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選手インタビュー


選手インタビュー
選手一人ひとりにドラマがあるー 増嶋竜也のドラマ

 ファインダー越しに、“マス”の照れ臭さが伝わってきた。18歳のころから、もう何度も取材を受けているだろうに、カメラが苦手だという。短い撮影時間の最後に、
「僕はそんなにやさしくないですよ」
そう言いながら、こちらの注文にすっと応えてくれた。

増嶋竜也

 マスこと増嶋竜也は、今季期限付き移籍でサンガにやって来た。そして、開幕スタメンのポジションを取り、サンガのディフェンスラインを支える。
試合中の1対1での勝負の顔とはまったく違う普段の柔らかな印象。1日1万アクセスもあるという「竜也のブログ」。
 来た当初は、名前を間違えられることもあるほど、京都では知られていなかった。遠いところから1人京都にやって来て、関西弁にもまだ慣れない。
 だが、彼は孤独ではなかった。
 多くのファンに支えられ、日々サッカーのことを考えて生きている。今一番恐いのはケガだと言い、不安を抱えながらもチームに溶け込み、サッカーを楽しんでいる。
「京都に来てよかった」
 本当にそう実感できるのは、今シーズンが終わったときなのかもしれない。

子どものころ
増嶋竜也

 「普通の子どもでした」そう話し出したマス。
 どちらかというと大人しくて、恥ずかしがり屋だったという。だが、スポーツは周りの子より得意で、体も大きく目立つ少年だった。
 「鉄棒とか器械体操系だけは苦手でしたね…」
 男ばかりの3人兄弟の真ん中。2歳年上の兄の影響で、小学校2年のときに地元のサッカーチームに入った。
「僕がサッカーを始めたら、おじいちゃんとお父さんが庭にゴールを作ってくれて、そこで毎日ボールを蹴ってましたね。近所の子が集まって、10人対10人でミニサッカーをしたりしてました」

増嶋竜也

 カズに憧れていたマスは、またぎフェイントやカズダンス、何でもカズの真似をし、サッカー選手になりたいという夢を抱いた。そして、後にカズと対戦する日が訪れるのである。

 マスは、気が付いたらフォワードのポジションにいた。 「小さいころはあんまりポジションとかはなくて、自由にやってて、自分でボールを持って前に運んでた。自然と前にいたのかな」

 歳を重ねるごとに、前のポジションでやりたいという意識がハッキリと出てきたという。 しかし、マスの希望とは裏腹にディフェンダーへの道が開けるのである。

市船(市立船橋高校)時代

 マスは、サッカーの名門 地元の市立船橋高校へと進学し、サッカー部に入った。

 子どものころから、楽しくてしょうがなかったサッカー。だが、市船には、練習や上下関係など厳しい環境が待っていた。
 その厳しさの中で、マスは強さを身につけ成長していくのである。
「練習についていけないなって思った。必死にやるので精一杯で。きつかったってことしか覚えてないです。私生活も、サッカーの練習もほんとに厳しかった。レベルが高かったし、毎日いっぱいいっぱいでしたね」

 高1の終わりごろ、マスは監督に呼ばれた。
「特に理由も言われずに、『ディフェンダーをやれ』と言われました。そのときは、嫌々やってましたね」
 それからずっとディフェンダー。だが、その中に見出したやりがい。
「相手が強ければ強いほど、抑えたときの感じが気持ちいいんです。失点ゼロで抑えた試合は、ディフェンダーがチームを抑えるから、すごい気持ちいい」
 そして、マスは1年でレギュラーをつかむのである。

増嶋竜也

 レギュラーになってからも、何度も辞めたいと思うほど厳しくて辛かった毎日。そんなマスを支えたのは両親だった。
「朝が早かったので始発で行ったり、帰りが遅かったりして。そういうときも親が駅まで送り迎えをしてくれて、弁当を作ってくれた」
 当たり前にくり返される毎日の生活の中で、見過ごされがちな家族の支え。マスはそれを感じ、力にした。そして家族の思いやりに応えるように頑張った。

増嶋竜也

 辞めたいと思っていたサッカー部。だが、続けてよかったと思える瞬間が訪れるのである。
「高校2年のときに全国制覇をして、嬉しかったですね。昔からの夢だったんで、それが達成できたことがすごく嬉しかった。なんとも言えない思いがありましたね…」
 目標としていた全国大会での優勝。厳しいサッカー部での練習を続けプレッシャーに耐えたからこそ手に入れた優勝だった。

 そして、3年では市船のキャプテンとして、チームを牽引する役割を与えられるのである。
「監督から言われたので、自分ができることはやろうと思った」
 実力はさることながら、明るい性格のマスの存在は、チームのムードを盛り上げた。チームの先頭に立って声を出し、常にキャプテンの自覚を持ってチームを引っ張った。その経験が、後のユース代表での活躍にも生かされるのである。

プロへ

「子どものころからサッカー選手になりたいと思っていたけど、真剣になりたいと思ったのは、高2とか高3かな。高2までは大学に行こうと思ってたんですけど、高3になってプロから声がかかった。監督と話をして、そういう選択肢もいいのかなと思った。親にも相談して、プロに決めました」

 市船でキャプテンをし、ディフェンダーとしての実力も高かったマスのところには、いくつものクラブからオファーが来たという。その中で、マスはFC東京へ行くことを決断するのである。
「一番自分に合ってるのかなと思ったのと、レベルアップするのに一番いいチームだと思った」

増嶋竜也

 マスは、プロサッカー選手になった。
 高校時代、本当はフォワードをやりたくても文句を言わず、ひたすらディフェンダーとしての技術を磨いてきたマス。今は、あの時ディフェンダーに転向させてくれた監督に感謝しているという。そして、厳しい練習に耐え、サッカーを続けてきて本当によかったと、報われた思いがした。

 マスは、ルーキーで背番号5をもらい、開幕デビューを果した。1年目は10試合に出場したが、2年目は4試合にしか出られず、試合に出られないという初めての壁にぶち当たるのである。
「1年目は何試合か出られたけど、今までやってきたことがまったく通用しないことがわかった。すごい壁を感じていたのが2年目。2年目はほとんど試合に出られずに終わって。今までのプライドも全部粉々になったような感じで、また0から考えるような年でしたね」

増嶋竜也

 うまくいかないことがマスを苦しめ、焦りとなっていた。そんなときに支えてくれたのは、当時FC東京のコーチをしていた長沢徹さんだった。
「テツさんがいて、だいぶ精神的にも支えられて。テツさんがいなかったら今の自分はいないと思うくらい大きな存在でした」

 マスは周囲の人に支えられて、前向きに考えるようになった。まず、体を鍛えていった。そして、試合を重ねて経験を踏みたいと考えた。
「あまり目先のことは考えないで、何年後かに試合に出られるように、筋肉トレーニングをするようになりました」

 チームで試合に出られない一方で、マスは、大熊清監督が指揮を執る各年代の日本代表に呼ばれていた。 「代表は代表、チームはチームではっきり区切って、別のチームって考えてやってました。もちろん、チームでは試合に出られないという複雑な気持ちはあったけど、代表で出れてたので、それをいい経験にしてましたね」

 マスは代表での経験をいいモチベーションにし、チームと代表とのバランスをうまくとって、夢に向かっていた。

 2004年、アジアユース選手権。U-19(19歳以下)日本代表は、第2の黄金世代ともいわれ、注目が寄せられていた。ベスト4に進出したチームが、オランダで開催されるワールドユース2005に出場することができる。 日本のディフェンスの中心には、マスの存在が欠かせなかった。そして、マスはU-19日本代表のキャプテンとして大きな期待を背負い、チームをまとめた。

 慣れないアウェイの土地で下痢に苦しむというアクシデントにも負けず、日本は3位となり、ワールドユース出場権を掴み取ったのである。

増嶋竜也

 だが、マスはケガに悩まされることになる。
 2005年1月に手術をし、代表合宿にも参加できなかったマス。目前にはワールドユースが控えていた。マスは、3月にはピッチに戻り、ワールドユースを戦う27名に選ばれる。そして、2005年6月、U-20日本代表として、ワールドユースに出場。大熊監督からの信頼も厚く、キャプテンとしてチームを率い、世界と戦った。
「代表というのは、国の代表として戦うので、大きな重みを感じながらやっていました」
 日本は、初戦でホスト国のオランダに敗れるものの、グループリーグを突破。決勝トーナメントでは、未勝利のままベスト16止まりとなった。だが、マスは日本代表のキャプテンとして世界を舞台に戦い、大きな力をつけたのである。

増嶋竜也
増嶋竜也

 2006年8月中旬、反町康治監督率いる新しいチームが、北京五輪に向けてスタートを切った。監督が替わっても、マスはそのメンバーに呼ばれ、北京五輪への第1歩を踏み出した。
 誰が落とされるかわからない。そんな不安を常にかかえながらも、マスは夢に向かっていた。

 だが、8月末、不運にもまたケガをしてしまう(左足関節捻挫)。

 代表は厳しい場所。次々に若い選手がアピールしてくる。一度戦列から外れてしまうと、なかなか元の場所には帰れない。

初めての移籍。甲府

 キャプテンマークを巻いてアジアユースを戦い、そして、ワールドユースにも出場したマスだったが、負傷で長期離脱してからは、代表に呼ばれていない。ワールドユースの先には、五輪が見えていたはずだった。
 FC東京でコンスタントに試合に出場できていなかったマスは、強い気持ちで東京を出た。

増嶋竜也

 2007年、ヴァンフォーレ甲府へ期限付き移籍。

 北京五輪を目指す反町JAPANは、2月に迫る2次予選に向けて動き出していた。北京五輪までもう時間の猶予はない。代表に再び選ばれるためには、チームで試合出場を重ねてアピールしなければ。そして成長し続けなければ。

 マスは、五輪代表の夢をつかむため、試合に出たいと思った。

「試合経験を積みたい。ここで一回リセットして、新鮮な気持ちでやりたいと思った。いいリセットができるように、新しいところで経験を積みたいなって。もちろん、オリンピックを意識してました」

「甲府はいい選手も多かったし、レギュラーをとるのは大変でした」
 だが、センターバックのレギュラーとして、見事に開幕スタメンのポジションをつかみ取ったのである。そして、4月11日 ナビスコカップで移籍後初ゴールを挙げるなど、マスはプレーで存在感を示し、試合に出続け、甲府の一員としてサポーターにも認められていった。

 そして、5月末、マスは念願の北京五輪アジア2次予選の代表候補24名に選ばれ、代表復帰を果たす。代表選出は、甲府でクラブ史上初の快挙となり、その活躍が期待された。だが、代表合宿を経て、さらに24名から19名に絞られるメンバー。その中にマスの名前はなかった。

 マスは、甲府で守備の中心となり32試合に出場。空中戦の強さを見せ、DFながら5得点を取った。

増嶋竜也

 サンガは、マスにオファーを出した。

「東京に帰りたいという気持ちがあった。でも、サンガは久さん(加藤監督)が声をかけてくれて、どっちにするかすごく悩みました」
 マスは、2008年を迎えるにあたり、FC東京に戻るか、京都に移籍するのか迷っていた。そして、元いたチームに帰る心地よさよりも、チャレンジすることを選んだ。

増嶋竜也

 加藤監督が初めて増嶋竜也を見たのは市船時代。よく守る印象が残っていたという。

「久さんに、『サンガはJ1に上がってスタートするにあたって、いろんな選手も集まってくるし、アキさん(秋田コーチ)もいる。成長するにはいい環境が整っているし、一緒に戦っていこう』と言われて、自分としても楽しみがあるなぁと思った。久さんは、わざわざ東京まで会いに来てくれたので、すごい嬉しくて、そういうのが一番の決め手かな」

 加藤監督が会いに来た翌日、マスは京都へ返事をした。

 2007年12月6日、マスは傷めていた左足首の手術をした。FC東京最後の年に傷めてからそのままにしていた軟骨を除去。リハビリをしながら、2008年1月19日、サンガタウンで自主トレをスタート。手術をして、新しい土地に来たばかり。不安を抱えながらも、一日も早くサンガに溶け込みたいという思いだった。

 2年ぶりにJ1の舞台で戦うサンガは、マスに大きな期待を寄せていた。そして、マスも新体制記者会見で、「年間を通して試合に出続けたい」と抱負を語った。リハビリを続け、2月のキャンプ中に全体練習に合流。練習試合に出場し、連携を高めていった。そして、開幕戦でスタメン出場。
「開幕戦は一番印象に残ってますよ。スタジアムで初めてサンガのファンを見たり、サンガのユニフォームを着たときは、特別な思いがした」

 マスは、サンガのディフェンスラインに、なくてはならない存在となった。

増嶋竜也
増嶋竜也

 だが、ケガはまだ治ってはいなかった。
「ケガに一番悩んでいるのは、今かな。昔はそんなに悩んではいなかった。今が一番きつい…」マスは、そうもらした。

 それを感じさせないプレーを見せていた。これまで暑さに弱かったマスが、京都の暑い夏にもコンディションを落とすことなく試合に出続けた。足の痛みがひどいときは、別メニュートレーニングで調整しながら、試合に焦点を合わせた。

「足の痛みはしょうがないです」
 これからも自分の体とうまく付き合いながらプレーしていくしかない。

2008年8月北京五輪
増嶋竜也

 目標にしていた北京五輪。その舞台にキャプテンとして立っていたのは、6月のリーグ中断期間、サンガに移籍してきた同い年の水本だった。共にサンガのディフェンスラインを支えるチームメイトが、北京で戦っていた。
「ミズはフル代表にも行ってるし、そういう経験を積んでる選手と一緒にできるってことで、自分はいいところを盗みながらやってる。悔しい気持ちはあるけど、経験を聞いたりしながら、今はフル代表の目標に向かってる。ミズとは昔から一緒にやっててやりやすいし、久しぶりに一緒にやって、懐かしさが出てお互い楽しみながらやっている」

 ふたりは5年前、ユース代表で一緒に世界と戦ってきた。今はよく食事に行ったりして、プライベートでも仲がいい。水本が来て、いいライバル心が生まれたという。水本の存在は刺激になると同時に、代表への確かな道しるべともなる。
 サンガのメンバーが代表に呼ばれることは、まさに代表への道が開かれていることを意味する。

増嶋竜也

「代表は、国の代表として戦うメンバー。そんなに簡単に行けるところじゃないんで、支えてくれた人に感謝しながら目指したい」

ケガで練習や試合に出られなかった時期に、チームやファンに本当に申し訳ないと思っていたマス。そんな時期があったからこそ実感できたファンの大きな存在。今は感謝しながら日々サッカーをしている。だからこそ強い。どんなときも応援してくれる人がいるから、頑張ることができる。マスは、ファンをいつもそばに感じている。

新しい武器
増嶋竜也

 サンガに来て、マスは新たな武器で観客の注目を浴びることとなった。ロングスローだ。 「練習試合で、サイドバックをやったときに、ロングスローを投げた。それを見て、久さんが興味をもってくれて。それからなんです、投げるようになったのは。自分ではそれまであんまり必要ないと思ってたんで、投げてなかったですね」

増嶋竜也

 加藤監督は、マスが投げるとスゴイらしいというのを他の選手から耳にし、投げさせたという。
 今では、マスのロングスローに、西京極のスタンドから大きな手拍子が湧く。鍛え上げた筋肉を使い、体のしなりを効かせ、長い手から繰り出されるロングスロー。マスいわく、飛距離出すには、柔軟性が必要だと。
「ロングスローのためだけじゃなく、サッカー選手として筋肉トレーニングは大事なので、肩周りは常に鍛えてるんです。人より体が柔らかいので、それをうまく使って投げてますね」
 マスの正確で飛距離の出るスローインは、数々のチャンスを生み、観客を楽しまる。そして、マスは観客の盛り上がる手拍子を聞いて、熱くなる。

 得意のヘディングは、積極的に秋田コーチのアドバイスを聞き、磨きをかけた。

 そして、自分を必要としてくれた久さんの存在。マスは、久さんの言葉から日々学んでいる。
「いろんな人にいい影響を与えるように」「サッカーのことを考えていたらいいことがある」そんな久さんの言葉を心に留めて、精神的にも肉体的にも成長し、充実した日々を送っている。

増嶋竜也
増嶋竜也

「サポーターがたくさん来てくれて、特にホームは独特の雰囲気があるんでね、すごく試合の結果に影響してるなって思う」
 マスにとって何より大きいのは応援してくれる人たちの力。

 雨の日も、暑い日も、寒い日も、ファンはマスに会いに来る。マスは、ひときわ多くのプレゼントを抱えて帰る。マスを待ち構えていたファンは、マスと話をして笑顔になる。ファンはマスのプレーだけではなく、その優しい人柄に惹かれて応援する。

増嶋竜也

 同じプロサッカー選手として、カズに会ったマスは、カズの印象をこう話した。
「オールスターで1回会って、去年1回やって、2回会いました。嬉しかったですね。同じグラウンドに立っていられることが。試合前にカズさんが、対戦相手全員と握手して出る光景を見て、かっこいいなと思いました」
 カズの存在は、マスにとって子どものころと何も変わっていない。ただ、フォワードのカズと1対1で対決できるのは、マスがディフェンダーになったから。

 カズに憧れる一人のサッカー少年は、子どもたちに憧れの眼差しを注がれる存在に成長した。だが、まだ23歳。プロになって5年。サンガに来て、試合を重ねるごとに自信をつけて成長をしている。
「チームに必要とされるディフェンダーになりたいし、相手から嫌がられるディフェンダーになりたいな」
 夢への道のりは続く。

増嶋竜也

Photo & Text by Noriko Nagano 2008.10

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