テレビ業界の
“暗黙の了解”を
吹っ飛ばせ!

2010年某月某日。「しゃべくり007」の収録スタジオの隅で、出演者たちのトークを見守っている男がいる――この人物こそ、企画・演出を担当する川邊昭宏だ。企画の発端は、2008年桜の便りが届いたばかりのころにさかのぼる。当時、「エンタの神様」のディレクターだった川邊は、秋の大型特番に向けて企画書を練っていた。目指したのは、「エンタの神様」に代表されるような若手芸人中心のネタ番組ではなく、複数の実力のある芸人メインの、額に汗して“しゃべくり倒す”番組。近年の実力派芸人たちの冠番組はある程度企画が固まっており、MCとしてVTRへ振ったりすることが中心。また、冠番組を持つようになると“テレビ業界の暗黙の了解”と言わんばかりにお互い同じ土俵(番組)に出演しなくなっていた。そんな状況に疑問を持った川邊は、できあがった数枚の企画書をすぐさま編成部に見せた。すると、「なかなか面白そうじゃない」と好感触。「せっかくだから、7月から土曜の17時30分の30分枠で出演者との関係を構築してから秋の特番にしよう」…こうして「しゃべくり007」は走り始めた。

実現不可能?
売れっ子芸人3組へ
出演交渉

キャスティングにとりかかるため、早速、川邊はプロデューサーの田中宏史に話を持ちかけた。田中とは川邊が企画・ディレクターを務める深夜バラエティー「不幸の法則」以来のつきあい。その後も自然と様々な番組でチームを組むようになっていた。川邊と田中、そして気心の知れた構成作家とひざを突き合わせて話し合った結果、川邊と田中が学生時代に夢中になったバラエティー番組に出演していた“くりぃむしちゅー”と“ネプチューン”が候補に挙がった。また、2組の先輩芸人を脅かす実力を持ち、番組に程よい緊張感をもたらす存在として、伸び盛りのチュートリアルに白羽の矢を立てた。田中が最初にくりぃむしちゅーのもとに出演交渉に向かったのは、すでにゴールデンウィークが明けていたころだった。「『この3組でトーク番組がやりたい』と説明したとき、くりぃむしちゅーの2人にはすぐに『面白そうだね』と言ってもらえました。一方で苦労したのは、スケジュール調整。それぞれレギュラー番組を多数抱える売れっ子芸人だけに、『本当に実現するのか?』と私自身半信半疑でした」と田中は話す。

台本をなくすことで
“生っぽい”
番組に演出

番組をスタートするにあたり、川邊が企画段階からこだわったことがある。それは“台本を作らない”こと。「昔の日テレでは、土曜日の夕方の時間帯に『TVおじゃマンボウ』や『鶴ちゃんのプッツン5』など、荒っぽい作りの“生”感覚のある番組が放送されていて人気があった。そんな風に若い視聴者を“ちゃんと笑わせられる”番組にしようと思いました“生っぽさ”を出すためには台本をなくし、予定調和では生まれない笑いを提供することが狙いでした」と川邊は話す。また、“台本がない”ということは、芸人にとっても一つの材料でどれだけしゃべれるか、どれだけ笑わせられるか、芸人としての本質が試される。そこに面白さを感じてもらえたためか、3組の出演交渉はあっという間にまとまった。2008年7月、いよいよ放送がスタート。最初のころはどれだけしゃべれば番組になるのか、お互い手探り状態だったが、徐々に7人それぞれの役割が発揮され、笑いの必勝パターンができてくるまでになった。そのころにはコアなファンも少しずつ増加し、番組は軌道に乗っていった。

“半年で打ち切り”の予想を裏切る結果に

土曜レギュラーで番組がはじまった当初、30分枠にもかかわらず、2時間半カメラを回し続けたことも。また、編集作業では、どこを切り取れば面白さが伝わるのだろうと悩むことも数知れず。出演者に相談しようかと本気で思うこともありましたが、そこを頼ってしまっては“視聴者”目線がなくなってしまう。自分たちが視聴者の立場に立つことで、面白いかどうかを客観的に判断するように心がけました。また出演者7人も、OAを自発的にチェックして、話の使われ方や膨らまし方をそれぞれ研究してくださっているようです。こうしたお互いの努力が“必勝パターン”となり、「半年で打ち切りになるだろう」と思われていたものが、丸2年以上続く番組へと成長できたのだと思います。

バラエティー局 1996年入社 商学部卒
「THE夜もヒッパレ」でディレクターデビュー。以来、「電波少年に毛が生えた」「エンタの神様」「行列のできる法律相談所」のディレクターを歴任。プロデューサーの田中とは「不幸の法則」以来のつきあい。「嵐にしやがれ」の企画・演出も行っている。

 
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