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広島城の金箔鯱瓦出土 ほぼ完全形、全国初 '09/3/5

 ▽合同庁舎予定地、秀吉の影響示す

 広島城に近い広島市中区の広島合同庁舎五号館建設予定地の発掘調査で、尾びれや背びれ、目、口、歯などに金箔(きんぱく)を施した鯱(しゃち)形の瓦が一対見つかったことが四日、分かった。城を築いた毛利輝元の時代に城郭施設に飾られていたとみられ、ほぼ完全な形での出土は全国で初めて。金箔瓦は豊臣政権の権威の象徴との見方が強く、研究者は広島城築城への影響力を裏付ける第一級の資料と注目している。

 金箔瓦が出てきたのは、城の中堀と外堀跡の間にあたる武家屋敷跡。直径約一メートル、深さ約二メートルの板枠井戸に瓦が大量に埋められ、その底から一月下旬に発掘された。高さ約七十センチの同形の一対で、天守閣に次ぐ本丸櫓門(やぐらもん)などの城郭施設に飾られていたとみられる。ひれや目、口、歯の金箔は、赤漆を塗って張り付けている。地下水に浸っていたため金箔の状態は良好で、半分程度は残っているという。

 広島城周辺では、二の丸付近など二カ所でも同じ時代とみられる金の鯱瓦の破片が見つかっている。全国では山梨県の甲府城などで出土例があるが、ほぼ完全な形で見つかったのは初めてとなる。

 井戸からはさらに、金箔が施されたホタテ貝模様と鬼瓦が一個ずつと、金箔の施されていない鯱瓦一対(高さ約四十センチ)も出土。家紋と見られる印が入った瓦も大量に見つかっている。

 金箔瓦は、織田信長が築いた安土城(滋賀県)での使用が始まりとされる。後に全国の大名を従える豊臣秀吉も大坂城(大阪市)に使い、支配下の大名にも認可制で使用を求めたとされる。研究者らは、金箔瓦をシンボルとして勢力を誇示する狙いがあったとみる。

 中国地方整備局からの依頼で発掘調査に当たっている測量会社パスコ(東京)は研究者の見解などを基に、金の鯱瓦が飾られていた場所や時代の特定、井戸に埋まっていた背景の調査を進める。

 ▽画期的な発見

 広島大大学院文学研究科の三浦正幸教授(日本建築史)の話 城郭に伴うほぼ完全な形の金箔鯱瓦の出土は日本で初めて。毛利輝元が広島城を築いた慶長年間初期(一五九六―九九年)のものだ。井戸に瓦が詰まっていた状況からみて、輝元の後に入った福島正則が本丸櫓門から取り外し、城主交代を広く告げる儀式的な意味で埋納したのではないか。城郭関連資料としては画期的な発見といえる。

 ▽毛利重用示す

 織豊期城郭に詳しい滋賀県教委文化財アドバイザー・中井均氏の話 織豊期の製作当時をほうふつとさせる金箔鯱瓦で超一級資料だ。三の丸などにある櫓や門といった城郭施設に使用したと考えられる。広島城ではかつて外郭の家臣の屋敷跡でも金箔軒瓦が出土しており、豊臣政権がいかに毛利輝元を重用したかが分かる。地方有力大名に対する豊臣政権の金箔瓦の許認可のあり方について再検討を迫る発見だ。(水川恭輔)

 広島城 郡山城(安芸高田市)を居城とした毛利輝元(1553―1625年)が太田川河口デルタに築いた。輝元は中国8カ国120万石を支配。1589年に城に着工、98年ごろ完成した。関ケ原の戦い(1600年)では豊臣方西軍の総大将を務めて敗れ、周防・長門の2国に減封された。輝元の後、豊臣秀吉に仕えた福島正則(1561―1624年)が広島城に入り安芸・備後の2国を領有したが、1619年、城の無断改修を理由に国替えとなり、浅野長晟(1586―1632年)が藩主となった。

【写真説明】<上>広島城近くの武家屋敷跡の井戸から出土した金箔鯱瓦(パスコ提供)<下>金箔鯱瓦の想定復元図




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