過日、ギャグ漫画の天才と言われた、赤塚不二夫先生がご逝去されました。
日本漫画学院では、1994年1月に赤塚先生にインタビューをしており、
このインタビューの内容は当時の赤塚先生を知る貴重な資料になりました。

今回、赤塚先生の逝去に対し哀悼の意を捧げ、またファンの方の為にも是非その姿を知って頂きたく
インタビューの内容を復活版として掲載することにしました。

平坦な道ではなかった漫画家生活、絶えず努力することを惜しまなかった、
赤塚先生の知られざる内容を
読者の皆様と共有できましたら幸いでございます。

以下本文

初春の漫画訪問記は特別企画として、ギャグ漫画の王様・赤塚不二夫先生にお話をうかがいました。
…先生は「天才バカボン」「おそ松くん」「ひみつのアッコちゃん」など、度はずれな(ギャグ漫画)の分野をひらき、
数々の名作を生み出し、日本中にカラッと明るい強力な笑いを提供しました。”ギャグ漫画は品位がないと描き続けられない。
己の人生もギャグ人生でありたい”とお話してくださいました。
インタビュアーは、日本漫画学院(学院長)木村忠夫


あけましておめでとうございます。

おめでとうございます。

早速ですが、、先生の漫画暦は何年になるのでしょうか?

昭和31年に少女漫画の単行本を描いてからだから、もう36年になるかなぁ…
当時は今みたいに漫画雑誌は多くありませんでしたから、貸本屋向けでしたよね。

振り返られていかがですか?

やっぱり時のたつのは早いね。それに日本の漫画文化はすごく成長してるよね。
漫画で生活が出来るなんて信じられなかったもん…。
漫画家は食えない、嫁さんはもらえないと思っていたものね。いい時代になったもんですよ。

一歩間違えば中国残留孤児

先生のお生まれになられたのは中国とお聞きしましたが…

おそらくみんな知らないと思うが、中国の古北口(コホッコウ)という僻地です。
親父は戦争当時、特務機関員と言うもので、いわゆる憲兵やスパイをやっていたのですよ。
時の毛沢東(もうたくとう)の行く先々で「日本は素晴らしい国だよ、今に皆を面倒見るからね」なんていう宣撫工作をやっていたんです。
…そんなことで家族みんなで中国を転々としていたのです。それも周りが山ばっかりの僻地をです。

日本人とわかってはいけなかったので、お父さん大変でしたね?

だからいつも親父が中国服を着て、中国語で話をしていたよ。
しかし、僕たち子供は、親父の仕事などあまり関係ないので堂々と遊んでいたね。
親父は中国人をすごく大切にしていたし、日本人びいきの所を回っていたので殺されずにすんだけれど、
親父の仲間は密告され殺された人も大勢いたようですよ。運が良かったんです。

日本に引き揚げてくる時も大変だったでしょう?

終戦のときは10歳のときで、奉天(ホウテン)にいたのだけれど、戦争に負けたわけですから、立場が逆になっちゃったわけですよ。
殺される可能性が大ですから、日本人は急いで引き揚げです。引き揚げる船や列車に乗り遅れていたら中国残留孤児になっていたね・・・。
これも運が良かったよ。でも中国人は心が広いよね。今日まで当時の孤児を引き取って育ててくれたわけですから…普通なら殺されるよ。
でも親父は終戦になった途端、ソビエトに連れていかれ裁判になって、
何とか命からがら日本に戻ってこられたんで、これも運が良かったとしか言いようがないね。

手塚治虫作品が僕の将来の道を決めた…。

漫画との出会いは?

中国でも日本の漫画はあったようだが、親父が職業柄許してくれなかったので見ていなかったね。
戦後、母方の実家の奈良県大和郡山に11歳の時に引き揚げてきたのだが、
小学校に行くと、友達が「のらくろ」や「冒険ダン吉」などの話をしているんだよ。チンプンカンプンでね。
もちろん生活が苦しくて漫画本を買うことはできませんよ。
でも忘れもしない昭和21年の小学5年の2学期に入って、貸し本屋で5円を出して読んだらもう夢中になってしまったんですよ。
…その時に手塚治虫の「ロストワールド」と出会ったんですよ。
他の作品とぜんぜん違うんです。とにかくスケールが大きいし、絵の品が断然違っていたので輝いていましたね。
これを見たときに漫画でここまで表現出来るなんてすごいなぁっと驚いたわけです。自分も漫画家になりたいと思ったのはこの時なんですよ。

手塚漫画で将来の道を決めたわけですか。

まったくそうです。今日の僕があるのは、あのときの手塚漫画のおかげなんです。終戦直後の食うや食わずの時期にですよ。
高層ビルや高速道路、宇宙やSFの世界がでてくるのですからものすごい発想ですよね、
完全にカルチャーショックだよ。だってそれまでは漫画は読んで楽しむものと思っていましたからね。

当時は漫画家になるなんて夢みたいなことではないのですか?

小学6年生になったら、「よぉし、俺は絶対に漫画家になるぞ」と決めたんですが、漫画はまだ市民権がありませんでしたし、
僕も長男ということがあってか、親は「あんなポンチ絵描きになったって生活できない」と簡単に反対です。
「そんなことより中学を卒業したら就職しろ」と言われてたくらいに、家が貧乏でしたからね。
…その時は新潟に引越しをしていましたから、農繁期になると学校を休んで、たんぼにかり出されていました。
そんなことで中学もろくろく行けなかったし、運動会や遠足、修学旅行なども出たことがなかったですよ。
でもやはり中学卒業時期になって、両親に「高校に行きたい」と言ったら、「金がないから駄目だ」でチョンです。
とにかくめちゃくちゃに貧乏でしたからね。そんなことがあっても漫画家になりたかったわけですから、
少しでも絵に関係のある職業につきたいと、映画の看板屋になったのです。

ギャグ漫画こそ目指す世界

そこで絵の勉強をされたのですか?

映画の看板を3年間描きました。辞める頃には親方から、あと半年で年期が明けるよといわれたのです。
年期が明けると言うことは1人前として独立できるよということなのです。
でもやっぱり漫画家になるために東京に行きたかったんです。…しかし職業柄とはいえあらゆる映画をみたね。
今思うとそれが漫画のストーリー展開に役立っているし、ギャグ漫画の素晴らしさも知ることができましたよ。

でも親からの反対があったわけでしょう…?

もうひとつ、漫画家になれなきゃシナリオライターにもなりたいとも秘かに思っていたんです。
だから仕事の合間をみてはシナリオという本を毎月読んで、ノートに自分なりにシナリオを書いたりはしていたんです。
ストーリーを作るのが好きだったんですよ。…当時はテレビも無い時代ですから、新潟から東京ではすごい差があったわけです。
でも情報がいっぱいあるし、出版社も集中しているわけですから、どうしても東京に行きたかったんです。
「看板屋でもいいや、とにかく絵が描けるならば…東京へ行きゃなんとかなるさ」ということで、昭和28年に上京したのです。

石ノ森、藤子氏らの作品に刺激され苦境をのりきる

プロへの道はいかがでしたか?

アルバイトをしながらさかんに投稿をしていたんだが、友達になったつげ義春からも「お前はプロの漫画家になれ」と言われて激励されましたよ。
僕とつげ義春が旧友なんて信じられないでしょう。…石ノ森章太郎氏とは、僕が東京の小松川に下宿していた頃に上京をしてきて、
しばらく一緒に生活をしていたのですが、トキワ荘にいた寺田ヒロオさんが「新漫画党に入れてやるぞ」ということになって、
石ノ森章太郎がトキワ荘に入ったのです。当時の石ノ森氏はすでに漫画家として活躍していたので、しばらくは彼のアシスタントをしていたのですよ。
僕がトキワ荘に移ったのはデビューしてからだが、すごいやつらばかりなので、驚いたね…
石ノ森氏は僕と年齢が変わらないのに天才的にうまかったし、藤子・F・不二雄の少女漫画は抜群にうまかったし、
藤子不二雄Aも線がとてもきれいで、僕なんか足元にもおよばなかったよ。
…そんな仲間の作品を見ていると、僕は絵が下手だったので、シナリオライターになろうと真剣に考えたこともあったくらいです。

漫画で認められたのは?

手塚先生の作品や少年小説なんかでSF漫画が人気になっていて、漫画家もいろいろな出版社からSF漫画を描いていたし、
僕も手塚作品をヒントにして描かされていた。でも途中からもっと面白い漫画が描きたくなってきたんです。
さきほども言ったように僕はさまざまな映画を観て、チャップリンやキートンなどのドタバタ喜劇に感動をして、
目指すはギャグ漫画と思っていたからかもしれません。でもね、昭和30年の初期でしょ。認められるわけないですよ。だから少女漫画を描いたのです。
少女漫画は編集長から「どんな世界を描いてもいいよ。好きな作品を描いていいよ」と言われてたからです。
石ノ森章太郎、ちばてつや、藤子不二雄、楳図かずお氏なんかも、みんな少女漫画を描いていたものね。
…だから、僕が世に認められたのは、昭和37年の「おそ松くん」からだよ。それまではいっぱい描いたがまったくダメでした。

ギャグ漫画は品位が大切・人生経験が芸術性を作る

先生がギャグ漫画に固執されているのはなぜですか?

僕の性格そのものだからかもしれないね…それと芸術性が高いものね。また品位があるからと思っているからです。
ギャグといえば下品なことを描けば面白いと思ったら大間違いなんです。ギャグ漫画こそ品位が必要なんですよ。
チャップリンの映画をみてもそうでしょう。芸術性があるじゃないですか。
…ギャグ漫画というのは、人間が笑うということ、それをどのような形で漫画として表現するかということなんです。
出尽くしているものをそのまま描いたんでは面白くないし、ギャグにならないんです。それにアイデアを入れなければ読者は喜ばないんですよ。
…確かに僕らが漫画家になった頃はテーマ、絵、セリフなんでも描けばパイオニアになれたよき時代だが、
今はありとあらゆるものが出回っているので、ギャグ漫画を描く人は大変だと思うよ。でもどこかに隙間があるからそれを見つけては描かねば駄目だね。

ギャグ漫画で長きにわたって漫画を描くのは大変ですよね

僕もそう思います。とにかくギャグ漫画はヒネリをいれないと面白くありませんから。身を切る思いかもしれません。
…バナナを踏んだところでハッハッハじゃないんですよ。テーマ性の奥が深いのです。

それを若い人は分からないのでは?

そりゃ無理だよ。人生経験がないもの。ストーリー漫画も同じだけれども品位を持て、と言っても何が品位なんだが、わからないものね。
経験を積むしかないよね。…僕は品があれば何を描いてもいいと思っています。どれだけ愛情を持っているかというコトですよ。
作品の風格ですね。作品は自分の名前を出して発表するものですから、その作品にきちんと責任を持ちなさいということです。
それが出来なきゃ描かなきゃいいんですよ。
ギャグ漫画は、ウィットでユーモアを分かってる人が少ないからかけないのですよ。しゃれたセンスがないんです。
くだらないテレビばかり見てゲラゲラと笑っているようでは、ギャグ漫画は描けないよね。やっぱり、高級な映画などを見て研究すべきです。
若い人は古い名作などのビデオを借りて見ようともしないものね、悲しいよ。
…漫画を描く以上は「こういう作品があるのだぞ」と意気込んで描けば、少しでも読者を引き揚げられるんだけどね。
「これでよろしいでしょうか」は駄目なんだよね。存在感のある作品を作ってこそ作者の使命だと思うよ。

落ち込んでも落ちこまれるな・・・客観的に眺めなさい

漫画は先生にとってなんでしょう?

僕そのものです。絵を描くだけでなく物語りも作れる。最高の手段です。映画は脚本・監督・照明・俳優など分業ですが、漫画はそれを1人でやれるものね。
面白いよ。原作つきの漫画も手がけたこともあるけれど、自分の思うようにします、それじゃ原作者に失礼になるわけです。
だから自分ですべて作って絵に表す。それが好きなんですよ。誰にも文句言われずにね。…でも勘が狂うと駄目だね。やっぱり勘どころがあるんだよ。
だから失敗作がいっぱいある。やはり波があるんだなぁ・・・その波が上がってる時は成功している。下がっている時はうまくいかない。

そこの見分けが難しいのではありませんか?

波が下がった時はあせるなということですよ。静観して自分は何が悪かったかを真剣に考えていれば、そのうちに自然に波が上がってきますよ。
僕はこれを5回も6回も経験してますよ。

落ちこんだ時は大変では…

だからそこが問題なんですよ。いつも客観的に眺めていなきゃいけないですよ。
夢中で描いているうちは面白いものが描けるかもしれないけれど、その時でもたえず上から客観的に見られる状態でなければいけない。
みんな受けようと思って描いてるんだが、どこか変なんですね。…受けないとあせるでしょう。そうすると軌道修正する。だから駄目なんですよ。
面白い作品を描いた時は、設定を考えたときに決まるんです。「これでいけるぞ」と思うといけるんです。
後で、「ああでもない、こうでもない」といってたら駄目になるんです。
…作品というのものは面白いもので、「こういうアイデアを考えたからこれでいこう」と思ったものが1番いいようです。

読者を意識して、作家のポリシーをぐらつかせるうまさということですね。

これもその人の才能なんだろうが、後で修正したら絶対駄目になるよ。
僕も最初に描いた「おそ松くん」を2回目に少年キングに描いて、3回目は講談社で描いた。描けば描くほどくだらないんだよ。
1番最初のが完成度は低いけれど面白いんだよね。それとね、付け加えるならば、人の作品を見ないことも大切だと思うよ。
だって、影響を受けてしまうものね。オリジナルということが大切なんだよ。自分なりの作品を描かなきゃいけないよ。
たとえば僕が今連載を頼まれたとすると、その時にパッと依頼された作品郡を見て、その中に無いものを描こうとしますよ。
みんなが描いてる作品に近付けようとすることは絶対にしないものね。

その無い作品を見つけるのに大変では?

大変だとは思うけど、それをやらなきゃプロといえないよ。誰も描いてない作品を描く、これが使命ですよ。だから面白いのです。
受けている作品に近い作品を描くのは楽ですよ。でも絶対いけないんだよ。読者も馬鹿じゃないから、誰かに似ていると思ってしまう。
最悪です。基本的にはユニークな、自分だけの絵を持つこと、画風です。それに作風をもてれば強いですね。それがプロというものです。

今の若者は苦労が足りないのでしょうか?

頭はいいんですが、逆に既存の漫画に影響を受け過ぎるんです。それに絵はうまいけれどオリジナリティがない。
…しかし、別の世界作り出す可能性があるんです。そこに頭を向けていけばいいのですよ。時代はどんどんと変化しているんです。
明治、大正、昭和と変わっているよね。僕らもいつまでも下町人情話しなど描いてる場合ではないのですよ。今はハイテク時代です。
若い人はそれに対応できるものね。漫画界は送り手と受け手で成り立っているんです。
受け手がそのような人なら、送り手もそのような人がいいんです。もう僕には無理だけれどね。

今の人はヒットさせるために一生懸命描いてますよね?

その気持ちもわからないでもないけれど、作品は結果的に生まれるものです。僕はヒットさせるために描いてません。
漫画が好きで好きでたまらないから描いているんです。これをはやらそうなんて考えて描いたことはありませんよ。
結果的にあとからヒットしたものなんです。それでいいんです。…無理やりに作ろうとするから面白くないんです。

漫画を描く上で大切なのはオリジナリティと人間勉強

まだ、少年期ともいえる15の歳に、社会に出ていろいろと努力されたことと思いますが…

大人になって勉強することっていっぱいあるんですよ。そこで勉強をすればいいんです。
若いとき学校で漢字を覚えたり、いろいろなことを知ることは大切であるけれども、それ以上に大切なことは≪人間の勉強≫です。
漫画はそういうところが必要なんだよ。人間がわからないで、マニュアル通り台本を書いてもつまらないでしょう。
だから人生勉強がいい台本を作るのです。…ただ今の人にかわいそうなのは、家と学校の行ったり来たりであまり過酷な境遇が無いでしょう。
それで大人になってしまう。それがまずいんだよね。
波乱万丈という言葉があるでしょう。だからいろいろ体験すべきですよね。とにかくいろいろな人と人間関係を作ってきて、漫画を描いてきたよね。
医者の漫画を描くのに専門書を見て描くのではなく、医者自身とつきあって描くんです。もっと違う世界が見えてきますよ。

アイデアはつまりませんか?

いつもつまってますよ。「もうこれで漫画家もおしまいだ」と思っています。そこでアイデアが出てくる。それが僕の漫画なんだよ。不思議だね。
締め切りが決まっているから、アイデアを出す作業も次第に決まってしまうんです。
だから仕事が無いときも、食事のときやテレビを見ていても、いつも考えているよ。
…だってギャグは毎回読みきりだもんね、おもしろい作品が出来ると最高だね。

将来の夢は?

ただひたすら漫画を描くだけです。ギャグ漫画が好きなんだよね。私生活もふざけていきていくのが好きなんです。
一生馬鹿な漫画を描き続けたいね。…カッコつけてもしょうがないものね。ギャグは世界的に通用する。
世界的視野でギャグを見て欲しいし、そのような漫画を描きていきたいよ。
…今ね、今年から講談社の『デラックス・ボンボン』で連載するギャグ漫画を描いているだけれど、
ギャグとストーリーと社会性といろいろ組み合わせた新しい話をしているんだよ。社会現象をおこす作品はすごく大切だからね。
一生懸命描いているから子供だけでなく大人も読んで欲しいだよね。今後も他人が描けない作品を絶えずチャレンジしていきたいね。

どうもありがとうございました、今年もご健康で一層ご活躍させることを期待いたします

(漫画新聞 1994年1月号 掲載)