるでマンガ意識を測る踏絵であるかのように、である。
 石子を除く『漫画主義』のメンバーは、「ねじ式」に衝撃を受けながらも実に冷静であった。梶井だか山根だかが語った。
 「『沼』にはじまって『チーコ』『李さん一家』『紅い花』があって、その後に旅もの≠ェ続けば『ねじ式』のような作品が登場するのは当然の結果であって、このことで驚く必要は全くない。むしろ『ねじ式』の表現をどのように捉えていくかだよね。」
と、私たちはシュールレアリズム的な形態というだけで「ねじ式」を評価することには疑いをはさんでいたのである。
 「ゲンセンカン主人」は、「ねじ式」や「ほんやら洞のべんさん」の翌月に発表された。「もっきり屋の少女」はその翌月であり、この三ヶ月は月一作以上のハイペースである。この間、作者は想像力と精神力の全面展開を試みたことになる。「ゲンセンカン主人」も「もっきり屋の少女」も、前作を完成させた後で構想されたのではない。「ゲンセンカン主人」は「ねじ式」が思い描かれたと同時であり、「もっきり屋の少女」は「方言について」の延長線上に位置していた。

 ところでつげ氏は「ねじ式」という冒険作を発表した後でも、少なくないとまどいを見せていた。つまり「ゲンセンカン主人」の最後の一頁を描くかどうかで足踏みをしていたのだ。最終頁を描いてしまうと単なる絵解きになってしまう。しかし、従来のマンガ観はそれを強要する。当時はまだ説明過多がマンガ成立の第一要件であったのである。氏は、
 「そこを描かないとまた難解だと言われるんじゃないかなあ。でもやはり描きたくはないんですよね。」
と言った。私は、全ての読者にわかるということは不可能なことだし、作家が描きたいように描くのが最良ではないかと、氏が希望する方向で進めるよう助言した。やがて「ゲンセンカン主人」は、作者が満足する作品として結実した。
 全力疾走を続けた氏は、次第に疲れを見せ始め、「もっきり屋の少女」を描き上げると休筆期間に入った。ようやくつげ義春の世界≠ェ『ガロ』の読者の多数に支持されそうな気配が感じられた時期であり、残念であった。
 だが、氏が精神的に追い込まれていたのは事実で、
 「どこか知らない土地でくらしたい」
と口走るようになっていた。ある日曜日の朝、つげ氏から電話があり、「マンガをやめたい」とつぶやいた。その翌日青林堂に出社した私に水木しげるさんから電話が入り、「つげさんが旅に出ると言っています。」と言った。あわてて私は水木プロにかけつけた。水木さんは険しい表情をしていた。二階の応接間につげ氏を呼び、二人で話すようにと言って部屋を出た。
 つげ氏の意思は固そうだった。
 「これを全部あげますから」
と紙包みを手渡そうとした。私は、
 「受け取れません。旅に出るのはわかりましたから、気が向いたら戻ってきてください。もしつげさんが戻ってこないようでしたら、僕も『ガロ』の編集から手を引きます。これは冗談ではなく本当です。」
と脅迫じみた言葉を連ねたのだが、その頃のつげ氏の心境を測ると完全に引きとめることはできないなと思った。
 結局、氏は何週間かの蒸発旅行の末に帰京した。しかし、もしあの時、紙包みを受け取っていたら、氏はなかなか帰らなかったかも知れないなあ、と思った。
 蒸発旅行から帰って二ヶ月ほどして発表された作品が「やなぎや主人」である。