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ヒーローズ エデュテイメント会長 秋沢志篤氏(5)

2008/11/15

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「小学校のクラスメート、ファイティング原田さん(右)と=2007年7月、東京・麹町」
「小学校のクラスメート、ファイティング原田さん(右)と=2007年7月、東京・麹町」

 ■振り返って感じる父のDNA

 私は石油会社に入り、新規事業としてコンビニエンスストア会社を企画した。考えてみれば、いずれもライフラインを守るビジネスだ。また、計画倒産をたくらんだ取引先にだまし取られた預金証書を取り戻すため、3日間民家に張り込むなど、「犯罪者にされて、会社を辞める羽目になってもいい」とまで思いこむほど、時には仕事にのめり込んだ。ライフラインにかかわる仕事を選んだことや、仕事に対するマインドを振り返って感じるのは、父のDNAをしっかりと受け継いでいるということだ。

 父は軍人で、家にはほとんど帰らず、たまに馬に乗って帰ってくると、父の顔を覚えていない私は泣き出したそうだ。終戦後、母がろく膜炎を患ったため、父の元を離れて鎌倉の伯父の家で療養することになり、私も母と一緒に鎌倉で暮らした。父は祖母と弟とともに東京・千住にいた。

 一家がそろって生活を始めたのは東京・世田谷に家を構えてからだ。私は小学4年生になっていて、世田谷区立東深沢小学校に転校。そこで元プロボクサーのファイティング原田さんと同級になった。当時、私はスポーツはからきしダメ。級長でお勉強タイプ。けんかは天才的ラッシャー、原田さんの独壇場だった。

 だが、高校のころからスポーツに目覚めた。成蹊大ではバスケットボール部に入り、4年生の時はキャプテンを務めた。バスケットの練習とマージャン、パチンコに明け暮れる日々。おかげで、共同石油(現ジャパンエナジー)に入って、各種契約の手続きや管理を担当する部署に配属された時は、何をすればいいのか何もかもさっぱりわからない状況であった。やむなく法学部の夜学に通った。

 共石に入社したのは、父がガソリンスタンドとタンクローリーによる運送会社の経営をしていて、なじみを感じていたためだ。

 父のことで鮮明に覚えているのは、新潟に向かったタンクローリーのうちの1台が交通事故を起こした時のことだ。夜中に電話が鳴り、父が神妙な声で応答しているのが聞こえた。受話器を置くと、「これから新潟に謝りに行く」と言って出かけた。どうも事故の相手は暴力団関係者で、しかも死亡したようだという。大学生だった私は、まんじりともせずに父の帰宅を待った。

 翌朝、戻った父を見ると全身泥だらけ。まず親分の家に行き、土間に土下座して謝ったらしい。親分は「お前一人で来たのか」と聞き、最後に「保険金を全額払え」と言って許してくれたという。被害者側にも過失があったのかもしれない。

 父の姿を見て、つらくても、怖くても、何事も逃げてはいけないということを学んだ気がする。(原誠)

 ※次回は25日からで、コマツ会長の坂根正弘氏です。

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