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1949年~1954年

毎日オリオンズ誕生 初代パリーグ王者として輝かしい歴史のスタートを切る。

1949 9.21 毎日新聞社が「日本野球連盟」に加入を申し込む。
11.18 毎日球団の第1次メンバーを発表。総監督に湯浅禎夫が就任する。
11.26 日本野球連盟が解体。毎日球団は「太平洋野球連盟」に参加を決定する。
12.21 球団のニックネームがファン投票5位の「オリオンズ」に決まる。
1リーグ8球団制からプロ野球は一層の発展を目指し2リーグ制へ移行、オリオンズは新しくパシフィックリーグに所属する球団として誕生しました。
1950 監督:湯浅禎夫 成績:優勝(81勝34敗5分)
01.11 毎日の結成披露式を行う。球団社長に福島慎太郎が就任する。
03.08 初の対外試合で、第5空軍を21-0で破る。〈中日〉
03.11 パ・リーグ初のペナントレースが西宮球場で開幕。
対西鉄戦で戸倉勝城がパ第1号本塁打を記録する。
05.05 県営宮城球場開きが行われ、対大映戦、対南海戦でファンに死傷者が出る。
05.25 呉昌征がプロ野球史上初の300盗塁を記録する。〈対西鉄9回戦、下関〉
06.04 15連勝のチーム新記録を達成する。
07.05 戸倉勝城が後楽園球場でのナイター第1号本塁打を記録する。〈対大映10回戦〉
09.15 ノンプロ世界選手権チームのケープ・ハーツを5-2で破る。〈後楽園〉
09.23 GHQ主催の公式戦、国連傷兵慰問試合で南海を6-5で破る。〈神宮〉
10.25 対東急18回戦に4-2で勝ち、初のパ・リーグ優勝を決める。〈後楽園〉
11.28 日本シリーズ第6戦に松竹を降し、4勝2敗で初の選手権を獲得する。〈大阪〉
12.02 毎日主体のパ・リーグ選抜軍「渡布軍」のメンバーに毎日から14選手が選ばれる。
タイトル 最優秀選手: 別当薫、新人王: 荒巻淳、最優秀勝率投手: 荒巻淳、最多勝利投手: 荒巻淳、本塁打王: 別当薫、打点王: 別当薫
この年は再び南海ホークスとあわやプレーオフというところまで健闘しましたが、惜しくも2位に終わりました。また新戦力としてのちの「ミサイル打線」の中核となる山内和弘らが入団しました。
1951 監督:湯浅禎夫 成績:3位(54勝51敗5分)
02.11 パ・リーグ選抜軍が「ウィルソン号」でハワイに出発する。
03.18 パ・リーグ第1回トーナメントが西宮球場で開かれる。
06.16 オールスターのファン投票で、土井垣武が両リーグ最多の7万8770票を獲得。
10.17 毎日新聞社の招きで、アメリカ大リーグの選抜チームが来日する。
『オリオンズが強すぎてつまらない』とまで言われたパリーグは戦力均衡のための選手移籍が行われ、オリオンズからは4番打者が移籍する今では考えられないことが起こるほどでした。
1952 監督:湯浅禎夫・別当薫 成績:2位(75勝45敗)
03.02 第1回毎日対大阪戦の定期戦が開かれる。
03.05 第1回毎日対巨人戦の定期戦が開かれる。
07.16 平和台球場での対西鉄12回戦が長引き、日没中止となったためにファンの暴行事件が発生する。
07.27 湯浅総監督を更迭し、後任監督に別当薫が就任する。
10.19 第1回毎日対名古屋戦の定期戦が開かれる。
11.28 湯浅総監督が復帰し、監督に若林忠志が就任する。
12.24 福島社長の任期切れで、山田潤二が社長に就任する。
この年は再び南海ホークスとあわやプレーオフというところまで健闘しましたが、惜しくも2位に終わりました。また新戦力としてのちの「ミサイル打線」の中核となる山内和弘らが入団しました。
1953 監督:若林忠志 成績:5位(56勝62敗2分)
08.01 駐日米軍で元大リーガーのカイリーが、初の外国人選手として臨時契約する。
08.23 対阪急17回戦でNHKによるプロ野球初のテレビ中継が行われる。〈西宮〉
10.14 ニューヨーク・ジャイアンツが来日する。
10.22 全米オールスターチームが来日する。
11.06 若林忠志監督以下45選手がフィリピン遠征に出発する。
1954 監督:別当薫 成績:3位(79勝57敗4分)
03.19 パ・リーグ8球団制が実施される。毎日杯争奪戦で優勝し、三宅宅三が最高殊勲賞と首位打者を獲得する。
タイトル 打点王:山内和弘
正式に別当薫が外野手兼任で監督に就任、また今でも珍しいキャッチャーの助っ人Cルイスが入団活躍し、ファン投票でオールスターにも選ばれました。
またパリーグに新球団「高橋ユニオンズ」が誕生しました。

1955年~1959年

「大毎オリオンズ」の誕生「ミサイル打線」で華のあるチームに

1955 監督:別当薫 成績:3位(85勝55敗2分)
02.23 イースタンリーグが結成される。
03.20 イースタンリーグ結成記念大会が開かれる。〈駒沢〉
09.03 イースタンリーグが終了し初優勝を飾る。首位打者は佃明忠、最優秀投手に藪崎博志が選ばれる。
10.21 毎日新聞社の招きで、ニューヨーク・ヤンキースが来日する。
タイトル 新人王:榎本喜八、最優秀防御率投手:中川隆、打点王: 山内和弘
早稲田実業高校から伝説の強打者、打撃の職人と呼ばれた榎本喜八が入団、新人王に選ばれ以降打者の記録を次々と塗り替えてゆくことになります。
1956 監督:別当薫 成績:4位(84勝66敗4分)
06.27 オールスターのファン投票で、山内和弘が両リーグ最多の20万2859票を獲得。
10.08 山内和弘が47本の二塁打新記録を樹立する。〈対高橋22回戦、浦和〉
10.17 ドジャースが来日する。
10.21 毎日新聞社の招きで、ニューヨーク・ヤンキースが来日する。
タイトル 最優秀防御率投手:植村義信
山内和弘はこの年最多得票で3年連続ファン投票でオールスター出場、パリーグの顔として活躍、「賞品泥棒」「オールスター男」の名を欲しいままにしました。
1957 監督:別当薫 成績:3位(75勝52敗5分)
06.27 新設の大島舞網球場で、スプリングキャンプを開始する。
02.26 臨時株主総会で、取締役社長に安部が選出される。
08.27 葛城隆雄がサイクルヒットを達成する〈対南海戦〉
11.24 パ・リーグ6球団制に踏み切り、毎日と大映が合併する。
11.28 新球団オーナーに永田雅一が就任する。
12.03 毎日から32名、大映から15名のチーム新陣容を発表する。
12.18 球団のニックネーム「大毎オリオンズ」が承認される。
タイトル 首位打者: 山内和弘
パリーグでは「高橋ユニオンズ」と「大映スターズ」が合併しこの年は変則7球団に逆戻りし、ついにシーズンオフに「毎日オリオンズ」と合併した「大映ユニオンズ」が合併し名物オーナー大映の永田雅一氏が新球団「大毎オリオンズ」の新オーナーとなりました。
1958 監督:別当薫 成績:4位(62勝63敗5分)
01.15 新設の大島舞網球場で、スプリングキャンプを開始する。
03.10 大毎球団が正式に発足。本社を東京・有楽町に移す。
03.28 6球団制記念トーナメントが西宮、大阪両球場で開催される。
10.21 カージナルスが来日する。
タイトル 打点王: 葛城隆雄
1959 監督:別当薫 成績:2位(82勝48敗3分)
07.28 オールスターで山内和弘が最優秀選手と首位打者を獲得する。
11.07 別当薫が成績不振の責任をとって監督を辞任する。
11.26 西本幸雄ヘッドコーチが監督に昇格する。
タイトル 本塁打王:山内和弘、打点王:葛城隆雄
前年セリーグで首位打者を獲得した田宮謙次郎が加入山内、榎本、田宮、葛城らで組む強力打線は「ミサイル打線」の称号を与えられ他球団の脅威の的となりました。

1960年~1964年

2度目のリーグ優勝、新球場建設と「東京オリオンズ」誕生

1960 監督:西本幸雄 成績:優勝(82勝48敗3分)
04.16 義宮様が対南海戦を観戦される。〈後楽園〉
06.29 18連勝のリーグ新記録を作る。〈対近鉄12回戦、川崎〉
07.17 皇太子ご夫妻が、対南海戦で初のプロ野球観戦をされる。
10.05 対西鉄25回戦に4-0で勝ち、10年ぶり2度目の優勝を果たす。〈平和台〉
11.18 重役会で毎日側役員が総退陣、大映が経営権を握る。
12.05 前国鉄の宇野光雄が監督に就任する。
12.17 杉下茂前中日監督が現役選手として入団する。
タイトル 最優秀選手: 山内和弘、首位打者: 榎本喜八、最優秀勝率投手: 小野正一、最優秀防御率投手: 小野正一、最多勝利投手: 小野正一、本塁打王: 山内和弘、打点王: 山内和弘
西本幸雄新監督のもとミサイル打線の爆発と左腕小野正一が33勝をあげる大活躍で見事2度目のリーグ優勝。日本シリーズでは圧倒的有利を伝えられながら、前年までライバル西鉄ライオンズの監督であった三原脩監督が率いる大洋ホエールズにまさかの4連敗を喫し敗退。西本監督の更迭をまねきました。
1961 監督:宇野光雄 成績:4位(72勝66敗2分)
02.13 イースタンリーグが再発足する。
04.01 永田雅一オーナーが東京スタジアムの建設を発表する。
09.27 山内和弘が106打点のパ・リーグ新記録を樹立する。〈対阪急26回戦、後楽園〉
タイトル 打点王: 山内和弘
1962 監督:宇野光雄 成績:4位(60勝70敗2分)
05.25 球団事務所を東京スタジアムに移す。
06.02 東京スタジアム開場第1戦の対南海戦に勝ち、本拠地第1戦を飾る。
07.16 オールスターのファン投票で、山内和弘が4年連続の両リーグ最多得票を獲得。
10.06 柳田利夫が5試合連続本塁打のリーグタイ記録を作る。〈対西鉄26回戦〉
10.18 毎日新聞社の招きでデトロイト・タイガースが来日する。
10.27 皇太子ご夫妻が、日米野球第1戦の対南海戦を東京スタジアムで観戦される。
荒川区南千住に大リーグのスタジアムをモデルとした東京スタジアムが完成、新本拠地として下町名物として親しまれ、「下町の太陽」「娯楽の殿堂」「下駄履きで通える球場」など様々な愛称で最新鋭の設備を誇ったスタジアムはファンに親しまれた。
1963 監督:本堂保次 成績:5位(64勝85敗1分)
05.08 対東映3回戦で2回に震度3の地震があり、1分間ゲームが中断する。〈東京〉
09.05 球団結成1000勝を達成する。〈対阪急23回戦、東京〉
12.26 山内和弘と阪神の小山正明との世紀の大トレードが実現する。
本堂新監督の誕生も5位に低迷、3年連続のBクラスとなる。オフには現在でもプロ野球史上最も衝撃的なトレードとされ「世 紀のトレード」といわれるオリオンズの4番打者山内和弘とタイガースのエース小山正明のトレードが発表された。
1964 監督:本堂保次 成績:4位(77勝68敗5分)
01.13 球団のニックネームを「東京オリオンズ」と改める。
01.25 単独チームによる第1回海外キャンプ(マウイ島)に出発する。
08.13 小山正明がプロ野球10人目の200勝を達成する。〈対南海27回戦、大阪〉
12.19 パ・リーグ総裁に永田雅一会長が選出される。
タイトル 最優秀防御率:妻島芳郎、最多勝利投手:小山正明
「世紀のトレード」と東京オリンピック開催のこの年、チーム名から企業名をなくした「東京オリオンズ」と改称し、東京スタジアムと相まって、ファンに親しまれるチームを目指しました。

1965年~1969年

着実なチームつくりの時期 ロッテオリオンズ誕生

1965 監督:本堂保次・(濃人渉) 成績:5位(62勝74敗4分)
06.10 本堂保弥監督の休養で、濃人渉コーチが監督代行を務める。
11.25 田丸仁2軍監督が1軍監督に就任する。
地元の修徳高校から成田文夫が入団、のちに「下町のエース」として大活躍することとなります。また、長嶋二世と騒がれた上尾高校の山崎裕之も入団しました。
1966 監督:田丸仁 成績:4位(61勝69敗4分)
06.17 小山正明が58無四球試合の日本新記録を樹立する。〈対西鉄11回戦〉
09.11 榎本喜八が843四死球のパ・リーグ新記録を樹立する。〈対阪急27回戦〉
11.22 戸倉勝城が監督に就任する。
タイトル 首位打者: 榎本喜八、最高出塁率: 榎本喜八
カラーテレビ時代に対応しました。また桃太郎をモチーフにしたペットマークも登場しました。甲子園準優勝投手で銚子商業出身の木樽正明が入団、成田、小山とともに先発3本柱を形成します。
1967 監督:戸倉勝城・濃人渉 成績:5位(61勝69敗7分)
06.14 榎本喜八が1828本安打のパ・リーグ新記録を樹立する。〈対東映11回戦、東京〉
08.01 戸倉勝城監督が解任され、濃人渉が監督に就任する。
タイトル 盗塁王: 西田孝之
1968 監督:濃人渉 成績:3位(67勝63敗9分)
07.21 榎本喜八がプロ野球3人目の2000本安打を達成する。〈対近鉄17回戦、東京〉
12.21 陸上100mの五輪代表、ロケット・スターター飯島秀雄が入団する。
タイトル 打点王:アルトマン
新外国人アルトマン、ロペスを獲得、また村田兆治もこの年に入団、投打ともに戦力が整ってきました。また、飯島秀雄の入団はアイデアマンの永田オーナーらしい発想で世間を驚かせました。
1969 監督:濃人渉 成績:3位(69勝54敗7分)
01.15 岸信介元首相の仲介で、株式会社ロッテとの業務提携が発表される。
01.17 中村長芳がオーナー代理に就任する。
01.20 球団のニックネームを「ロッテオリオンズ」と改める。
02.01 5年ぶりに国内キャンプを鹿児島県指宿市で開始する。
08.16 成田文男がノーヒット・ノーランを達成する。〈対阪急14回戦、西宮〉
09.14 17試合連続のチーム本塁打を記録する。
10.10 延長13回、5時間15分のプロ野球最長時間試合を記録。〈対近鉄26回戦、日生〉
10.12 榎本喜八がプロ野球3人目の2000試合出場を達成する。〈対南海26回戦、大阪〉
タイトル 新人王: 有藤通世、最優秀防御率投手:木樽正明
ロッテとの業務提携がなされロッテオリオンズが誕生したこの年のちにミスターロッテと呼ばれる有藤道世が入団、新人王を獲得し『ロッテは向こう10年3塁手を獲る必要がない』と言わしめました。3位ながら2年連続Aクラスとなりさらなる飛躍を感じさせた年でした。

1970年~1974年

チーム環境激変の中リーグ優勝2回と日本一に!

1970 監督:濃人渉 成績:優勝(80勝47敗3分)
09.09 イースタンリーグで6年ぶり4回目の優勝が決定する。
10.03 有藤通世が20号本塁打を打ち、史上初となる同一チームから5人の20本塁打者が誕生する。〈対南海24回戦、大阪〉
10.07 対西鉄26回戦に2万6000人のファンが詰めかけ、10年ぶりの優勝を決める。〈東京〉
10.31 日本シリーズ第3戦に浩宮様とご学友が、吉田義男の解説で観戦される。〈東京〉
11.07 初の韓国遠征を行う。
タイトル 最優秀選手: 木樽正明、最多勝利投手: 成田文男
3人で62勝の木樽、成田、小山の投手3本柱と本塁打5人衆と呼ばれた池辺、山崎、有藤、アルトマン、ロペスに加え、シーズン中に移籍の江藤慎一らの強力打線で10年ぶりのリーグ優勝を達成、東京スタジアムに東京音頭が鳴り響きました。
1971 監督:濃人渉・大沢啓二 成績:2位(80勝46敗4分)
01.02 永田雅一オーナーが球団をロッテに譲渡、オーナーに中村長芳代理オーナーが昇格する。
03.01 千葉UHFテレビが、東京スタジアムでのロッテ公式戦全試合完全中継を決定する。
03.19 球団事務所を新宿区に移す。
05.11 球団通算1500勝を達成する。〈対西鉄4回戦、東京〉
05.30 成田文男がパ・リーグの投手として2人目の満塁本塁打を記録する。〈対東映8回戦、東京〉
06.04 醍醐猛夫が対東映10回戦に引き続き、11回戦でも本塁打を打ち、4打席連続の日本タイ記録を樹立する。
06.19 小山正明が史上2人目の3000奪三振を記録する。〈対西鉄12回戦、平和台〉
07.13 江藤慎一の三振をめぐって紛糾し、史上10度目の放棄試合となる。〈対阪急10回戦、西宮〉
07.23 濃人渉監督を更迭し、大沢啓二2軍監督が1軍監督に昇格する。
08.03 20試合連続チーム本塁打の日本新記録を樹立する。〈対東映15回戦、東京〉
08.05 江藤慎一がプロ野球6人目の300号本塁打を記録する。〈対東映17回戦、東京〉
08.14 山崎裕之がサイクルヒットを達成する。〈対東映戦〉
09.24 有藤通世が25号本塁打を打ち、チーム通算184本塁打の日本タイ記録を樹立する。〈対南海25回戦、東京〉
タイトル 首位打者: 江藤慎一、最多勝利投手: 木樽正明、最高出塁率: 江藤慎一
貯金34も2位に甘んじリーグ優勝を逃したシーズンも記録とタイトルのラッシュとなり江藤慎一は史上初の両リーグでの首位打者を達成しました。放棄試合をしたとして、濃人監督更迭のあとを受けた大沢啓二監督がよくチームをまとめあげ、首位阪急を猛追撃したシーズンでもありました。
1972 監督:大沢啓二 成績:5位(59勝68敗3分)
01.16 サンフランシスコ・ジャイアンツのジョンソンと浜浦徹との日米初のトレードが実現する。
06.16 小山正明が310勝を挙げ、金田正一に次ぐ史上第2位の勝利数となる。〈対近鉄9回戦、西京極〉
07.01 山崎裕之が二塁手連続無失策守備機会を272機会とし、パ・リーグ新記録を樹立する。〈対東映13回戦、後楽園〉
07.04 アルトマンが5人目となる8試合連続打点のリーグ新記録を樹立する。〈対南海13回戦、大阪〉
11.07 金田正一が監督に就任する。
11.22 重光武雄ロッテ社長は、東京球場の買収を断念する。
榎本を西鉄へ、江藤を大洋へトレードし、守りを強化して臨んだシーズンも5位に低迷。シーズン終了後400勝投手で絶大な人気を誇った金田正一氏の監督就任が決定しました。
1973 監督:金田正一
成績:前期2位(35勝27敗3分) 後期2位(35勝22敗8分)
01.23 重光武雄ロッテ社長が球団オーナーに就任する。
05.03 対太平洋3回戦の7回、ロッテの大量得点に対してスタンドからビンやカンなどが投げ込まれ、試合が9分間中断する。〈川崎〉
05.22 準フランチャイズの県営宮城球場での初試合、対近鉄8回戦に勝利する。
06.01 対太平洋4回戦でファンが騒ぎ、ナインは試合後も球場から出ることができず、機動隊が出動する騒ぎとなる。〈平和台〉
07.11 弘田澄男がプロ野球史上27回目のサイクルヒットを達成する。〈対日拓12回戦、神宮〉
10.10 八木沢荘六がプロ野球13人目の完全試合を達成する。〈対太平洋12回戦、県営宮城〉
タイトル 首位打者: 江藤慎一、最多勝利投手: 木樽正明、最高出塁率: 江藤慎一

パリーグが前期、後期の2シーズン制となったシーズン、金田新監督のもと、行く先々で大人気となり、特に前期優勝のかかった神宮球場での試合にはファンが殺到、入場しきれないファンが球場を取り巻き中継者のモニターに一喜一憂、テレビ局も急遽放送するほどのフィーバーぶりとなった。

また本拠地東京スタジアムを失い、仙台を準フランチャイズとしながら各地で主催試合を行う苦しい時代の幕開けでもあり「ジプシーロッテ」などと揶揄されることもありました。

1974 監督:金田正一
成績:前期2位(31勝27敗7分) 後期優勝(38勝23敗4分)
01.21 パ・リーグの理事会で、ロッテの本拠地の県営宮城球場が地方球場扱いから外れることが決定する。
08.28 弘田澄男がプロ野球史上初のランニング満塁本塁打を記録する。〈対南海8回戦、県営宮城〉
10.09 阪急とのプレイオフに3連勝して、リーグ優勝を決める。
10.23 日本シリーズ対中日第6戦に3-2で勝利し、24年ぶり2度目のシリーズ選手権を獲得する。〈中日〉
10.24 東京の外堀通りで観衆200万人ともいわれる優勝パレードを行う。
タイトル 最優秀選手: 金田留広、最多勝利投手: 金田留広、新人王: 三井雅春

プレーオフを制しリーグ優勝、そのまま日本シリーズでも中日を破り24年ぶりの日本一の座に輝いた。シーズンMVPの金田留広は金田監督の実弟でもある。日本シリーズのMVPは弘田澄男が獲得し小兵の弘田を称し「チビッコ最優秀」ともてはやさされました。

また、日本シリーズの最後のマウンドは村田兆治が仁王立ちしマサカリ投法からの剛球とフォークボールに日本中が驚愕しました。

1975年~1979年

激闘ののち、新本拠地川崎球場へ

1975 監督:金田正一
成績:前期6位(27勝34敗4分) 後期2位(32勝31敗2分)
04.21 金田監督が心臓発作で1週間の休養に入り、高木コーチが代理監督を務める。
06.27 韓国にノンプロ「ロッテ・ジャイアンツ」が誕生。今後の協力関係推進へ向けて球団提携を結ぶ。
10.23 韓国ノンプロチームとの交流試合のために訪韓する。
タイトル 最優秀防御率: 村田兆治

永年オリオンズを支えた助っ人アルトマンの後釜と目された新外国人の不振、投手陣の不調もあり、思わぬ苦戦のシーズンとなりました。原因として過酷な移動も問題視されました。

1976 監督:金田正一
成績:前期3位(29勝28敗8分) 後期3位(34勝28敗3分)
04.17 得津高宏がサイクルヒットを達成する。〈対太平洋戦〉
05.05 ラフィーバーが選手交代をめぐって監督と口論したため、無期限の自宅謹慎処分と1万ドルの罰金を科せられる。
08.11 有藤道世がプロ入り以来8年連続20本塁打を打って、プロ野球新記録となる。〈対近鉄5回戦〉
タイトル 最優秀防御率: 村田兆治

前期、後期ともに優勝争いを演じたものの、打線の迫力不足などから、優勝に手が届きませんでした。

1977 監督:金田正一
成績:前期3位(29勝28敗8分) 後期3位(34勝28敗3分)
01.23 「オリオンズこどもの会」を「ロッテ・バブルボーイズ」と改め、後援会組織を全国規模に拡大する。
10.04 実行委員会においてロッテ球団の保護地域変更を議決し、地域権を神奈川県に移すことを認める。これによって東京と宮城に置ける暫定的な地域権は消滅する。
10.05 阪急対近鉄戦で阪急が敗れたため、後期優勝が決定。
10.15 2勝2敗で迎えた阪急とのプレイオフ最終戦で敗れる。
10.21 オーナー会議で、ロッテ球団の保護地域を神奈川県に移すことが承認される。
11.24 本拠地を川崎球場に移すことが決まり、川崎市内をパレード。
タイトル 首位打者: 有藤道世、本塁打王: L.リー、打点王: L.リー

のちに長く助っ人として活躍するレロン・リーが入団、本塁打王と打点王の2冠を獲得、打線に核ができミスターロッテ有藤も首位打者を獲得するなどの活躍で久しぶりのプレーオフ進出もあと1勝で阪急に破れ日本シリーズ進出はなりませんでした。

1978 監督:金田正一
成績:前期5位(25勝33敗7分) 後期3位(28勝29敗8分)
06.31 阪急の今井雄太郎から、球団史上初の完全試合を喫する。〈対阪急8回戦、県営宮城〉
09.30 球団通算2000勝を達成する。〈対クラウン12回戦〉金田監督が辞任する。

川崎球場を本拠地としスタートし、野村克也(現楽天監督)も加入優勝候補NO1と呼ばれながらも低迷。金田監督も辞任し、寂しいシーズンとなりました。一方、レロン・リーの弟レオン・リーが入団、破壊力抜群のリー兄弟としての活躍が開始されました。

1979 監督:山内一弘
成績:前期4位(26勝34敗5分) 後期3位(29勝29敗7分)
06.09 八木沢荘六がマニエルに死球を与え、負傷したマニエルは約2ヶ月間欠場する。〈対近鉄10回戦〉
08.12 レオンと有藤道世がプロ野球史上初の同一チーム・同ゲームで2人の3本塁打を記録する。〈対近鉄4回戦、日生〉

かつての4番打者、山内一弘を監督として迎え、投手力に課題が残ったものの、着実な復活を予感させたシーズンでした。

1980年~1984年

前期優勝2回・・・新ミサイル打線の時代

1980 監督:山内一弘
成績:前期優勝(33勝25敗7分) 後期3位(31勝26敗8分)
05.28 張本勲が本塁打によって史上初の3000本安打を達成する。〈対阪急11回戦、川崎〉
06.07 イースタンリーグ対日本ハム戦で落合博満が5試合連続本塁打の新記録を樹立。
06.27 対日本ハム13回戦に勝ち、近鉄が敗れたためロッテの前期優勝が決定する。
07.03 川崎市内を優勝パレードする。
09.28 張本勲が王・野村に次ぐ史上3人目の通算500号本塁打を打つ。〈対近鉄10回戦、川崎〉
10.18 後期優勝の近鉄とのプレイオフに3連敗を喫して、年度優勝を逃す。
11.07 日韓親善のためにソウル遠征に出発する。
タイトル 首位打者: L.リー

巨人から移籍の張本勲の3000本安打に沸いた前期、見事に優勝、惜しくも再びプレーオフに敗れたものの、リー兄弟、有藤白仁天、に加え新鋭の落合博満、らを加えた「新ミサイル打線」は見るものを魅了、久しぶりに打のオリオンズが帰ってきたシーズンでした。

1981 監督:山内一弘
成績:前期優勝(35勝26敗4分) 後期3位(28勝31敗6分)
06.03 対近鉄10回戦で村田兆治が完投勝利して、開幕10連勝の球団新記録を樹立する。(6月7日に11連勝、6月16日に連勝はストップ)
06.24 対西武12回戦で高橋博士のサヨナラ安打によって前期優勝が決定する。
10.13 後期優勝の日本ハムとのプレイオフに1勝3敗1分で敗れ、年度優勝を逃す。
10.29 山内一弘監督が辞任する。
タイトル 首位打者: 落合博満、最多勝利投手: 村田兆治

落合が首位打者に輝くなど「新ミサイル打線」が爆発、前期優勝を達成、前期後期通算1位の成績ながら三度プレーオフに破れることとなってしまいました。

1982 監督:山本一義
成績:前期6位(23勝36敗6分) 後期4位(31勝33敗1分)
05.08 有藤道世がプロ野球14人目の300号本塁打を記録する。〈対日本ハム8回戦、後楽園〉
10.09 対南海13回戦で落合博満が32号本塁打を打ち全日程終了。 史上4人目(5度目)の三冠王が決定する。
タイトル 最優秀選手: 落合博満、首位打者: 落合博満、本塁打王: 落合博満、打点王: 落合博満、最高出塁率: 落合博満

山本一義新監督を迎えたシーズンエース村田を肘の故障で欠き、前期は最下位に低迷、そんな中話題は3冠王を獲得した落合に集まったシーズンでした。

1983 監督:山本一義 成績:6位(43勝76敗11分)
10.25 山本一義監督の解任を発表する。
11.16 新監督に稲尾和久が就任する。
タイトル 首位打者: 落合博満

エース不在の投手陣が苦しい中、打線も集中力を欠いてしまい12球団で唯一喫したことのなかった最下位に球団創設33年目にして転落してしまいました。

1984 監督:稲尾和久 成績:2位(64勝51敗15分)
05.29 対近鉄11回戦で仁科時成は9回二死から初安打を打たれ、1983年8月20日の近鉄戦に次いで2年連続して最後にノーヒット・ノーランを逃す。
10.18 ロッテ・ジャイアンツとの親善試合のために渡韓する。
タイトル 最優秀勝率投手: 石川賢

稲尾和久新監督の下、2年目石川賢の活躍、また巨人からは山本功児が移籍、投打がかみ合い前年の最下位から2位に躍進しました。

1985年~1989年

成績低迷、厳しい時代の始まり・・・

1985 監督:稲尾和久 成績:2位(64勝60敗6分)
04.14 村田兆治が1073日ぶりの勝利を完投で飾る。〈対西武2回戦〉
04.20 有藤道世がプロ野球18人目の1000打点を達成する。〈対南海1回戦、大阪〉
05.31 荘勝雄がロッテの外国人投手としてはディサ以来22年ぶりとなる完封勝利を挙げ、対近鉄戦の通算500勝目となる。〈対近鉄9回戦〉
06.05 対阪急9回戦でロッテ5本、阪急7本の計12本の二塁打を打ち、34年ぶりのリーグタイ記録となる。
07.07 村田兆治が完投勝利し、1981年と並ぶ開幕11連勝を達成する。〈対南海14回戦〉
07.11 有藤道世がプロ野球20人目の2000本安打を達成する。〈対阪急15回戦、川崎〉
09.18 落合博満が故郷の秋田で3打席連続本塁打を打ち、史上7人目の1シーズン2度の1試合3本塁打を記録する。〈対西武12回戦〉
10.01 落合博満が球団新記録となる44号本塁打を記録する。〈対日本ハム19回戦〉
10.17 有藤道世がプロ野球22人目の2000試合出場を達成する。〈対近鉄26回戦、藤井寺〉
10.21 落合博満が2度目の三冠王を獲得する。
タイトル 最優秀選手: 落合博満、首位打者: 落合博満、本塁打王: 落合博満、打点王: 落合博満、最高出塁率: 落合博満、カムバック賞: 村田兆治

この年はエース村田兆治の復活劇からはじまりました。肘の手術から奇跡のカムバックを遂げ、医師からの投球数制限を大きく越える球数を投げ完投勝利、以後日曜日ごとの当板で「サンデー兆治」の異名をとり、この年17勝をあげる活躍で日本中を感動に巻き込みました。

打撃部門でも落合博満の2度目の3冠王獲得、有藤道世の2000本安打達成などがあり、チーム打率はリーグトップの脅威の'287を記録するほどでした。

1986 監督:稲尾和久 成績:4位(57勝64敗9分)
04.03 パ・リーグのファンサービスとして開幕カードの先発投手を発表することになり、仁科時成を初の開幕先発投手として発表する。
06.14 リーが外国人選手初の250本塁打を達成する。〈対南海11回戦〉
08.23 リーが外国人選手通算最多の1419本安打を記録する。〈対近鉄19回戦〉
08.24 荘勝雄がパ・リーグ新の10連続セーブポイントを記録する。〈対近鉄20回戦〉
10.15 有藤道世が18年間の現役生活からの引退を表明する。
10.19 落合博満が2年連続3度目の三冠王を獲得する。
10.28 有藤道世が監督に就任する。
12.23 中日との1対4のトレードで落合が中日へ、中日からは牛島和彦、上川誠二、桑田茂、平沼定晴の4選手が移籍入団する。
タイトル 最優秀選手: 落合博満、首位打者: 落合博満、本塁打王: 落合博満、打点王: 落合博満、盗塁王: 西村徳文、最高出塁率: 落合博満

落合博満が2年連続3回目の3冠王を獲得するなど、好調の打撃陣に対し、投手陣のコマ不足は深刻になりついにこの年Bクラスに転落してしまいます。ミスターロッテ有藤の引退や、オフの落合博満のトレードなど球団が大きく変わった1年でした。

1987 監督:有藤道世 成績:5位(51勝65敗14分)
05.15 リーが外国人選手初の1500本安打達成する。〈対日本ハム7回戦、平和台〉
08.15 球団創設以来の通算2500勝を達成する。〈対近鉄18回戦、藤井寺〉
09.20 村田兆治が石毛宏典から史上13人目の2000奪三振を奪う。〈対西武22回戦、川崎〉
10.09 牛島和彦が史上4人目の100セーブを達成する。〈対日本ハム24回戦、後楽園〉
10.16 牛島和彦がリーグタイの8連続セーブを挙げる。〈対南海最終戦〉
タイトル 最優秀救援投手: 牛島和彦、盗塁王: 西村徳文

有藤新監督でスタートしたこの年、やはり落合の抜けた打線は迫力に欠け、トレードで獲得した牛島和彦は期待通りの活躍はするものの5位の成績に終わりました。

1988 監督:有藤道世 成績:6位(54勝74敗2分)
10.19 対近鉄25・26回戦のダブルヘッダーで近鉄優勝の胴上げを阻止する。〈川崎〉
12.09 浦和市に建設中だった新球場と新合宿所が完成する。
タイトル 首位打者: 高沢秀昭、盗塁王: 西村徳文

伝説となったダブルヘッダー川崎球場「10.19」での激闘は今でも語り継がれています。首位打者に高沢秀昭、盗塁王に西村徳文が輝きました。

1989 監督:有藤道世 成績:6位(48勝74敗8分)
05.13 村田兆治が3度目の挑戦にして完投で念願の200勝を達成する。〈対日本ハム7回戦、山形〉
10.21 有藤監督が辞任し、12年ぶりに金田正一が監督に復帰する。
タイトル 最優秀防御率: 村田兆治、盗塁王: 西村徳文

村田兆治の200勝達成なるか、登板ごとに大きな話題となりました。球団としては初の2年連続最下位となってしまいました。新外国人マイク・ディアスが明るいキャラクターで人気、また伊良部秀輝が当時日本人最速の球速156キロを記録するなど注目を集めはじめました。

1990年~1994年

オリオンズからマリーンズへ

1990 監督:金田正一・(徳武定之) 成績:5位(57勝71敗2分)
06.23 ボークの判定をめぐって金田監督が激しく抗議し、退場処分を受ける。〈対西武10回戦、西武〉
08.10 金田監督の通算勝利数400勝となる。〈対近鉄15回戦、藤井寺〉
タイトル 盗塁王: 西村徳文

金田監督の12年ぶりとなる復帰で話題のシーズン、ルーキー小宮山悟の活躍や、前年まで4年連続盗塁王の西村徳文が首位打者を獲得などがありました。

1991 監督:金田正一 成績:6位(48勝77敗5分)
01.18 重光武雄オーナーの次男、昭夫が球団社長代行に就任する。
07.17 西村徳文が285個目の盗塁を決めて球団新記録を達成する。〈対日本ハム15回戦、川崎〉
07.31 千葉マリンスタジアムでのパ・リーグ初の公式戦が行われる。〈対西武16回戦〉
重光昭夫社長代行が、球団本拠地の千葉移転を公式に表明する。
09.29 シーズン観客動員数が95万4000人に達し、球団新記録となる。〈対近鉄25回戦、川崎〉
10.17 対ダイエー25回・最終戦、100万人の観客動員を達成。電光掲示板に「ありがとう川崎球場」という文字が出され、川崎球場はロッテの本拠地としての役目を終える。
11.01 千葉ロッテは、千葉移転による新しい球団のニックネームを募集する。
11.13 重光昭夫球団社長代行がオーナー代行に就任。同時に金田監督の解任と前西武投手コーチ八木沢荘六の監督就任を発表する。
11.19 千葉ロッテの新しいニックネームが「マリーンズ」に決定する。
タイトル 首位打者: 平井光親

「テレビじゃ見れない川崎劇場」というキャッチフレーズで、TVCFを展開するなど流行語にすらなったキャンペーンを展開、悲願であった観客動員100万人を達成。

また球団は千葉への本拠地移転を決定、同時にニックネームも「オリオンズ」から公募で決定した「マリーンズ」へ変更が決定。新しい歴史を踏み出しました。

1992 監督:八木沢荘六 成績:6位(54勝74敗2分)
03.30 球団がロッテとなって以来はじめて、オープン戦を首位で終了する。
04.07 牛島和彦が924日ぶりの勝利を涙の完投勝利で飾る。〈対ダイエー1回戦〉
ディアズが千葉マリンスタジアムでのパ・リーグ第1号を打つ。
07.12 愛甲猛の連続全イニング出場パ・リーグ記録は535試合で止まる。〈対日本ハム16回戦、千葉マリン〉
08.22 対日本ハム20回戦、主催試合44試合での観客動員100万人突破は球団の最短記録。

「千葉ロッテマリーンズ」として新たなスタート、ピンク色を基調とした新しいユニフォームで千葉のファンの熱烈な歓迎を受けての前半戦の快進撃は「ピンク旋風」などど呼ばれました。ルーキーの河本育之は左腕からの快速球を武器に19セーブと活躍しました。

1993 監督:八木沢荘六 成績:5位(51勝77敗2分)
01.18 1993年のスローガンが「心・技・体 '93」に決まる。
01.25 22年ぶりにアメリカ・アリゾナ州で海外キャンプを行う。
05.03 伊良部が清原和博との対決で158kmの日本新記録を作る。〈対西武5回戦、西武〉
07.09 佐藤幸彦が1試合4犠打の日本タイ記録を達成する。〈対西武13回戦〉
07.25 南渕時高が14打席連続出塁の日本新記録を達成する。〈対ダイエー16回戦、福岡ドーム〉

伊良部秀輝の快速球に再び注目が集まりはじめたシーズン、新外国人メル・ホールのスピードとパワー溢れるプレーもファンに人気となりました。オフのドラフトでは諸積兼司、小野晋吾、福浦和也など以後チームの中心となって活躍する選手を指名しました。

1994 監督:八木沢荘六・(中西太) 成績:5位(55勝73敗2分)
01.10 1994年のスローガンが「激闘」に決まる。
08.02 八木沢監督が休養し、中西ヘッドコーチが代理監督に就任する。
08.26 西村徳文が通算350盗塁を達成する。〈対ダイエー19回戦、千葉マリン〉
11.01 広岡達朗のゼネラル・マネージャー就任とボビー・バレンタインの監督就任を発表する。
タイトル 最多勝利投手: 伊良部秀輝、最多奪三振: 伊良部秀輝

伊良部秀輝がいよいよエースとしての本領発揮で投手2冠に輝くものの、チームは5位、オフには大改革が行われ、GM制が導入されることになりました。またドラフトでは前年に続き黒木知宏、サブローなどチームを背負う選手の入団が決まりました。

1995年~1999年

マリーンズ激動の時代・・・

1995 監督:ボビー・バレンタイン 成績:2位(69勝58敗3分)
03.17 重光昭夫取締役オーナー代行が代表取締役に就任する。
07.24 福岡ドームで阪神大震災復興チャリティー・ドリームゲームが行われる。
08.19 1983年のリーグ1シーズン制導入以来、最速の50勝到達。〈対日本ハム20回戦〉
10.06 パ・リーグの全日程が終了し、10年ぶりのAクラス第2位となる。
10.17 バレンタイン監督の解任と江尻亮ヘッドコーチの新監督就任を発表する。
タイトル 最優秀防御率投手: 伊良部秀輝、最多奪三振: 伊良部秀輝、打点王: 初芝清

広岡達郎GMのもと、バレンタイン監督を招きユニフォームも一新されたシーズン、整備されてきた投手陣、新外国人投手エリック・ヒルマンや打者フリオ・フランコらとともにバレンタイン監督の下チーム一丸となって戦って2位の成績を残し、印象の深いシーズンとなりました。


1996 監督:江尻亮・(江藤省三) 成績:5位(60勝67敗3分)
01.10 1996年のスローガンが「ONE AT A TIME」(一つ一つを大切に)に決まる。
03.30 14年ぶりの本拠地開幕戦を勝利で飾る。〈対ダイエー1回戦〉
08.23 江尻監督が精密検査のため緊急入院し、江藤省三ヘッドコーチが監督代行を務める。
08.30 球団創設以来の通算3000勝を達成する。〈対西武21回戦、西武〉
08.31 対西武22回戦に勝利し、12年ぶりの対西武戦勝ち越しを決める。〈西武〉
09.18 イースタンリーグで1970年以来26年ぶり5回目の優勝が決まる。
10.09 広岡ゼネラル・マネージャーが辞任する。
10.10 江尻監督の辞任を発表する。
10.14 金親良吉球団社長と近藤昭仁新監督の就任を発表する。
タイトル 最優秀防御率投手: 伊良部秀輝、最優秀救援投手: 成本年秀

広岡達郎GM体制2年目として、前年度の好成績から優勝の期待がかかったが、新たに獲得した新外国人打者の極端な不振などもあり思うような成績が残せず、結果的に広岡達郎GMの辞任という結果を招いてしまいました。

また、熱心なマリーンズファンの応援が注目を集めるようになったのもこの頃からのことです。

1997 監督:近藤昭仁 成績:6位(57勝76敗2分)
01.13 重光オーナー代行が、サンディエゴ・パドレスのラリー・ルキアーノ社長と業務提携を発表する。
04.05 小宮山悟が無四球完封で開幕戦勝利を飾る。(1989年、村田兆治以来の球団史上2人目)〈対日本ハム1回戦、東京ドーム〉
05.22 河本育之が11連続セーブポイントの球団新記録を樹立する。〈対近鉄8回戦、千葉マリン〉
07.06 試合前に球場企画によるグラウンドでの結婚式を実施する。〈対オリックス15回戦、千葉マリン〉
07.20 球界で初めて日曜日だけの特別な帽子「サンデーキャップ」でプレイする。〈対ダイエー18回戦、千葉マリン〉
09.11 小坂誠がプロ野球新人盗塁新記録の46盗塁目を達成する。〈対オリックス21回戦、グリーンスタジアム神戸〉
10.12 新人で全試合出場の小坂誠が球団新の56盗塁を達成する。〈対ダイエー最終戦〉
タイトル 新人王: 小坂誠、最優秀防御率投手: 小宮山悟

近藤昭仁新監督が就任。伊良部秀樹のメジャー移籍、エリック・ヒルマンの移籍などがあり、先発投手陣が苦しい展開の中、ストッパーの成本年秀をも故障で欠く厳しいシーズンとなりました。そんな中でルーキー小坂誠の新人王獲得は明るいニュースとなりました。

1998 監督:近藤昭仁 成績:6位(61勝71敗3分)
01.08 ロッテ浦和球場近くに、ハイテク管理の球団寮が完成する。
01.12 1998年のスローガンが「PLAY HARD '98」に決定する。
07.04 対ダイエー11回戦に敗れ、15連敗。20年ぶりのリーグタイ記録となる。〈千葉マリン〉
07.05 対ダイエー12回戦に敗れ、16連敗でプロ野球記録に並ぶ。〈千葉マリン〉
07.07 対オリックス13回戦、黒木知宏の力投もむなしくプロ野球記録の17連敗。〈グリーンスタジアム神戸〉
07.09 対オリックス15回戦、小宮山悟の意地の完投勝利で18連敗から脱出。〈グリーンスタジアム神戸〉
10.08 近藤監督の退団を発表する。
10.13 新監督に山本功児2軍監督の昇格を発表する。
タイトル 盗塁王: 小坂誠、最多勝利投手: 黒木知宏、最優秀防御率投手:黒木知宏
悪夢の18連敗を喫したシーズン。18連敗がありながら借金10の成績に踏みとどまるも順位は2年連続最下位となってしまいました。連敗中のマリーンズファンの応援とエース黒木知宏の奮闘ぶりは多くの人の感動をよびました。
1999 監督:山本功児 成績:4位(63勝70敗2分)
01.20 1999年のスローガンが「FOR THE TEAM」に決定する。
03.25 株主総会で金親良吉球団社長の退任を決定する。
04.07 チーム新記録となる1イニング11得点を記録。〈対ダイエー2回戦、北九州〉
タイトル 最優秀救援投手:ウォーレン
長らくマリーンズでコーチ、2軍監督などを務めた山本功児監督の就任により、ファームで成長を遂げた選手の活躍が目立つようになりチームが活性化したシーズンでした。

2000年~2004年

チーム強化とバレンタイン監督の再招聘

2000 監督:山本功児 成績:5位(62勝67敗6分)
01.24 2000年のスローガンを「FOR THE TEAM 2000」に決定する。
07.02 対オリックス14回戦、3番手の小林雅英がプロ野球史上初の打者0人で勝利投手となる。〈函館〉
タイトル 最優秀勝率投手: 小野晋吾、最多ホールド: 藤田宗一、盗塁王: 小坂誠
前年入団の小林雅英、里崎智也らに加え、清水直行もこの年に入団、小野晋吾、藤田宗一のタイトル獲得など陣容が徐々に整ってきたシーズン。巨人から移籍の石井浩郎が勝負強い打撃とキャラクターで人気となりました。
2001 監督:山本功児 成績:5位(64勝74敗2分)
01.24 2001年のスローガンを「FOR THE TEAM STRIVE FOR THE VICTORY」(勝利のために努力、奮闘する)に決定する。
03.18 本拠地を千葉に移し「マリーンズ」に名称変更し10周年を迎えた記念にロゴマークを発表。
04.20 ボーリックがプロ野球史上75000号のメモリアルアーチを打つ。〈対近鉄4回戦、千葉マリン〉
05.11 プロ野球タイとなる1試合4犠飛を記録する。〈対近鉄7回戦、大阪ドーム〉
06.20 小林雅英がパ・リーグ新記録となる11試合連続セーブを達成する。〈対オリックス13回戦、グリーンスタジアム神戸〉
09.04 小林雅英が球団新の31セーブを記録する。〈対ダイエー26回戦、福岡ドーム〉
タイトル 首位打者: 福浦和也、最優秀防御率投手: ミンチー
7月にここまで11勝をあげていたエース黒木知宏が肩痛で離脱、3年目の山本マリーンズにはあまりにも痛い以降エース不在の状況となるってしまいました。小林雅英がいよいよ抑え投手としての本領発揮、福浦和也も首位打者を獲得しました。
2002 監督:山本功児 成績:4位(67勝72敗1分)
01.22 2002年のスローガンを山本監督の就任1年目と同じ「FOR THE TEAM」に決定。
05.03 喜多隆志がパ・リーグ新人史上初の2試合連続サヨナラ打を打つ。〈対西武5回戦、千葉マリン〉
07.21 小林雅英がパ・リーグ新の13試合連続セーブを記録する。〈対日本ハム14回戦、東京ドーム〉
09.03 小林雅英がプロ野球新記録の23試合連続セーブポイントを達成する。〈対近鉄22回戦、大阪ドーム〉
タイトル 首位打者: 福浦和也、最優秀防御率投手: ミンチー
エース黒木不在の穴を3年目の清水直行が14勝をあげる活躍をはじめ、投手陣の踏ん張りで4位の成績も負け越し5つで終了。また、この年のオフ、マリーンズファンに対しては極めて異例の表彰となる「毎日スポーツ文化人賞」が贈られました。
2003 監督:山本功児 成績:4位(68勝69敗3分)
01.06 2003年のスローガンが「AMBITION FOR VICTORY」(勝利への執念)に決定。
05.17 小林雅英がセーブ球団記録を更新する。〈対近鉄8回戦、大阪ドーム〉
06.29 小林雅英が日本人最速の222試合で100セーブを達成する。〈対オリックス16回戦、千葉マリン〉
08.27 山本監督通算300勝を挙げる。〈対近鉄23回戦、千葉マリン〉
09.29 山本監督の任期満了での退任を発表する。
10.03 対近鉄最終戦、チーム近鉄戦通算700勝に到達。〈千葉マリン〉
10.10 福浦和也がシーズン最多二塁打のプロ野球新記録を達成する。〈対日本ハム27回戦、千葉マリン〉
11.03 ボビー・バレンタイン新監督の就任を正式に発表する。
5年目の山本功児監督率いる最後のシーズン、5割まであと1つの成績で終了。ライトスタンドには26番のビックフラックが掲げられました。オフにはバレンタイン監督の復帰の発表、韓国の国民的打者であるイ・スンヨプの入団も発表され期待が高まりました。
2004 監督:ボビー・バレンタイン 成績:4位(65勝65敗3分)
01.26 2004年のスローガンが「This year is beginning of the future.」(今年から未来が始まる)に決定。
01.21 ロッテグループ・濱本副社長の球団社長兼任を発表。
03.22 川北球団社長の退任に伴い瀬戸山代表の就任を発表。
06.25 アテネ五輪、野球日本代表に清水(直)、小林(雅)選出。
09.14 諸積通算1000試合出場達成。
09.17 対オリックス戦、渡辺(俊)が12勝目、小林(雅)が19セーブ目をあげる。再び3位を奪う。労組・選手会が18日、19日にスト決行を決める。プロ野球史上初。
09.21 対西武戦、清水(直)が3年連続の二桁勝利の10勝目をあげ、小林(雅)が20セーブで締める。18日、19日に労組・選手会のスト決行で試合中止のため今季最終戦となり、この日でレギュラーシーズン終了。
09.27 全日程終了。日本ハムと最後までプレイオフ出場を争ったが、勝率.500で4位が確定。プレイオフ出場を逃す。

バレンタイン監督の下、チーム一丸となりこの年から採用されたプレーオフ出場にあと一歩まで迫ったシーズンでした。プロ野球全体では球界再編成が問題化し、近鉄球団とオリックス球団の合併、パリーグに新球団東北楽天の誕生などがありました。

また、アテネ五輪に清水直行、小林雅英の両投手が参加し、日本の銅メダル獲得に貢献しました。またフロントも瀬戸山前ホークス代表の就任以降改革に着手、様々な試みが開始されました。

2005年

地域、ファンと一体となり新しいチームの歴史を刻む

2005 監督:ボビー・バレンタイン 成績:優勝(84勝49敗3分)
01.26 今期のスローガンを「BUILDING OUR DREAM! ~夢をみんなで~」に決定。
02.22 10年ぶりに3種類のユニホームを採用。試合当日の先発投手が選択して着用するプランを発表。
03.27 楽天との開幕第2戦で球団新記録の26得点を挙げ大勝。
07.08 オールスターゲームで球団史上最高の10名が選出。
09.17 久保が3度目の完封で10勝目。球団史上55年ぶりの新人での2ケタ勝利。
09.19 34年ぶりに年間80勝到達。
09.25 小野が10勝目。今期球団6人目の2ケタ勝利は42年ぶりのプロ野球タイ記録。
10.08 ファーム日本選手権で阪神に勝利し、初優勝を飾る。
10.17 プレーオフ第2ステージ第5戦でソフトバンクに勝利。31年ぶりのリーグ優勝を果たす。
10.26 日本シリーズで阪神に4連勝。31年ぶりの日本一。
11.20 千葉市中心部と幕張新都心の2ヶ所で優勝パレード
タイトル 新人王: 久保康友、盗塁王: 西岡剛、最多セーブ投手: 小林雅英

この年から始まったセパ交流戦の優勝を皮切りに、ファームも優勝そして日本一へ、プレーオフを制し31年ぶりのリーグ優勝を果たすと4連勝で日本一、そしてアジアシリーズ初代王者にもなり合計6冠を獲得する偉業を達成、すばらしいシーズンとなりました。

アジアシリーズ決勝戦では東京ドームがマリーンズファンで白く埋め尽くされ勝利の歓喜に沸き、千葉市内2箇所で行われた優勝パレードでは幕張新都心に紙吹雪が舞い、ファン、地域、チームが一体となって勝ち取った優勝に感動の輪が広がりました。

ハートフォード生命保険株式会社
JR東海

帝京大学

ASAHI
ニッコリア