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第三十回 卓球ニッポンを支えた名選手・荻村伊知朗






(文) スポーツジャーナリスト・白髭隆幸
協力:SPORTS 21
 
5月、クロアチアのザグレブで世界卓球選手権が開催されました。卓球の世界選手権は、最近は個人戦と団体戦が隔年で開催されており、今回は個人戦の開催年でした。その模様を伝えたテレビ局が番組の頭で、「古の栄華は幻か…。さにあらず。新世代の救世主(メシア)降臨せり。日の丸に 新たなる希望が宿り、いま王国の逆襲がはじまる」と、高らかに宣言していました。


しかし、期待の日本選手は男子ダブルス一組が準々決勝に進出したのに留まり、福原愛も石川佳純も3回戦までに姿を消し、結局は卓球王国・中国の上位独占ということになりました。ただし、「古の栄華は」という一説に嘘はありません。かつて日本は、1950年代から70年代にかけ世界の卓球界のトップに君臨していた時代があったのです。

1952年、インドのボンベイで史上初めて世界選手権がアジアで開催され、男子シングルスで佐藤博治が、男子ダブルスで藤井則和・林忠明が、そして女子団体(当時は団体戦、個人戦が同時開催)と女子ダブルスで楢原静・西村登美江が優勝。7種目中4種目を制覇し「卓球ニッポン」の礎を築きあげました。翌1953年のルーマニアのブカレストで開かれた世界選手権には、外務省の許可がおりず不参加になりましたが、1954年大会のロンドン大会では男子団体と男子シングルスで荻村伊知朗、そして女子団体で優勝。卓球王国の地位を確固たるものとします。以後、日本選手は1979年の平壌(北朝鮮)大会まで、金メダルを絶やすことなく取り続けます。その中でも、とくに活躍したのが荻村伊知朗でした。

団塊の世代とっては卓球は身近なスポーツ。卓球台とラケット、ボールさえあれば誰でもできる気軽なスポーツ。どちらかといえば「ピンポン」と呼んだほうが、ふさわしいかもしれません。その時代のスパースターが「ミスター卓球」荻村伊知朗でした。荻村は世界選手権最多の12のタイトルホルダー。ヨーロッパ選手のシェークハンド、カット戦法全盛時に、革命的異変を起こしたのが日本のペンホルダーグリップによるスマッシュ攻撃でした。1952年ボンベイ大会で初出場を果たした日本は、スポンジラバーという反発力の強い新兵器を使って、ヨーロッパのカットを打ち抜き、男子シングルスで佐藤選手が優勝。

その後を継いだのが荻村で、厚さ7mmという当時では驚異のスポンジラバーを駆使して卓球の本場ロンドンで世界チャンピオンになり、世界を席巻しました。荻村は、1955年ユトレヒト(オランダ)大会で男子団体に優勝。1956年東京大会では団体、シングルス、ダブルス(富田芳雄とのペア)、1957年ストックホルム(スウェーデン)大会で団体と混合ダブルス(江口富士枝とのペア)、1959年ドルトムント(西ドイツ)大会で団体、ダブルス(村上輝夫とのペア)、混合ダブルス(江口富士枝とのペア)。1961年の北京(中国)大会で混合ダブルス(松崎キミ代とのペア)で優勝しています。

当時の日本の強さは、コースをつくロングサーブ、フットワークを使ったフォアロング、そして相手ボールが高く浮いたところを叩き込むスマッシュ、という3つの要素から成り立っていました。スポンジラバーは、反発力が強いため、ショート、ツッツキなどの小技防御に難しい技術が必要であり、スポンジと1枚ラバーを張り合わせたソフトラバーの使用で、より安定した戦法が確立されました。荻村のライバルとして同時代に2度世界チャンピオンになっている田中利明は裏ソフトラバーで王座につきました。

日本式ペンホルダーの出現は、卓球技術の大きな変革でした。選手は、体力、精神力を含めた強靭な心身を要求され、若さが大きな原動力となっていきました。荻野の後継者として木村興治、長谷川信彦、伊藤繁雄、河野満、小野誠治らが出現。卓球ニッポンは確実に継承されていきました。その後、「打倒ニッポン」を目標に台頭してきたのが中国でした。そして圧倒的な選手層と育成システムを確立した中国は、男女ともに日本にかわって世界を席巻していきます。

荻村伊知朗は現役引退後、卓球の普及、発展に力を注ぎ、ついには国際卓球連盟会長にまで登り詰めました。会長時代の実績は枚挙に暇がありませんが、中でも南北朝鮮の統一チーム結成に尽力し、不可能といわれていた冷戦時代に実現したのは見事でした。荻村は、世界選手権など世界中の要人が集まる機会に、貴賓席にはじっとしておらず、観客席の中にVIPがいるのを見つけると、自分からどんどんその席に赴き、ネゴシエイトしていました。日本人には珍しいタイプの国際派の一面も持っていました。

国際オリンピック委員会にも独自のネットワークを持っており、当時のIOC会長のファン・アントニオ・サマランチ氏も、荻村にたいして一目おいていたようです。1988年のソウル大会から卓球はオリンピックの正式競技になりますが、これも荻村に負うところが大きかったといわれています。また1998年の冬季オリンピックを長野に誘致したときも、荻村の力が大きかったともいわれいわれています。外国のスポーツ関係者からは「ミスターテーブルテニス」と称されたのも当然でした。

そんな荻村が、人生最後に力を入れていたのが、2008年夏季オリンピックの大阪招致でした。「スポーツパラダイス」を提唱し、1994年5月には大阪市議会の演壇に立ち、「政治やイデオロギーでオリンピックを招致する時代は終わりました。スポーツをするのにふさわしい環境を大阪が準備し、世界に提示することを考えた方がいいでしょう」と演説、「荻村メモ」とでも呼ぶべき文書を招致委員会のメンバーに託しました。「大阪」を「東京」に代えれば、そのまま現在でも活かせそうな話です。

すでに病魔に襲われていた荻村は、その3か月後、62歳の生涯を終えています。あまりにも若すぎる死、日本スポーツ界にとっては大きな損失でした。多方面で活躍した荻村伊知朗ですが、やはり卓球ニッポンの再生が一番大きな望みであったと思います。今回の世界選手権では惨敗に終わりましたが、来年の広州の世界選手権(団体)、北京オリンピック、そして再来年の横浜の世界選手
権(個人)で、卓球ニッポンが復活されることを祈りたいものです。





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