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日本サッカー・ブック・ガイド

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編纂日誌(08/5/1)過去の編纂日誌

雑誌記事索引・総目次、全文紹介、コラムのページ
日本最初のサッカー・リーグ、日本へのFAカップ寄贈、大日本蹴球協会の創立 REVISED!

明治・大正・昭和戦前期


明治時代 − サッカーの伝来

日本にフットボールを初めて伝えたのは1873年イギリス海軍軍人ダグラス少佐といわれる。 明治20年代には坪井玄道が高等師範学校附属小学校でフットボールを教えていたが、 正式なサッカーではなく、ボール蹴り遊びにすぎなかった。明治30年代になると書名中に「フートボール」という語を含む図書があらわれはじめるが、 競技経験がないまま解説書を翻訳したにすぎず、ラグビーとあわせて紹介されている。明治38年東京高師に赴任したイギリス人デハビランド氏が初めて本式のサッカーを日本人に伝えた。 明治36年に高師学生によって書かれた『アッソシエーションフットボール』が最初のサッカー専門書である。この時点でもまだ競技経験が十分でなく、 東京高師チームが居留外国人チームとの競技経験をふまえて書かれたのが明治41年の『フットボール』である。

大正時代 − サッカーの普及

大正6年第3回極東大会が東京で開催され、東京高師が日本代表として出場し、国際大会に始めて参加した。大正時代を通して未勝利だった。 大正10年に全国組織である大日本蹴球協会が設立され、同年から全日本選手権大会(現在の天皇杯)も始まる。また、小学校から大学まで、各種のトーナメント戦やリーグ戦も大正時代に始まっている。 この時期の著者には極東大会に選手や監督として出場している人もいる。ビルマ人留学生ディンは巡回コーチのような役割を果たし、模範となる基礎技術とショート・パス戦法を伝授した。

昭和戦前期 − アジアの覇者へ

昭和2年第8回極東大会フィリピン戦で日本は国際大会初勝利し、 昭和5年の第9回極東大会では1勝1分けで中華民国と同率ながら優勝する。 昭和11年のベルリン・オリンピック ではヨーロッパのナショナル・チームと対戦し、スウェーデン戦で金星をあげる。 この時期の著作では豊富な実戦経験に基づいて、技術や戦術は独自に咀嚼されている。昭和10年代に戦前のピークに到達するが、戦争により後退を余儀なくされる。



1964年(東京オリンピック)まで−再建の昭和20・30年代

1948年には代表合宿を復活させ、戦前ピーク時の技術と経験を次世代に伝える試みがなされる。 1956年メルボリン・オリンピックには出場したが初戦敗退。 1958年東京開催のアジア大会では、ホームにもかかわらず予選リーグでフィリピン、香港に敗退と大正時代の極東大会と同様のレベルまで低下する。
1953年には西ドイツで開催されたユニバーシアードに学生代表を派遣し、大会後も約2ヶ月にわたってヨーロッパを転戦した。 このメンバーからは、長沼健、岡野俊一郎、平木隆三など、後にコーチとしてクラマー氏の薫陶を受け、日本サッカー界の中枢になる人材が輩出した。 1960年にも日本代表が同様にヨーロッパに長期遠征しており、このメンバーには八重樫茂生、川淵三郎などがいる。 これらの長期遠征はサッカー技術だけでなく、クラブ運営のあり方なども含め、今日にいたるまで日本サッカー界に多大の成果をもたらした。 また、これらの人々の中から後のサッカー・ブーム時代にサッカー本の著者が多数でた。
1960年代にはクラマー氏をコーチに迎え、1964年 東京オリンピックではアルゼンチンを破ってベスト8入りする成果をあげる。
底辺拡大面で重要なのは、1958年に小、中学校でサッカーが体育の正課となったことである。 60年代から体育教師向けサッカー参考書が増加する。

1965年〜1969年 − メキシコの栄光と観るスポーツとしてのサッカー

1964年の東京オリンピック、1965年日本サッカー・リーグ開始、 1968年メキシコ・オリンピック銅メダル獲得と、 1960年代後半はサッカー・ブームに沸いた。商業サッカー誌『サッカーマガジン』(ベースボール・マガジン社)の創刊、少年サッカー漫画『赤き血のイレブン』の登場などは、サッカーが日本でメジャー・スポーツ化したことを示している。
この時期の特色は従来の入門書、技術書に加えて、サッカーを「観るスポーツ」としてとらえた観戦ガイドブックが初めて あらわれたことである。

1970年〜1974年 − W杯と世界のサッカー

1970年W杯メキシコ大会は、多くの試合が日本でも放映された。 ペレを中心に優勝したファンタジーに富んだブラジル、イングランド、イタリアと死闘を演じた西ドイツは特に注目された。 また、60年代末に始まった初のサッカー定期番組三菱ダイヤモンド・サッカーもイングランド・リーグなどを放映し、世界のサッカーへの関心が高まった。 初のW杯本が刊行され、以前に比べて翻訳書が増加する。当時主流であるとみなされていたイギリスとドイツの図書が翻訳されている。1921年創立の日本蹴球協会は50周年を迎え、初の日本サッカー史『日本サッカーのあゆみ』が刊行された。 1969年にはクラマー氏を招聘して第1回FIFAコーチング・スクールが開催され、組織的なコーチ養成が始まる。現役コーチ、コーチ志望者向け専門書が刊行され、受講者の中から正規のヨーロッパ(ドイツ)式コーチングを反映した著作が生まれる。

1975年〜1979年

「観るスポーツ」としては定着した感があり、W杯本やペレ、ベッケンバウアー、釜本のようなスター・プレーヤー関係書が刊行されている。 この時期は早慶のような古豪サッカー部が創立50周年を迎え、相次いで部史が刊行されている。

1975年〜1977年 1978年〜1979年

1980〜1984年 − 底辺の拡大とトップの停滞

 

少年サッカー、高校サッカー人口は拡大し、「やるスポーツ」としてのサッカーは野球並みの国民スポーツとなる。この時期のサッカー本の特色は少年向けサッカー入門書が増加していることで、 1980年代半ばにはサッカー部史のような非売品を除く商業出版物としてのサッカー本の約半数ないしそれ以上を占めるにいたる。 また、高校サッカー人気を反映して、有名高校サッカー部監督の教育論が刊行されている。
一方、代表チームはオリンピック予選に敗退するなど不振で、サッカー選手の伝記として刊行されているのは、釜本のような10年以上前のヒーローである。 釜本、杉山は日本リーグ・チームの監督となり、監督としての立場からのサッカー論を著書として刊行している。
翻訳書としては、ますます守備偏重化する試合内容に対する危機感から、ファンタジーあふれるトップ・プレーヤーの技術を個々に分析した図書や、個人技を重視した指導書が 翻訳されているのが注目される。

1980年 1981年 1982年 1983年 1984年

1985〜1989年 − プロ化への胎動

1986年プロ契約制度が始まり、ブンデスリーガで9年間プロとして活躍した奥寺康彦が帰国して古河電工に復帰し、 日本でプレーする日本人最初のプロ選手になる。Jリーグの花形選手になる三浦知良や武田修宏はすでにこの時期に伝記が刊行されている。 日本リーグでは1983年に初優勝した後発の読売クラブが戸塚、都並のような個性豊かな選手をクラブで育成し、既存の社会人チームとは別の可能性を示した。

1985年 1986年 1987年 1988年 1989年