昭和ラプソディ(昭和50年・下)

日本女性初のウィンブルドン優勝
昭和50年7/5、第89回ウィンブルドン(全英テニス選手権)で日本女性で初めて、女子ダブルス決勝に沢松和子(24)が勝利し、優勝した。沢松はアメリカの日系3世のアン・キヨムラ(19)とペアを組み、デュール(仏)、ストーブ(オランダ)ペアに、7−5、1−6、7−5の接戦で勝利、賞金600ポンド(41万4000円)を手にした。沢松はノーシード、勝てるとは思わなかったという。兵庫の西宮市常盤町1に住むテニス一家で、昭和26年生まれ、身長は173センチ、アマで国内で190連勝しており、昭和49年6月にプロになっていた。昭和9年に三木竜喜がドロシー・ラウンド(イギリス)と混合ダブルスで優勝以来、41年ぶりの日本人の優勝だった。
保倉幸恵が鉄道自殺
昭和50年7/8午前5時55分、大田区の横須賀線大森−蒲田間の渡線橋の1.2メートルの柵を越えて、保倉幸恵(22)が8メートル下の線路に飛び降り、久里浜発東京行きの列車に轢かれて死亡。7/10午後になって、身元が判明した。保倉は昨秋、芸能界にカムバックしていたが、昨12月に母が病気となり、保倉もノイローゼとなって2月には通院していた。保倉は劇団若草出身で、昭和45年1/2号から昭和46年12/31号まで「週刊朝日」のカバーガールをしていた。その後、引退したが昨11月に復帰、昭和50年1月にはNETテレビ「鏡の中の女」に出演したが、その後の仕事を断っていた。
銀座で喫茶店火災
昭和50年7/11午前2時25分、中央区銀座4−6−11の銀四ビル、喫茶店オリエント2階から出火、5階建て620平方メートルのうち、オリエントの2、3階部分、170平方メートルを焼いて午前4時50分に鎮火した。客の捨てた煙草が火元だった。消防車22台がかけつけ、やまと屋はきもの店、嶋屋紙店への延焼を防いだ。
早稲田で無理心中
昭和50年7/11午後10時52分、新宿区西早稲田3−22のHマンション202号室で、小松原庸子の舞台演出家の大川(34)方で、妻(36)が首吊り自殺をし、戸塚第一小1年の長男(7)、次男(2)が絞殺されているのを見つかった。大川は仕事で不在が多く、ノイローゼとなった妻の無理心中だった。
東京に光化学スモッグ
昭和50年7/15午前12時15分、東京都は光化学スモッグでこの年初の警報を発令、都内では1653人、埼玉で2211人、静岡で523人、千葉で178人、群馬で63人、神奈川で25人が倒れた。南高北低の気圧で最高気温は31.5度、風は弱かった。目がちかちかして、喉が痛くなるといった被害を皆、訴えた。練馬区では561人、杉並区では365人が倒れ、練馬区北大泉734の区立大泉一小では生徒1097人中435人が痛みを訴え、杉並区堀ノ内3−24−11の区立堀ノ内小では生徒249人中139人が痛みを訴えた。午前12時には石神井でオキシダント濃度が0.31ppmとなっていた。
米ソ宇宙船がドッキング
1975年(昭和50年)7/15午後3時20分(日本時間午後9時20分)、ソ連のソユーズ19号は、アレクセイ・A・レオノフ船長(41)、ワレリー・N・クバソフ飛行士(40)を乗せて、バイコヌール基地を飛び立った。午後3時50分(日本時間7/16午前4時50分)にはアポロ18号が、トーマス・P・スタフォード船長(44)、バンス・D・ブランド飛行士(43)、ドナルド・K・スレイトン飛行士(51)を乗せて、アメリカのフロリダ州ケネディ宇宙センターを飛び立った。高度221キロでドッキングする予定となっており、大西洋上空で7/18午前1時9分(日本時間)に米ソの宇宙船はドッキング、午前1時12分に完了、午前4時17分、アムステルダム上空でアポロのスタフォードとスレイトンがソユーズを訪問してソ連側と握手した。
 
4人はボルシチ、ロシアパン、棗プリン、七面鳥を食べ、アメリカのフォード大統領、ソ連のブレジネフ書記長はドッキングの成功を祝福した。今度は7/18午後6時、レオノフがアポロを訪問、午後11時にはステーキ、ポテト、スープで食事をした。ブランドはアポロからソユーズへ行き、クバソフと食事、キャベツのスープや肉などを食べた。7/19午前0時、3度目の訪問がスタフォード、レオノフがソユーズに、ほか3人がアポロに行く形で行われ、午前2時30分、アポロと米ソの3元中継によるテレビ記者会見が行われ、両船長が登場した。その後、4回目の相互訪問が行われた。午前6時、ハッチは閉められ、7/20午前0時30分、ドッキングは解かれた。ソユーズは7/21午後1時51分(日本時間午後7時51分)、カザフのバイコタール北500キロのアルカルイクに着陸、アポロは7/24午後5時18分(日本時間7/25午前6時18分)、ハワイ西550キロの海上に落下した。
下町の六価クロム騒ぎ
昭和50年7/16、墨東から公害をなくす区民の会の調査で、江戸川区堀江の海岸埋立地に有毒クロム8万トンが投棄されていた事がわかった。これは過去には江東区大島にも捨てられていた。東京都公害局は8/7、日本化学工業が戦前から六価クロム鉱滓を江戸川区堀江町、江東区大島町、浦安、行徳に捨てていたと発表した。また日本化学工業の現業部門では昭和42年6月時点で、小松川工場の461人のうち、鼻中隔穿孔になったのが62人、鼻中潰瘍になったのが18人に及んだ事もわかった。日本化学工業では昭和14年から重クロム酸ソーダを製造、昭和49年までに57万3700トンの鉱滓を排出、第一酸化鉄還元処理施設が出来た昭和47年まで、52万7000トンを生で投棄していた。江東区の大島五小や江戸川区の一之江二小は鉱滓捨て場跡に建てられていた事もわかった。日本化学工業の棚橋幹一社長は、昭和50年8/26に都議会公害首都整備委に参考人として呼ばれ、鉱滓を「無害と信じている」と語ったが、公明党の鈴木善次郎都議がビニール袋に入れた鉱滓を水に溶かして飲むように勧めると、棚橋社長は「鉱滓は有害だと思う」、と初めて明言した。ほかには日本電工の、北海道夕張郡栗山町の栗山工場、徳島の阿南市橘町の徳島工場、昭和電工の埼玉の秩父市下影森の秩父工場でも同様の鉱滓投棄による公害被害が出ていた。
新橋駅で内ゲバ殺人 昭和50年7/17発生。参照→内ゲバ殺人の時代

沖縄海洋博始まる
昭和50年7/17午前9時57分、羽田空港を出発した皇太子夫妻は、午前12時12分に沖縄の那覇空港に到着、地元からは5000人が歓迎に押しかけ、内地の人間も含めた600人の左翼が抗議を行った。午後1時25分、皇太子夫妻はひめゆりの塔で説明を受けていたところ、ひめゆり部隊自決の洞穴に潜んでいた赤ヘルと黒ヘルの男2人が大声でわめきながら飛び出てきて、火炎瓶1本、爆竹1束を夫妻の2メートル手前に投げた。男2人は沖縄解放同盟を名乗る左翼で、前夜から洞穴に潜んでいたが、警察ではひめゆり部隊自決の洞穴は地元民にとって聖域であり、住民感情を慮って調べていなかった。この左翼の狼藉に、ひめゆり部隊の生き残りの女性も非難を浴びせ、沖縄の地元住民の大半の意見は、皇太子来沖には賛成でも反対でもないが、県民としては静かに迎えたかったというものだった。皇太子夫妻は午後6時、ハーバービューホテルに宿泊した。
 
7/19午後、本部中の会場内のポートサイドシアターで2000人が参列して沖縄海洋博の開会式が行われ、午後2時にマオリ族が海上から船で国際博の旗を持って上陸、午後2時35分に皇太子が開会の辞を述べ、午後2時50分に終了した。午後7時からは前夜祭としてハーリー、サバニなどが登場、40の国と機関、3000人が参加する中、七つの海の海水を日航スチュワーデス7人が運び、本部中3年の金城恵理子(15)が沖縄の水を混ぜて聖水甕を作った。午後8時54分には羽田空港に皇太子夫妻や三木首相が到着した。
 
7/20午前9時に開幕、3万4895人が訪れたが、猛暑、見掛け倒しのパビリオン、高い飲食代やホテル代でこの海洋博は大不評、なんせホテルの昼食5000円というぼったくり価格だった。さらに7/23午前4時30分には、モーターボートで左翼が押しかけ、チリ海軍の練習船の帆船エスメラルダ号に火炎瓶を投げ、公開中止にさせる騒ぎもあった。
「ぼくは12歳」自殺
昭和50年7/17午後7時30分、小平市小川東町2820の公団萩山団地1号棟(11階建て)で、高史明(本名金天三、日本名岡徹夫)の長男、小平1中1年H組の岡真史(12)が飛び降り自殺した。団地は家から200メートル離れており、自殺前に岡は親に、宿題を忘れたのを叱られて、「ちょっと表へ行く」と出かけていたという。第一報は普通の自殺記事と同じ小さな扱いだったこの小学生自殺がマスコミで大きく報道されるようになったのは、岡の半月前の作文に、「ボクは○○人です」という記述があった事と、高史明に在日朝鮮人として差別を受けた歴史を綴った「生きることの意味」という著作があったためだった。○○人の○○の部分に、ハングルに似ているがハングルではない文字が記されていた事から、日韓の狭間で自分の存在について思い悩んでの自殺、という構図をマスコミが読者に提供したのである。岡は中学では特に差別体験はなかったとされており、また父親の著作も読んでいなかった、という事から、岡が12歳で命を絶った本当の理由は、本人しかわからない、というのが正確なところではある。昭和51年、岡の作文を集めた「ぼくは12歳」という本が高によって出版され、反響を呼んだ。マスコミが提供した皮相的な見方とは一線を画し、子を喪った親の哀しみと生命の尊さを切々と訴える高の活動は大きな共感を呼んでいる。
足利銀で2億円使い込み
栃木市倭町2の足利銀行栃木支店で貸付係の大竹章子(23)が、2億1000万円を横領、男に貢いでいたとして昭和50年7/21に逮捕された。大竹は吹上小、吹上中から県立栃木南高を卒業、入学時は4番目の成績で、3年の時はテニス部のキャプテンだった。昭和46年に入行、昭和48年8/12、友人と仙台を旅行中、男に声をかけられた。大竹は旅行の帰りに小山で降りず、上野まで男を送るという執心ぶりで、8/24には大宮で会い、9月上旬に日光へ行き、そこから火がついた。男は国際秘密警察の石村を名乗り、組織から抜けるのに金がいる、などと持ちかけてきた。大竹は実は妻子がいた男の本名も住所も仕事もしらないまま、結婚を餌にされ、父の定期預金250万円を解約したが足りずに、架空の預金を担保にした手形貸し付けを不正に行い、伝票偽造をする手口で昭和49年1/10から昭和50年7/11まで、63回、2億1190万円を職場から引き出しては男に貢いでいた。「ばれたらくびになるぞ」などと男からは脅されてもいたが、大竹は男への愛に目がくらんで、次々に金を引き出していた。しっかり者で通っていた大竹は逮捕され、「馬鹿だった」とうなだれた。
 
男は中央競馬の予想をする国際ユニオン情報部センター社長の阿部誠行(26)で、7/17午後4時30分に、大竹に電話を入れており、7/20午後2時に会う約束をしていた栃木市平柳町1の栃木ニューホテル駐車場に向かったが、警官が張り込んでいるのに気づいた阿部はレンタカーでそのまま逃走、栃木県警の一斉検問を突破、部下3人を連れ、7/21、港区赤坂のホテルオークラで愛人の元ホステス、柏崎(25)と合流、7/23夜に桜木町駅前で部下2人と別れ、柏崎との逃避行を開始した。8/7からは2人で金沢のモテルに泊まり歩き、8/12に金沢市材木町19でアパートを借りた。しかし9/16、警官が近くをまわっているのを見た柏崎はアパートを出て、金沢駅前でラーメンを食べて、阿部と別れていた。9/17午後2時20分、柏崎は金沢市香林坊2−4の第一勧銀金沢支店で架空の名義の通帳で金を引き出そうとしたところ、これが柏崎の通帳とわかり、通報され逮捕された。柏崎は高校を4ヶ月で中退、水商売に入り、昭和48年秋から浅草でバーの雇われマダムをしている際に阿部と知り合い、昭和49年秋から銀座のクラブに出ていた。昭和50年4月には六本木のクラブハムスターのマダムとなった。しかし7月に廃業、7/5から新宿区市谷のシャトレー市ヶ谷12階の家賃10万円の部屋に、阿部の世話で住んでいた。阿部は9/18午後5時、五反田駅前で逮捕された。午後1時30分、元部下に電話をして逃亡資金の融通を依頼したが、それを通報されていたもので、所持金は250円しかなかった。
「デルス・ウザーラ」に反中映画のクレーム
昭和50年8/2公開予定の黒沢明「デルス・ウザーラ」に日中友好協会から反中映画だから上映してはならないと非難の声が上がった。この映画はアルセーニェフというロシア軍人の原作で、デルス・ウザーラとはゴリド族の猟師の名前。昨5月にシナリオが映画雑誌に掲載され、日ソ協力で撮影されたが、日中友好協会の火付けで、香港の大公報、中国本土の光明日報が反中映画と騒ぎ出したもの。作中、中国人が少数民族をいじめるシーンがあり、殺人、放火、動物乱獲とも事実なのだが、中国人を少しでも悪く描く事は許されないとの思いが、当時の現地中国人、親中派を自認する一部日本人の間にあり、シナリオにあった、罠を森に仕掛けて動物を乱獲、「誰がこんな罠を」「中国人の仕業さ」という台詞が、映画撮影の際には「悪い中国人の仕業」というふうに改められ、日本公開の字幕では「悪い商人の仕業」と改竄された。さらに日中友好協会ではソ連領のウスリーを元々は中国領であり、映画の描き方はおかしいなどとヒステリックに非難した。当時、中国とソ連は同じ共産圏ながら仲は険悪で、双方と全く関係のない筈の資本主義の日本で、親中派と親ソ派が中ソの意向を慮って非難合戦を繰り広げるという、不毛極まりない構図であった。
パラシュート開かず激突も死なず
1975年(昭和50年)7/29、アメリカのフロリダ州デイトナビーチで高度2500メートルからスカイダイビングをした女性スーザン・リューガー(18)は、高度600メートルでパラシュートが開かず、そのまま地面に時速64キロで激突した。ところが背骨、肩、くるぶしを骨折したものの、命に別状はなく、奇跡とされた。
米労組のドンが失踪
1975年(昭和50年)7/30昼、デトロイトから20キロ、ブルームフィールドのハイウエー沿いにある山小屋風のマシュウズ・レッドフォックスレストランの駐車場に、ポンティアックを残したまま、米チームスターズユニオンを牛耳っていたジミー・ホッファが失踪した。米チームスターズユニオンは元々はトラック運転手の組合だったが、一般の労組となり、230万人が加盟していた。このレストランはホッファの自宅から車で2、3分の場所だった。ホッファは店に入っておらず、何者かに拉致されたと思われた。誘拐犯と示唆されたのは、デトロイトマフィアのトニー・ジャックことジアカローネ(57)、チームスターズユニオンのニュージャージー支部ローカル560の実力者、トニー・プロことプロベンザノ(59)だった。しかし確証はなかった。ホッファの養子(42)を使い、ホッファをおびき出して、近所の地下室に閉じ込め、委員長復帰断念を迫り、断られて殺害した、と思われた。ホッファは1度もトラックを運転した経験がなく、チームスターズユニオンでは11年間、委員長を務め、40年にわたり支配していた。1967年に逮捕され、1971年に恩赦で出所したが、獄中にあった時にチームスターズユニオンを委ねていたかつての腹心フィッツシモンズを相手に、本格復帰へ向けての権力闘争を起こしていた。チームスターズユニオンは資産40億ドル(1.2兆円)だった。アメリカでは労組はマフィアの資金源である。
共産党のポルノ批判
昭和50年7/30、共産党の宮本委員長は、記者会見で「むき出しの退廃した映像が一部のテレビを通じて家庭に浸透している。これは子供の心をむしばみ、非行増加の元凶だ。いくら表現の自由と言っても、公共放送として免許を取りながら、テレビが子供のいるところにこうした映像を流し込むのは、文化政策として問題だ」といった趣旨を語り、共産党のポルノ批判として話題となった。井上ひさし(40)は「ファッショ的発言だ」と宮本を批判、奥野誠亮(62)は「大変好ましい」と宮本を褒め、紀平悌子(47)は「ごく普通の一般市民の感覚」と宮本を礼賛した。ポルノに対するとらえ方は思想とは無関係らしく、後に共産党シンパとなる作家は宮本発言を非難、自民党右派とフェミニストが宮本発言を支持するという構図だった。
アイルランドの人気歌手爆死
1975年(昭和50年)7/31未明、イギリスの北アイルランドで、アイルランドのダブリンの人気ポップスグループ、マイアミ・ショーバンドが爆弾テロに巻き込まれ、メンバー5人のうち3人が爆殺された。プロテスタント系のテロリスト2人も爆死した。マイアミ・ショーバンドはアイルランドで10年間トップ5にいた人気グループだった。
青山ミチがまた逮捕
昭和50年7/31朝、青山ミチ(26)が麻布署に3度目の逮捕をされた。午前2時、六本木のバーのホステス(25)ら3人と繰り出した港区六本木4−8−5のゴーゴークラブ東京ナイトアンドデイで、ホステスが席を立った隙に、ホステスの財布を抜いてトイレで3万5000円を抜き取ったが、戻って来たホステスが財布がないと騒ぎ、青山の犯行がばれたのだった。8/20に起訴猶予となり、青山は釈放された。
 
8/22には代々木署に青山はまた逮捕された。7/28に渋谷区神宮前6のキディランド原宿店でスヌーピーのブローチなど3点、2500円相当を盗み、7/30には元代々木10−5滝口ビル302の友人の無職女性(23)方で、留守番を頼まれ、5000円を盗んだというものだったが、犯行直後に逮捕されたものの、証拠不十分で釈放されていた。青山は睡眠薬中毒で住所不定だった。
加東大介が死去
昭和50年7/31午後5時15分、加東大介こと加藤徳之助(64)が、結腸ガンで群馬の高崎市高松町の国立高崎病院で死去した。加東は長門裕之、津川雅彦兄弟の父の沢村国太郎の弟で、姉には沢村貞子がいた。浅草で生まれ、6歳で宮戸座の「め組の喧嘩」で初舞台、府立七中を出て、先代左団次一座を経て、前進座入り。昭和18年に応召され、ニューギニアに行き、昭和21年6月に復員していた。「七人の侍」「大番」「南の島に雪が降る」などの映画や社長シリーズで知られた。昭和50年2月下旬に慈恵医大付属病院に入ったが、フジテレビ「6羽のかもめ」「春ひらく」への出演は病院からスタジオに通ってこなし、4月末に出たが、5月末に国立高崎病院にまた入っていた。
岡山駅ホームで乱射騒ぎ
昭和50年8/1午前12時、岡山駅新幹線4番ホームで、やくざ2人がホームの1人に発砲、ひかり108号博多発東京行きが到着直前で、ホーム中央の出来事だった事もあり大混乱となった。撃ったのは元本多会浅野組木下会で、撃たれたのは大日本平和会勝唯会だった。9/2午前9時には、岡山駅裏の勝唯会事務所に2人が押しかけ乱射、森山丈組員、花田明組員(41)が死亡している。
孤島で新任女教師レイプ
昭和50年8/1午後8時、三河湾の愛知の知多郡南知多町篠島で、4月に着任したばかりの女性教師(25)が教員住宅の6畳の部屋にいたところ、島の20代の男4人が無施錠の玄関から押し入り、女性教師をかわるがわるレイプした。教員住宅は3棟あったが、2棟は留守だった。女性教師は今春、採用されたばかりだった。篠島ではすでに2人の女性が同様にレイプされていた。
つま恋で吉田拓郎ライブ
昭和50年8/2午後5時10分から8/3午前4時35分にかけ、静岡の掛川市のつま恋で、吉田拓郎とかぐや姫による、史上初の大規模野外ライブが行われた。東京から1万5000人、静岡から1万2000人、大阪や名古屋から5000人が押しかけ、警官300人も出てきたが、暴走族やシンナーとは関係なく、聴衆はおとなしかった、という。チケットは2500円だった。
クアラルンプールで大使館占拠
1975年(昭和50年)8/4午前11時(日本時間午前12時30分)、マレーシアのクアラルンプールAIAビル9階、アメリカ大使館領事部で、武装した男が乱射、警官1人が射殺された。男らは立て篭もり、ロバート・ステビンズ領事ら50人を人質にして9階の出入り口を封鎖、スウェーデン大使館も占拠し、フレデリック・ベルエン・ストラレ代理大使らを人質にした。犯人は日本赤軍で、日本政府に逮捕されていた7人の釈放を要求した。7人は以下の通り。
 
西川純(24) 京都産業大中退 日本赤軍 昨9月にハーグ仏大使館占拠
戸平和夫(22) 元会社員 日本赤軍
坂東国男(28) 京大卒 連合赤軍 連続リンチ殺人
坂口弘(28) 東京水産大中退 連合赤軍 連続リンチ殺人
松浦順一(28) 関西大卒 赤軍派M作戦 昭和46年7月の米子市の松江相互銀行強盗
松田久(26) 茨城大中退 赤軍派M作戦隊長 昭和46年3月の横浜銀行相武台出張所強盗
佐々木規夫(26) 東アジア反日武装戦線狼 企業連続爆破テロ
 
折しも三木首相は訪米中で、井出官房長官が福田副首相らと8/4午後7時から会議を開き、深夜にマレーシア政府に7人の釈放を伝えた。しかし坂口と松浦は釈放されるのを拒否した。残りの5人は8/5、羽田空港の日航特別機DC8−62型に乗り込み、午前8時に出発予定だったが、犯人らは坂口と松浦を呼ぶように要求、獄中の坂口は電話に出て、犯人に直接、釈放を拒否すると伝えた。松浦は昨5月にノイローゼとなり保釈され、香川の善通寺市の実家に住み、近くの鉄工所で働いていたので、いまさらテロリストの仲間入りをするいわれもなかった。日航機は午後2時33分に出発、午後7時45分(日本時間午後9時15分)にマレーシアのクアラルンプールのスバン空港に到着した。
 
大使館占拠の5人は、人質29人を解放、8/6午前11時18分(日本時間午前12時48分)にビルを出て残る15人の人質とバスで空港に向かった。人質の中にはユニチカの現地法人キマ(馬金)工場長で総支配人の西嶋久文(44)もいた。空港で人質が交換され、15人の代わりに、越智啓介領事兼移住部長、村田良平参事官、マレーシアのオマール通信政務次官、カシム内務事務次官が日航機に乗り込んだ。8/7午後1時20分(日本時間午後2時50分)には空港ビルから1.5キロの滑走路西で、プラスチック爆弾を犯人らは爆発させて威力を誇示した。この後、日航機は大使館占拠犯5人、釈放犯5人、人質4人と乗員9人でマレーシアを出発した。8/8午前3時15分(日本時間午前10時15分)にリビアのトリポリ空港に着いた犯人らは、人質と乗員13人を解放、犯人10人はリビアに投降した。この日本赤軍の5人は、元会社員の丸岡修(24)、元慶大生の和光晴生(27)、元京大生の奥平純三(36)、元予備校生の山田義昭(26)、元大阪市立大生の日高敏彦(30)と思われたが、丸岡については別人説も流れた。
岩木山で山津波
昭和50年8/6午前0時から津軽地方は豪雨となり、午前2時30分、青森の中津軽郡岩木町百沢の岩木山(1625メートル)山麓の岩木神社前で山津波が起こった。30棟が埋まり、22人が死亡。岩木山登山のリフトの上にある大沢砂防池の築堤が決壊したものだった。雨は弘前市、西津軽郡鯵ヶ沢町、青森市が特にひどく、午前7時までに弘前で88ミリ、黒石で152ミリ、鯵ヶ沢で77ミリ、青森で69ミリ降った。
元地主錯乱の悲劇
昭和50年8/8午後8時40分、逗子署に通報があり、神奈川の逗子市久木3丁目の高松食堂経営の海藤(42)方前で、女性が血まみれで倒れていた。午後8時55分には食堂近くの2軒が燃えていると通報があり、海藤豆腐店と高松食堂、金子方、大木方の4軒339平方メートルが全焼した。焼け跡から無職の金子武司(47)と母カン(81)の死体が見つけられたが、カンはすでに病死していたらしかった。金子は自宅に放火する前に、食堂店員の海藤の弟の善平(37)を海藤方の裏庭で刺殺、さらにその妻君子(31)も殺し、高松食堂真向かいのコンニャク店経営の村松(60)の妻、菊枝(54)も6畳間で刺殺していた。海藤は午後7時10分に金子に呼び出され、金子の家に出向いたが、金子は海藤の弟の善平に家を売っており、7月に出る予定だったのだが、ガス工事が遅れて出れない、などと言ったため、口論となっていた。村松方も海藤方も元々は金子の所有だったが、競輪競馬で自宅以外すべてを売り払い、最後に残った自宅も3月に善平に売っていた。7月末が立ち退き期限だった。金子は中学卒業後、結婚するも離婚、昭和38年に地主の父の死去で財産が転がり込んできていた。
アメ横創設者が死去
昭和50年8/15、虎の門病院で、アメ横を作った近藤広吉(73)が急性腎不全で死去。近藤は明治35年、千葉の海上郡飯岡町生まれ。14歳の春に上京、小石川の砂糖問屋を皮切りに次々に職を変え、大正14年に本郷の湯島天神近くで自動車修理工場を開いた。その後、現在のアメ横の場所に航空機会社を設立、中島飛行機の下請けをして、飯岡、日光にも工場を持ち、2700人を雇う大盛況となった。しかし昭和20年に敗戦、すぐさま工場を1200万円で売り、北海道から大量の乾物を仕入れて、現在のアメ横の土地で販売した。また銚子の漁船2隻も購入、鰯漁を行った。上野松坂屋が日商7万円の時代に、近藤マーケットは30万円の売り上げがあった。近藤マーケットは110軒あったが、飯岡町から芋を仕入れ、元工場作業員を働かせて芋飴を作ったところ大ヒットし、マーケットは芋飴屋が45軒林立、そこでいつしか、近藤マーケットはアメ屋横丁へと名前を代え、最盛期には600軒となった。朝鮮戦争後、アメリカ軍PXの横流し品がアメ横に流れ、闇市に逆戻りした、と憤慨した近藤は引退、それ以降は表舞台に出なくなった近藤の名前を知る人は減っていき、昭和50年時にはアメ横でも古参組しか近藤について知らなくなっていた。
台風5、6号の相次ぐ惨禍
昭和50年8/16朝、台風5号の接近により西日本は雨、8/17昼に台風5号が四国をかすめ、夜、中国地方を横断した。高知では8000戸が浸水、吾川郡伊野町神谷では23人が死亡、そして高岡郡佐川町、日高村では仁淀川沿いでは、山崩れによる生き埋めが続出した。夕方には、高岡郡日高村妹背では2ヶ所で11人が生き埋めになった。さらに高岡郡越知町宮ヶ奈呂集落では22戸が埋まったとの情報も流れた。この後も低気圧は8/20まで停滞、青森、秋田などで8000戸が浸水した。
 
8/23午前1時、台風6号は徳島の阿南市に上陸、徳島市内では午前0時40分、最大瞬間風速34.8メートルを記録した。また8/22午後11時までに、勝浦町上勝町では749ミリの降雨を記録した。8/23午前6時までに、剣山では798ミリもの降雨を記録した。午前5時には美馬郡木屋平村川井で男子中学生(14)が生き埋めになり、救出の消防団4人も犠牲となった。午後11時40分には北海道の上川郡上川町の層雲峡温泉、ホテル石水亭の棟続きの社員寮、木造2階建てモルタル174平方メートルの半分が山崩れで埋まり、6人が死亡。8/24午前5時、台風6号は釧路南方で低気圧となった。午後3時50分には石狩川が北海道樺戸郡月形町の月形大橋近くで決壊、空知郡北村も合わせて520戸が浸水、石狩平野では2万戸が浸水した。
興人が倒産
昭和50年8/25夜、第一勧銀は興人(資本金64億9800万円、3442人)への融資を打ち切り、会社更生法適用申請勧告を行った。東証は8/26に取引停止、1500億円の負債を抱えて興人は経営危機となり、8/28朝、傘下の興人化成、コーデラン工業、中央ハウジングと共に会社更生法適用を申請、倒産した。興人は元は興国人絹パルプといったが、昭和36年に西山雄一社長の指揮の下、紙・パルプだけでなく不動産にも進出していた。しかし500億円の評価額の物件を抱える不動産投資が今春から危機となり、主力の難燃性繊維コーデランもアメリカ市場の不況で販売が厳しくなっていた。昭和50年8/25の本社部門500人の給与払いは延期、工場の3300人の給与は8/27だったが、未定となっていた。
ハイレ・セラシエ死去 昭和50年8/27死去。参照→世界最古の王朝滅ぶ

エアバッグ発明者が自殺
昭和50年8/30午前7時20分、港区三田4−11−19の玉鳳寺境内のアパート2階のGIC(グッドアイデアセンター)事務所で、経営者の小堀保三郎(76)、妻の艶子(70)が頭からビニールをかぶりホースを引き込んでガス心中した。GICは特許申請事務手続きの会社だが、不況で経営難となっていた。夫妻は横須賀に住んでおり、小堀はエアバッグの発明者でもあった。エアバッグが量産されるのは平成に入ってからで、後の大発明も、当時はほとんど実用化されていなかった。エアバッグは世界各国で同様のものが開発されていたが、小堀は世界で初めて、昭和38年にエアバッグシステムを発明し、特許を取っていた。しかし小堀が特許を持っていた間はまったく売れず、特許が切れてから、我先にと世界各国のメーカーが本格的にエアバッグを取り入れるようになった。小堀はこれだけの発明をしたのに億万長者にはなれず、生活苦から夫婦で心中という最後を迎え、さらには特許が切れた関係もあり、エアバッグの世界最初の発明者、という事実もほとんど知られていないままである。
北朝鮮が公海で漁師2人射殺
昭和50年9/2午前10時3分、公海上の黄海北の北緯39度10分、東経123度55分の中国の旅大市東180キロで、ふぐ延縄漁船、佐賀の呼子町の松生丸(49.8トン、9人乗組)に、北朝鮮の警備艇2隻が接近、手旗信号を送ってきたが意味がわからず、いきなり北朝鮮船は松生丸の船首を銃撃、さらに船尾も銃撃し、甲板員の柳原増太郎(49)、前川三千男(37)を射殺した。松生丸は、北朝鮮船4隻に拿捕された。9/3未明、朝鮮中央通信が松生丸を領海に侵入したなどとして拿捕した事を明らかにし、北朝鮮赤十字協会は松生丸をスパイ船として銃撃したと9/5午前6時に伝えてきた。
 
国交のない北朝鮮とパイプを持つ社会党はここで、いまとなっては不可解だが、当時は変には思われなかった行動をとる。いきなり、松生丸が領海侵犯をしていたならば北朝鮮に謝罪せねばならない、と言い出すのである。これに韓国は猛反発した。韓国では、北朝鮮びいきの日本の自称文化人なども、さすがに公海上で漁師2人が殺害された今回の事件で、北朝鮮の正体に気づくだろう、と期待していたところ、それが、北朝鮮の主張を鵜呑みにするどころか、2人も殺されていながら、北朝鮮に頭を下げろといった主張が飛び出る日本の現状に、怒りが爆発したのだった。韓国の対日世論は硬化、韓国マスコミは、もし韓国の軍艦が日本の漁船を北朝鮮の船と誤認して銃撃したら、日本の自称文化人やマスコミは大騒ぎし、日本政府は強硬姿勢を取るだろう、と断罪、日本社会の左派政権の北朝鮮には甘く、右派政権の韓国には厳しく、というダブルスタンダードを口を極めて非難した。
 
北朝鮮は遺族に2万ドル(600万円)ずつの弔慰金を出し、9/11には松生丸を解放、しかし銃撃された責任は領海侵犯をした松生丸にあると言い張り、釈放条件も松生丸側が北朝鮮の主張を認める事、であった。訪朝団を派遣していた社会党は9/12、金日成が遺憾の意を表していた、と発表し、日本政府にすぐに手打ちをするように猛烈に働きかけ、日本政府は金日成の遺憾の意を諒として、北朝鮮を責めない、とあっさりと折れた。9/14午前6時27分、松生丸は呼子へ帰港、口止めをされた乗組員の口は重かった。こうして松生丸事件は、公海上で自国の漁師が撃ち殺されても、相手の言い分に押し切られるばかりで、強く抗議すらできない海洋国家日本、という絵柄を全世界に知らしめて終わった。
末広亭席亭の妻死す
昭和50年9/3午前12時、新宿末広亭席亭の北村銀太郎(85)の妻すゑ子(67)が肝硬変で、6/4から入院していた品川区の昭和大病院で死去、円生、円蔵、今輔、柳橋、助六、円鏡などが集まった。すゑ子は5代目柳亭左楽の1人娘で、三遊亭円生、柳家小さん、桂文楽らとは、おせいちゃん、と呼ばれる間柄の幼馴染。昭和21年の末広亭再建の頃に銀太郎と結婚、戦後の東京落語界復活の功労者だった。
狙われるフォード大統領
1975年(昭和50年)9/5午前10時5分(日本時間9/6午前2時5分)、アメリカのフォード大統領は議事堂向かいのセネターホテルを出て群衆と握手しながら徒歩で議事堂へ向かう途中、マンソン一家の女リネット・アリス・フロム(26)に60センチの至近距離から狙撃された。フロムは45口径の銃をハンドバッグから取り出し、大統領を襲ったが、シークレットサービスが銃をつかんでフロムをねじ伏せた。フロムは、シャロン・テート殺害犯のマンソン一家の一員で、17歳の時に一家結成時からマンソン一家に加わっていた。1972年に殺人で起訴されたが、証拠不十分で釈放されていた。大統領狙撃は、獄中のマンソンが指示した可能性もあった。
 
1975年9/22午後3時30分(日本時間9/23午前7時30分)、空港へ向かうためサンフランシスコのセントフランシスホテルを出たフォード大統領は、3000人に手を振りながら、車に乗ろうとする前に振り返ったところ、10メートルの距離から、連合囚人同盟の女サラ・ムーア(44)に狙撃され、足元の歩道に着弾した。ムーアは警官が体当たりしたため、狙撃に失敗したもの。
越谷で高校生が祖母絞殺
昭和50年9/5午後1時5分、埼玉の越谷市で県立浦和工高1年の男子生徒(15)の家で、父(39)が、2階の子供部屋の洋服ダンスの中で祖母(60)が絞殺されているのを発見したと届け出た。午後2時20分、男子生徒は越谷署に出頭した。男子生徒は兄をいれて5人家族、友人がおらず、ガリ勉だったが、夏休み中から勉強をしなくなり、2学期からは不登校だった。しかし毎日、登校しているふりをしていた。9/2に学校から連絡があり、祖母に強く怒られ、9/3午前8時、家を出たがそのまま戻り、学校のロッカーの鍵をなくしたと嘘をついて、2階へ探しに行った祖母を絞殺、再び外へ出たが、午後2時30分に戻っていた。9/4朝、男子生徒は家を出て、そのまま利根川を自転車で走って夜を明かし、9/5に出頭したものだった。
兄弟で協力して殺人
昭和50年8/25、葛飾区立石5丁目のプラスチック加工業、永三工業経営の佐藤安弘(47)が午前11時の電話を最後に蒸発した事件で、9/8昼、サラ金経営の秋山芳光(46)が佐藤殺害を自供した。8/25午前10時、佐藤は秋山と千葉へ行き、5000万円の架空の商取引に臨んだ。8/29には横浜駅前の駐車禁止の場所に、エンジンキーが挿したままで、スモールランプをつけっ放しの車が見つけられたが、その持ち主が佐藤だと9/1に判明、助手席の床に血痕が残されていた。芳光の兄で運転手の秋山太郎(52)も佐藤殺害に関与していた事もわかった。芳光は借金が300万円、太郎は1000万円あった。9/8夜には千葉の市川市大野町の県道から入った幅3メートルの農道を300メートル入った水田埋立地脇の畑から、佐藤の死体が出てきた。現場は国鉄小金線の新設工事をしており、西船橋−新松戸間の仮称下総大野駅の南口広場予定地一角だった。
 
秋山兄弟と佐藤は10年前に同じボルト製造会社に勤務しており面識があった。8/18、密貿易でいい話があるから、1人1000万円ずつ出し合おうと秋山兄弟から佐藤は誘われ、8/22には新小岩駅に佐藤は金を持参して出てきたが、秋山サイドの殺人準備が整っておらず、一旦は帰ってもらっていた。8/25、市川市須和田1丁目の太郎の家で取引を行うとしたが、午前12時、取引が虚偽である事がばれ、秋山兄弟は佐藤をバットで撲殺、所持していた1025万円を奪った。午後10時、佐藤の車のトランクに死体を入れ、造成地に埋めた。そして3日ほど、太郎の家の前の駐車場に車を置いていたが、横浜へ放置しに行ったという。秋山兄弟は犯行について、お互いに罪のなすりあいをするなどした。2人は満州生まれ。太郎は昭和30年頃にダンボール箱製造の秋山紙工を設立したが、昭和49年10月に倒産していた。芳光はガス会社に勤務、昭和42年9月に横領で逮捕され、3年間服役、出所後は太郎の会社に入ったが、太郎の会社の倒産後は貸金取立代行でリベート稼ぎだけを行うサラ金会社を設立していた。
タレント本がブーム
10代の間でベストセラーとなる本の多くがタレントが書いたもので、書店には健康もの、暴露ものに並び、タレント本コーナーも設けられる人気ぶり。紀伊国屋書店の昭和50年9月1週のノンフィクション部門1位では萩本欽一「欽ドンいってみようやってみよう」、3位には北公次「二五六ページの絶叫」が登場、8月3週の1位はアグネス・チャン「小さな恋のおはなし」だった。この傾向は3月からで、あのねのね「あのねのね」、山本リンダ「歌に愛をこめて」が爆発的に売れてから、次々にタレント本が発刊されたもの。9/9までに96点、500万部が売れていた。高校1、2年生や中学生が買い手で、ラジオの深夜放送などで紹介されると売れ出し、1ヶ月で落ち着くという。無論、これらの本のほとんどはゴーストライターによって書かれていた。
試合中に広島ファンが中日選手襲撃 昭和50年9/10襲撃。参照→赤ヘル軍団の軌跡

フランスの地底探検隊の明暗
1975年(昭和50年)9/11夜、フランス南部のグルノーブル近くの地底エベレストと呼ばれたアルプスのベルコールのベルジェ洞窟で遭難していたイギリス人探検家4人が、4日ぶりに外に脱出した。地下500メートルで洪水があり、フランス人探検家2人は戻ってこれなかった。この洞窟は過去に地下1134メートルまで到達した記録があったが、今回、9/6にイギリス人4人、フランス人4人は地下1122メートルを目指し、洞窟に入った。フランス人2人は途中で引き返し、6人で目的地に到達、9/8に上に戻ろうとしたところ、地上の大雨で、地下が洪水となり、地上から800メートルの場所でフランス人2人が動けなくなり、地下500メートルでイギリス人4人は無線でSOSを出し、救助されたものだった。
棟方志功が死去
昭和50年9/13午前10時5分、杉並区上荻1丁目の自宅で、肝臓ガンで棟方志功(72)が死去。棟方はねぶたのバイタリティを特徴とした木版画で知られていた。明治36年に青森市の刃物鍛冶の家に生まれ、小学生で画家を志した。大正9年に油絵を描き始め、大正13年に上京、裁判所の給仕から納豆売り、靴の注文取りなどをして、昭和3年に帝展に初入選、古川竜生、川上澄生の影響で版画ではなく「板画」を名乗り、同年の「善知鳥」、昭和11年の国画会の「大和し美し」は代表作となった。ふくよかな女人像が得意で、昭和27年にはニューヨークで個展を開き反響、ルガノ国際版画展で優秀賞を得て、昭和30年、サンパウロ国際ビエンナーレ、昭和31年、ベネチアビエンナーレと国際版画グランプリを連続受賞した。鎌倉山に仕事場を持ち、近眼で分厚い眼鏡が特徴だった。アメリカで倒れ、昨秋、慈恵医大病院に入ったが、林武、加東大介といった一緒に入院していた人が次々に死んだ事にショックを受け、4/25に退院していた。自宅1階の15畳間で、最後の言葉は「言葉が奪われそうだ」だったという。
パトリシア・ハースト逮捕 昭和50年9/18逮捕。参照→昭和ラプソディ(昭和49年・上)「強盗になった新聞王の娘」

三木内閣の支持率急落
昭和50年9/19から4日間、毎日新聞が5591人に行った調査で、三木内閣の支持率が急落していた事がわかった。物価対策、公共料金値上げ、不況が響いたとされた。昨12月には支持率47%、不支持12%、無関心35%だったのが、3月には支持率39%、不支持20%、無関心38%、今回は支持率23%、不支持33%、無関心41%となっていた。中でも自民党の支持層は前回、前々回の支持66%から、40%に急落していた。都市部でも低落が顕著だった。発足からほぼ1年でこれだけ支持率が落ちたのは三木政権が初めてだった。過去の内閣の、発足からほぼ1年後の支持率の変化は以下の通り。
 
吉田内閣 昭和24年2月調査の54%が34%に
鳩山内閣 昭和29年12月調査の35%が50%に
岸内閣  昭和32年9月調査の46%が43%に
池田内閣 昭和35年7月調査の40%が34%に
佐藤内閣 昭和39年11月調査の46%が29%に
田中内閣 昭和47年9月調査の53%が26%に
三木内閣 昭和49年12月調査の47%が23%に
 
また自民党の支持率は40%、社会党20%、共産党、公明党、民社党はそれぞれ5%、ほか1%、ない21%、無回答など3%だった。
田中金脈告発映画が中止
昭和50年9/25、「文藝春秋」の「淋しき越山会の女王」の作者、故児玉隆也の一生を東宝で映画化しようという企画が、清水雅社長から藤本真澄副社長に制作中止の申し入れがあり、藤本副社長は辞表を提出、10/25に辞任した。映画の企画が潰れるのは珍しい事ではないが、東宝では神様の扱いだった藤本副社長が辞表を出したというインパクトから話題となった。この映画は「愛はとこしえに」「あるルポライターの死」「地をはうように」などのタイトルが予定され、9/4には藤本は今井正監督(63)、脚本家の山田信夫(43)、針生宏プロデューサーと打ち合わせをしていた。クライマックスに児玉の田中金脈問題追及で政権崩壊に追い込む様子が描かれる手はずになっていた。
昭和天皇が訪米 昭和50年9/30到着。参照→昭和天皇、アメリカを行く

台風13号で八丈島惨状
昭和50年10/5、本州南岸沿いを台風13号は東へ向かったが、午後4時30分、八丈島では瞬間最大風速67.8メートルを記録、3700戸全世帯に被害が出た。190戸は全壊、341戸は半壊、町立大賀郷小も全壊し、ホテルの屋根が吹き飛んだ。10/7も八丈行きの船便、飛行機は欠航、生鮮食品が不足し、10/8午後5時にようやく陸自機が到着した。台風が去った後、2つの低気圧が列島を挟み撃ち、集中豪雨は東北、関東、東海を襲い、浜松では10/7午後10時50分から1時間、80.5ミリの降雨を記録、396戸が床上浸水、3846戸が床下浸水、伊場、入野は泥の海となり、田町、旭町も午前2時には膝まで水に浸かった。
広島がセリーグ優勝 昭和50年10/15優勝。参照→赤ヘル軍団の軌跡

オリエンテーリングでレイプ騒ぎ
昭和50年10/19午後1時15分、埼玉の飯能市飯能の奥武蔵自然歩道の高麗峠近くの山林で、都内の大学2部2年の女子大生2人(19)が、雑木林から出てきた短刀を持った中年男に別々の木に縛り付けられ、金を奪われ、1人が陵辱され、もう1人は激しく抵抗してレイプされずに逃げた。女子大生2人は大学の体育の特別コースでオリエンテーリング中で、日高町の西武池袋線高麗駅を中心に、宮沢湖1周10キロのコースを午前10時30分から、50人が2人1組で2、3分おきに出発するのに参加していた。2人はコースを逆回りしており、9つのチェックポイントの6番目寸前の場所でレイプされた。朝から雨で、ハイカーは少なかったという。
 
2キロ北の入間郡日高町の雑木林では、18歳の女子大生2人がオリエンテーリング中に襲われ、1人がレイプされる事件が昭和48年7/8にもあり、この近辺はレイプ多発地帯だった。昭和50年10/22午後3時、レイプ現場から15キロ離れた雲取山(2017メートル)の町営奥多摩小屋で、1人でいた16歳女性が、10/20から泊まっていた中年男に登山ナイフで脅され、金をとられて、後ろ手に縛られ、リュックに爆弾を詰めたなどと脅されて、山を降りたところでレイプされる事件があり、これら一連のレイプは同一人物の犯行とされ、奥武蔵山塊で野山をかけめぐるレイプ魔の存在が明らかになった。
西武新宿駅に地下道開通
昭和50年10/22、それまで離れ小島だった西武新宿駅が地下で、国鉄新宿駅とつながった。地下鉄プロムナードとサブナード(靖国通り下)を結ぶ、長さ116メートル、幅6メートルのサブナード4丁目が開通、さらに西武新宿駅まで長さ100メートル、幅7.5メートルのコンコースも開通したもの。小田急、京王、国鉄、西武がこれですべて地下でつながった。サブナードは2年前に東口大ガードから新宿区役所まで340メートルだったのが、今回の開通で556メートルに。西口から東口を経て伊勢丹前まで結ぶメトロプロムナードは昭和34年に開通していた。
消えるお屋敷町
昭和50年11月、東京のお屋敷町、品川区の池田山、島津山、長者丸、大田区の田園調布といった場所で、戦前からの広大で池などもある邸宅が次々に壊され、マンションとなっていき、様変わりしていた。固定資産税のアップや、お手伝いのいない屋敷よりマンションの方が安全で便利という所有者の意識の問題もあった。品川区上大崎2丁目の長者丸では、4、5年前は買い手はいても売り手がいなかったのが、売り手ばかりとなり、3.3平方メートル120万円の相場が70万円にまで下落していた。品川区東五反田5丁目の池田山では、4年前には町内会は180世帯だったのが、区の調査で地域住民は450世帯にまで増えていた。田園調布では終戦時以外は住民の出入りがなかったのが、入れ替わりが激しくなっていた。
日本シリーズで阪急優勝 昭和50年11/2優勝。参照→赤ヘル軍団の軌跡

パゾリーニが殺される
1975年(昭和50年)11/2午前6時30分(日本時間午後2時30分)、ローマ近郊のオスティア海岸に建築中の別荘近くで、ピエル・パオロ・パゾリーニ(53)が石で殴られ頭蓋骨を骨折、車で轢かれて死んでいるのを見つかった。ローマ市内で、ジュゼッペ・ペロージ(17)がパゾリーニの車を運転していて、すでに死体発見前に逮捕されており、パゾリーニの死体のそばにペロージの指輪も落ちていた事から、ペロージはパゾリーニを11/1午後10時30分から午後12時の間に殺害したと自供した。ペロージはパゾリーニの最新作の映画「ソドムの百二十日」にエキストラ出演していた。パゾリーニはローマのサン・ロレンツォのレストランでニノ・ダボリ夫妻らと食事をした後、ローマ中央駅近くでペロージを車に誘い込み、オスティアでホモセックスを強要した。それで棒で殴りあいとなり、ペロージは車で逃げようとしたところ、パゾリーニを轢き殺してしまったという。パゾリーニは反キリスト教を標榜、左翼だった事から、何者かの陰謀により殺された、という主張は何度となく左翼関係者などから出されているが、いまのところ、未成年者へのホモレイプ未遂による返り討ち殺人という以外の証拠は見つかっていない。ペロージ自身も2005年、犯人は別の3人組だ、との証言をしたが、これもペロージの話だけで物的な証拠は何ら挙がっていない。
横浜でタイヤ工場火災
昭和50年11/5午前9時5分、横浜市戸塚区柏尾町1のブリヂストンタイヤ横浜工場の化成品第3工場2階から出火、鉄筋5階建てのうち2階の一部、2500平方メートルを焼失した。さらにホームラバー10トンのうち3.5トンを焼失し、午前10時57分に鎮火した。300人の従業員は避難した。ベルトコンベアのホームラバーを切断する際、作業員が1人、グラインダーを使っていたが、切り屑に火がついたらしかった。シアンガスを含む煙は高さ100メートルまで上がり、4キロ先の大船駅まで刺激臭が届き、戸塚元町幼稚園は避難、さらに50世帯も避難した。この工場では昭和29年11/23、昭和36年1/20、昭和40年1/9にも火災があった。
高知の6人殺し
昭和50年11/6午後8時45分、高知の安芸市伊尾木で、安芸郡北川村立小島中校長の牛窓平道(46)方に猟銃を持った男が押し入り、牛窓校長を布団の上から射殺、さらに階段下で牛窓の妻(38)も撃った。そのまま男は隣の農業、乾高茂(51)とその妻亜紀枝(52)を射殺した。さらに道を隔てた会社員の小松(30)方に押し入り、小松と妻の真喜(27)、長女の千賀子(5)、長男(2ヶ月)を撃ち、妻と長女が死亡。近所の主婦、谷口八重子(58)も射殺された。男は次々に9人を撃ち、うち6人を射殺、逃走した。男は楊枝製作業の畠山育也(31)で、牛窓校長の筋向いの家に住んでいた。11/7午前11時10分、安芸市の東山公園の中の洞穴にいた畠山は逮捕され、「相手は誰でもよかった」と殺人を自供した。畠山は昭和41年5月から2ヶ月、精神が不安定で入院していた。
フランコが死去
1975年(昭和50年)11/20午前4時40分(日本時間午前12時40分)、スペインのフランシスコ・フランコ総統(82)が死去、スペイン内戦終結以来、36年にわたりスペイン元首の地位にあったフランコは、10/21に心臓発作で倒れ、10/30には元首権限を公爵のファン・カルロス王子(37)に一時的に委譲していた。王子はフランコの死去で国王に11/22に即位、スペインは王制に戻った。ファン・カルロスの祖父アルフォンソ13世は1931年に亡命、スペインでは王制が崩壊しており、44年ぶりの復活だった。
 
フランコは1892年12/4、ガリシア州フェロル生まれ。父は海軍主計士で、フランコは14歳でトレド陸軍士官学校に入り、パリ陸大を卒業、30歳でモロッコ外人部隊指揮官となり、34歳で国軍最年少の少将となった。1934年にはモロッコ軍司令官に、1935年には参謀総長となったが、1936年2月、人民戦線内閣でカナリア群島司令官に左遷された。7/17、モロッコ軍を率いて、ラス・パルマスで反乱、内戦を勝ち抜き、1939年3月にマドリッドを制圧、独裁政権を樹立した。1947年には終身総統となり、1969年7/22にはファン・カルロス王子を後継者に指名、1973年6月まで元首と首相を兼任していたが、6/8にカレロ・ブランコ提督兼副総統が首相に就任した。フランコは反共主義だったが、1972年にはソ連と通商条約を結び、一方では内戦で支援を受けたナチスドイツ、イタリアとは第2次大戦では距離を置き、キリスト教国でありながら、欧州でもアラブ諸国とは極めて友好的な関係を築くなどして、稀有の長期独裁政権を全うした。
処女が常識だった時代
昭和50年11/22、青少年の性行動が総理府によって発表された。これは昨11、12月に初の全国規模で、日本性教育協会が高校生、大学生に実施したもので、札幌、秋田、仙台、東京、名古屋、富山、京都、大阪、高松、松江、福岡、熊本の国公私立高校、短大、大学の16歳から21歳の学生5000人(うち女性2236人)を対象にしたもの。オナニーは昭和35年より男性は12歳で3倍に、15歳では2倍に増加していた。オナニー経験は男性90.6%、女性25.6%で、12歳で経験者が28%、13歳では50%を超え、18歳では80%を超していた。キスは男性33.4%、女性13.2%で、男女共に15歳から17歳までの高校時代に体験が半数だった。16歳で男性20%弱、女性13.2%、18歳で男性37%、女性26%となっていた。男女共、初めてのキスは公園が25%だった。ペッティングは男性21%、女性12%で、高校時代に体験が半数。セックスは男性15.1%、女性6.6%で、15歳では男性3%、女性2%、18歳では男性14%、女性7%、21歳で男性28%、女性16%、これも高校時代に体験が半数だった。男性の初体験はホテル、相手の家、相手のアパートが多かった。
幌内炭鉱でガス爆発
昭和50年11/27午前2時15分、北海道三笠市唐松青山町115の北海道炭礦汽船幌内炭鉱で、坑口1965メートルの七片操車坑道掘進現場でガス爆発があり、24人が犠牲となった。3番方408人が坑内におり、うち31人が七片坑道にいた。11/29朝、13人を中に残したまま坑内注水消火が決まり、午前11時59分から開始された。
市原のゴルフ場造成地で土砂崩れ
昭和50年11/29午後3時5分、千葉の市原市月出和田堀72−3の加茂ゴルフカントリー倶楽部造成工事現場の第3ホール近くで、20人が直径1メートル50センチの排水用ヒューム管を設置中、北の山から土砂が長さ70メートル、幅30メートル、高さ5メートル、1万立方メートルにわたり崩れた。11人が生き埋めとなり、うち8人が死亡。犠牲者は富士工の市原加茂工事事務所とその下請け、今西組と、孫請けの鴨川生コンの作業員らだった。
史上最大のスト権スト
公務員現業職員のスト一律禁止を撤廃、スト権回復をめぐる公共企業等労組協議会こと公労協によるストが、昭和50年11/22午後に表決された。公労協は国労、全逓、全電通、動労、全林野、全専売、全印刷、全造幣、アルコール専売の86万人が参加しており、これらがストに入る事となった。11/25午前、国労と動労が長距離夜行列車からストに入り、11/26午前0時からは9単産がストに突入、国鉄は全面停止し、96時間ストに入った。電話局もストに入り、電報も届かなくなった。
 
スト4日目の11/24には、京成の通勤ラッシュと、中山競馬開催が重なり、乗車率280%となった。京成津田沼駅改札には1キロの列が出来、規制となった。11/30の日曜日は行楽地はガラガラ。熱海の駅弁も1日1万食出るのが200食に。芸者衆1000人のうち、半分がお茶引きだという。スト6日目の12/1の月曜日、京成では切符売り場の窓ガラスが割れて、16人が負傷した。夕方には三木首相が政府声明でスト即時中止を訴えたが、公労協は徹底抗戦を表明、社会党も支援した。スト7日目の12/2になると、生鮮食品の貨物輸送の遅れによる滞貨の山が出来た。トラック輸送も限界があり、貨物列車分をすべて代替出来ないでいたのである。また京成では午前5時30分からラッシュだった。
 
12/3午前12時、公労協はストの自主的中止を決定、12/4午前0時から国鉄は再開した。このストの8日間で、週刊誌は5割程度しかさばけず。鉄道弘済会が受け付けなかったためで、日刊ゲンダイも25%の売れ行き減だった。日本交通公社は48億円の売り上げ減により、6億4000万円を損。1日100万人規模の観光客が消えた計算だという。熱海の旅館ホテル350軒(4万人宿泊)では、予約13万1200件が取り消しになり、10億5000万円の損失だった。都心のビジネスホテルはストで帰宅できない会社員の収容で快調。私鉄は8日間で1076万人、営団は560万人、乗客が増えた。
ジュリーが駅員殴る
ジュリーこと沢田研二(27)が昭和50年12/7午後9時40分、新幹線ひかりで名古屋公演から帰京したところ、ホームの凄まじいファンの数に、東京駅員(30)が「くだらない事で騒いで」とくさした。これを聞いた沢田は駅員に頭突きし、5万円の慰謝料で和解したが、東京駅の東京鉄道公安室には駅員の暴言を棚に上げてなぜジュリーばかり罰するのか、と電話が殺到した。国鉄の駅員はスト権スト明けのしばらくだけ低姿勢だったが、また「乗せてやる」という態度に戻っていたためだった。沢田研二云々以前に、この頃の国鉄職員は横柄で、一般国民の多くから白い目で見られていた。
3億円事件時効成立 昭和50年12/10成立。参照→3億円事件の全貌

宮本リンチ殺人の真相暴露
昭和50年12/10発売の文藝春秋の新年号、立花隆の「日本共産党の研究」に、昭和8年にリンチ殺人で死んだ小畑達夫の死因鑑定書全文が新資料として掲載され、これまで不明だった共産党の宮本委員長によるリンチ殺人が事実だったと判明した。12/10の赤旗はすぐさま反論を出し、小畑は特異体質でショック死だったと強弁した。
ネッシーの写真を学術会議で公開
1975年(昭和50年)12/10夜、イギリス下院大委員会室で、下院議員や科学者ら150人を集めて、ネッシーのシンポジウムが行われ、1972年8/8に水中撮影されたモノクロ写真3枚、1975年7月に撮影されたカラー写真が公開された。スコットランドのネス湖に住むというネッシーについては、ボストン応用科学アカデミーのロバート・ラインズ博士、世界野生鳥類基金のイギリスのピーター・スコット卿が、1975年12月の「ネイチャー」誌に写真3枚、絵2枚を掲載、体長15から20メートル、首の長さ3から4メートルで角のようなこぶがあり、爬虫類のようなネッシーについて詳述し、学術名をネッシテラス・ロムボプテリクスとしろ、と訴えていた。イギリス下院のシンポジウムもこの2人が主催したものだった。
さようなら早稲田小劇場
昭和50年12/13夜、早稲田小劇場で最後の本公演が行われ、定員100人は満席となった。早稲田小劇場は昭和41年10月、自由舞台出身者が早稲田大学近くの西早稲田の喫茶店2階に作り、66平方メートル、10年間で20本を上演、10万人が観覧した。昭和41年には別役実の「マッチ売りの少女」、昭和44年には唐十郎の「少女仮面」を上演して話題になった。賃貸契約が切れるのに伴い撤退する事にしたもので、劇団員は30人、昭和50年12/20の追加公演が最後となった。
蒸気機関車が最後の運転
昭和50年12/14、国鉄室蘭本線の室蘭−岩見沢間を、SLのサヨナラ旅客列車が走った。機関車はC57型135号機で昭和15年、三菱重工製だった。昭和27年に北海道に配備され、これまでに325.3キロ、走行していた。SL最後の日は徹夜で150人が室蘭駅に並び、午前7時35分、8両編成の列車が2番ホームに入った。2時間前には行列は1500人となっていた。川村弘機関士(54)は2000人を乗せ、8分遅れで午前7時58分に粉雪の中、出発、140.2キロを走ったが、沿線には2万人が押しかけた。天気は途中から晴天となった。SLは昭和50年11月時点で、北海道の函館本線、根室本線、室蘭本線、幌内線、夕張線の一部と、歌志内線全線しか走っていなかった。
 
SLの貨物列車は国鉄夕張線の夕張−追分間を走るのが最後となり、12/24午後7時10分に7両で夕張駅を出発した。機関車はD51型241号機で昭和14年、苗穂工場製だった。高田孝機関士(46)、板狩政二機関助士(33)により、追分駅まで43.6キロを運行された。
 
蒸気機関車は明治5年10/14(旧暦9/12)に新橋−横浜間で運行したのが初め。イギリスからSL10両を購入したもので、明治25年には133両になり、明治26年に初の国産SLが作られた。大正時代には2300両となり、9600型式も登場、昭和11年にはD51が登場し、これは1115両作られた。昭和21年が国鉄の保有SL最多の5958両で、昭和35年には4000両を割り、電車の4500両に抜かれていた。
最後の海軍大将死す
昭和50年12/15午後5時55分、最後の海軍大将、井上成美(86)が神奈川の横須賀市長井町の自宅で老衰で死去。井上は仙台生まれで海軍兵学校37期、海軍省軍務局課長、戦艦比叡艦長などを務め、海軍兵学校校長、海軍次官となった。昭和20年5月に大将となり、最後の海軍大将と呼ばれた。昭和13年から昭和14年までの軍務局長時代には、日独伊三国同盟に反対、米内光政、山本五十六と海軍三羽烏として、合理化路線の推進者で知られていた。
シルバーシートが拡大
昭和50年12/20から、国電の中央線、総武線の各駅停車と常磐線でもシルバーシートが導入された。シルバーシートは9月の敬老の日に2年前から1路線ずつ国電で増えており、山手線、中央線快速、京浜東北線でこれまで導入されていた。
小学生が女性会社員刺殺
昭和50年12/21午後1時27分、青森の八戸市小中野町新堀の角アパート1階で、会社員の女性、沢口(29)が玄関先で血まみれになって助けを求めているのを、隣の女性(64)が見つけた。沢口は20ヶ所を刃物で刺されており、出血多量で死亡。後ろからふいに刺され、滅多刺しにされたらしい。部屋から血のついた菜切り包丁が見つかり、それを少年が捨てて逃げていくのを近所の人が目撃しており、小学5年の男子生徒(11)が12/22午前11時40分、アパート2階のおばの家に戻ったところを保護された。男子生徒は妹と2人でおばの家を訪問しており、トイレへ行くと1階へ降りた後、悲鳴が聞こえたという。男子生徒の家は5人家族で、漁船を持ち金持ちだった。男子生徒は昭和48年秋にも近所の家へ行き、マッチ遊びをして3棟を全焼させており、沢口方へ盗みに入ったらしい。なお、この男子生徒はその後、社会復帰したが、平成19年に八戸市内で自らの妻子4人を殺害、車で逃走して警察の非常線に引っかかったところを、自殺している。突然の一家心中の原因は不明とされた。
群馬で一家5人殺し
昭和50年12/25午前4時、群馬の利根郡昭和村川額3712の農業、坂本光治(50)方の木造平屋118.8平方メートルの奥6畳間から出火、畜舎や椎茸栽培小屋も含む4棟431.8平方メートルが全焼した。焼け跡から坂本、妻(46)、長女(28)、長女の長女(2)、長女の長男(7)、電気工で長女の前夫の坂爪貞夫(41)の死体が見つかった。坂爪が復縁を迫り、坂本の長女とその娘を左後ろから包丁で一突きして刺殺、ガソリンを撒いて火をつけたらしかった。昭和43年に2人は結婚したが、坂爪の会社が倒産して無職となり、昭和49年10月に離婚して、女児を坂本の長女が、男児を坂爪が引き取っていた。坂爪の家からは犯行予告のノートが見つかった。
サイダー消費がコーラ抜く
昭和50年、サイダーの消費がコーラを抜いた。これは自然指向で無色のものが好まれたなどと説明されたが、当時の自然指向などはこの程度のものだった。昭和48年にはコーラの日本の消費量は106万キロリットルとこれまでで一番飲まれ、昭和49年にはサイダーが80.8万キロリットルで、コーラが94万キロリットル、昭和50年にはサイダーが91.7万キロリットルで、コーラが83.5万キロリットルだった。コーラはコカコーラが90%のシェアだったが、サイダーはキリンレモンが三ツ矢サイダーを抑えて1位だった。  




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