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検証・三陸大津波 1)宿命

2011年05月17日

写真

明治三陸津波の慰霊碑には「海嘯溺死精霊塔」と刻まれている=大槌町吉里吉里

 船越湾を見下ろす大槌町吉里吉里地区の高台に吉祥寺がある。その寺に向かう坂の途中、ケヤキと杉の2本の巨木に抱かれるように、「明治三陸津波」の慰霊碑が立っている。

 「海嘯(かいしょう)溺死(できし)精霊塔」。当時、津波は、海の水が口をつぼめて声を出すという意味の海嘯と呼ばれていた。送り盆の8月16日、近所の人たちはこの慰霊碑の前に集い、野の花を手向け合掌する。吉里吉里4丁目の上野康子さん(62)は話す。「死者を弔い、津波災害を風化させまいと続けています」

 三陸沿岸は「津波常襲地帯」と呼ばれ、「津波は宿命」とされてきた。

 近代以降でも、1896(明治29)年の明治三陸津波、1933(昭和8)年の昭和三陸津波、1960(昭和35)年のチリ地震津波に襲われた。地震に詳しい岩手大学名誉教授(地域防災学)の斎藤徳美さん(66)は「三陸には元号が代わるたびに津波が襲来する」と指摘していた。そして今回、「平成三陸大津波」が押し寄せてきた。

 今回の浸水範囲は「明治」とほぼ重なり合う。「黒い波の後に、白い波頭を立てて大きな第二波がやってきた」。多くの人がそう証言するように、大槌湾と船越湾を襲った津波は「明治」と同様、海岸沿いに広がった町の中心部や、赤浜、吉里吉里地区の集落をのみ込んだ。

 津波はさらに大槌川、小鎚川を逆流した。大槌川の河口から約3・5キロの柾内(まさない)橋、小鎚川河口から約2キロの臼沢橋それぞれの周辺までさかのぼり、川岸の民家を押し流した点でも「明治」と同じだった。

 「日本被害地震総覧」(東京大学出版会)などによると、大槌町における「明治」の波高は、浪板と吉里吉里10・7メートル、安渡4・3メートル、大槌2・7メートル。県内の死者・行方不明者約1万8千人、町内では600人の犠牲者を出した。

 陸前高田市から宮古市までの沿岸を調査した東京海洋大教授(海岸工学)の岡安章夫さん(49)は「今回の津波は『明治』と比べて同じか、ちょっと大きいかなという規模。これを『想定外』と言ったら、全部が仕方がないになってしまう」と語る。

 5月9日の「朝日歌壇」で、岩泉町大川の農業山内義廣さん(63)はこう詠んだ。

 百二十年に三度も津波に襲はれし海やまの民よ三陸酷(むご)し

 山内さんは話す。
「私の知人も数多く亡くなった。大津波は三陸の宿命のようでつらいです」

    ◇

 巨大地震により三陸沿岸を襲った大津波は各地に甚大な被害をもたらした。本格的な警報システムが整い、避難訓練を重ねてきたのに、なぜ惨事を防ぐことが出来なかったのか。壊滅的な打撃を受けた大槌町を舞台に検証する。

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