第20回
愛情あふれる「バカモン!」の一言
声で演じる理想の父親、磯野波平とともに40年
外国ドラマや映画の吹き替え、アニメ、ゲームと、出演作品は数百本。
この人の声を聞いたことがないという日本人はいないだろう。
50年以上にわたって活躍し続け、声優という仕事を切り開いてきた永井さんに、声だけによる演技の難しさと面白さ、そして、言葉についてのお考えを聞いた。
ながい・いちろう
1931年生まれ、大阪府池田市出身。
京都大学文学部仏文科卒。
俳優養成所に通いながら電通に2年間勤務。
劇団三期会時代に吹き替えの仕事を始め、「ローハイド」でウィッシュボンを演じて人気に。
「サザエさん」の磯野波平役はすでに40年。
2009年声優アワード功労者賞を受賞した。
著書に『朗読のススメ』など
年々、若返っていく波平に込められた演技
テレビアニメ「サザエさん」に登場する磯野家の大黒柱、磯野波平役を40年にわたって演じ続けている永井一郎さん。 息子のカツオを叱りつける「バカモン!」の一言を耳にすると、「子どもの頃、オヤジに叱られたことを思い出す」というお父さんたちも多い。
ところが最近は、波平のように小気味よくわが子を叱りとばす父親はいない。
「躾やけじめなど、家庭教育の基準が無くなってしまったからでしょう。 波平は平均的日本人の生活感覚を大事にする父親ですから、カツオがそこを逸脱すると、『バカモン!』と叱りつけます。 小さなことでも、あるべき形を崩すのが嫌いなところは、まさに明治・大正の教育を受けた日本人です」
会社に勤め、小学生のワカメの父親である波平の年齢は、せいぜい五十代半ば。 長谷川町子さんが原作を連載し始めたころを基準にすれば、波平は明治生まれになるが、テレビアニメが放送開始されたときを基準にすれば大正生まれ。 そして現在、五十代半ばなら、戦後生まれである。 年をとらないどころか、生まれた年代からみれば、年々、若返っているのである。 その兼ね合いは演者として悩むところのようだ。
「年をとらないサザエさん一家はたしかに不思議な家族です。 しかし、だからこそ普遍的な日本の家族像として受け入れられているのだと思います。 波平は、いつの時代にも通用する日本の父親として演じています。 つまり、父親の理想像なんじゃないでしょうか」
永井さんに会うまでは、「七色の声」を使い分けるのが声優だと思っていたが、波平役は永井さんの地声。 タクシーに乗ったとき、運転手さんから「あなたサザエさんに出てくるお父さんじゃないですか」とずばり言われたこともあるそうだ。
声帯を傷めたときは引退を考えたことも
声が出せなくなったら声優は引退せざるを得ない。 永井さんは3回ほど、そんな危機に直面したことがある。
1度目は、真冬に暖房の効いているスタジオから外に出た途端、冷たい空気を吸って片方の声帯が麻痺してしまったという。 そんな苦境を救ってくれたのは、2時間もかけて体全体を丁寧にマッサージしてくれた共演者だった。
映画に、アニメにと、この仕事に就いて以来、ずっと忙しく働いてきたからだろう、医者には、身体全体がガチガチに凝っていますよと言われたほど、全身の筋肉が硬直していたという。
「回復するまで1カ月以上掛かりましたが、仕事を続けられたのはミキサーの方々がいろいろ苦労して調整してくれたおかげです。 毎日、マッサージを受け続けて筋肉を柔らかくしてもらったら、自然に治りました」
2回目と3回目はガンの手術をしたときで、どちらも内視鏡手術だったが、身体のどこかの細胞がショックを受けると声帯も萎縮するものらしい。
「でも、仲間に誘われて大酒を飲んだら、知らない間に普通に声が出るようになっていたんです。 その後は、声帯のためにとお酒を飲むようになり、今はもっぱら芋焼酎党。 血の巡りがよくなるから声帯の筋肉にもいいようです」
50年に及ぶ活動の裏には、こんな苦労があったのである。
言葉は自分を守る道具 形を崩すと誤解を招く
永井さんが声優の世界に入ったのは、民放テレビ放送がスタートした直後。
「演劇をやろうと思っていたのですが、所属していた劇団が受けていた外画(洋画)の吹き替えの仕事に引っ張り出されたのがきっかけで、この世界に居ついてしまいました」と笑う。
アニメ時代に入ってからは、「鉄腕アトム」「海賊王子」「宇宙戦艦ヤマト」「YAWARA!」「未来少年コナン」など、数多くの人気作に出演し、「機動戦士ガンダム」ではナレーションから無名の役まで数十役を演じた。 主に老け役を割り振られてきたのは、「ローハイド」で「若いのに老け役をやれるのがいると重宝がられたのが始まり」というが、それだけではなく、永井さんの声が成熟した大人を感じさせるからだろう。 映画「スターウォーズ」日本語版制作時には、ヨーダの声役の候補に挙がったのか、ジョージ・ルーカス監督から「ナガイは英語は話せるのか?」と、出演を打診されたことがある。
「身長160cmを超えない私でも大きな男を演じられるのは、実際の姿が見えないからです。 舞台と違って、いろいろなタイプの人間や、果ては人間じゃない存在まで演じられるのが声優の面白さ」と言う。
一人で何役も演じることも多い永井さんだが(最高は、半年続いたラジオドラマでの55役だそうだ)、役によって声を変えるわけではない。 声の高さやテンポを変えて人間性を出す工夫をし、それぞれの役について、「一人の人間をつくりあげる」ようにするのが、役づくりのコツらしい。
言葉で勝負している声優ということもあり、言葉遣いにも一家言を持っている。
「言葉は文化です。 文字や音楽やスポーツなど、どんな文化にも形があるように、形を守って使いこなさなければ日本語は乱れてしまいます。 また、言葉はコミュニケーションの道具である前に、自分を守る道具でもあります。 使い方を間違えると誤解を招くばかりか破局にいたることさえあります」と、注意を促す。 携帯電話でのコミュニケーションは、まだ形ができていないだけに発展途上。 通話もメールも、相手の置かれた状況や気持ちを考えてするようにしたほうがいいとも指摘する。
「欧米の言葉の二人称はせいぜい2種類ですが、日本語にはキミ、アナタ、オマエ、ナンジ、ソナタなど30種類以上あって、そういう複雑な言葉を使い分けるのが日本の文化の形です」
言葉に込められた文化をわきまえて使うのが分別のある大人の生き方であり、波平のような理想の大人になる秘訣なのだろう。
2009年12月16日 掲載
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