ヤスリ事典
仁方とヤスリ

平成13年3月末現在
仁方とヤスリ (全国シェア95%)

 仁方ヤスリの起こりは、1824(文政7)年の金谷弥助の大阪での修行とも、刀匠 梶山友平 の1867(慶応3)年の大阪での製造技術習得がもとになっているともいわれています。
 いずれにしても仁方ヤスリは、ルーツが大阪で、農村鍛冶の副業程度から始まって、 しだいに家内工業として発達しました。
 当初の製法は、日本刀と同じ材料の玉鋼(たまはがね)を火造りで延ばしてヤスリの形状にし、 目立ても手切りでコツコツと行なっていました。 そのため、1人が1日に目立てをすることができる数は、20〜30本だったようです。
 明治後半には目立機が考案され、大正初期にはそれにモーターが取り付けられました。 さらに同じ頃に、ヤスリの形状や大きさを設定できる圧延機も開発されたことにより、 1日に1人でおよそ200本の目立てができるまでに生産量が飛躍的に伸びました。
 戦前までは、新潟、東京などもヤスリ産地として名をなしていましたが、 戦災で打撃を受け衰退しました。仁方は戦争の被害が少なく、 戦前からのヤスリの加工・製作機械の考案や技術革新により高品質のヤスリが大量にできるようになり、 ヤスリの一大生産地になりました。
 1961(昭和36)年から景気が上向き、その年には120工場、 2700人の従業員がヤスリ作りに関わり、40年代前半にかけて盛況を極め、 全国シェア85%、海外80余国に輸出するまでになりました。 その頃から公害防止が叫ばれだし、1972(昭和47)年26社、 1980(昭和55)年24社が仁方湾を一部埋め立てたヤスリ団地に進出しました。 順調に業績を伸ばしていたヤスリ業界も幾度かの不況にあい、 一部の企業は、工具や金物などの仕入商品を扱ったり、 砥石やダイヤモンド工具の生産をするようになっています。
 現在、組合員50社で製造するヤスリは、年間1100万本、全国シェアの95%を占めています。 作られたヤスリは、全国の機械、金属、木工、美術工芸関連の事業所で使用されてます。
 仁方のヤスリ企業名に多く使われている『壷』や商標の『 』マークは、 ヤスリの焼入れに使う味噌を保存する壷から採ったとか、 大阪で評判の良かった壷井豊次郎の商標『壷と』を真似たものだという話です。



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