風船爆弾 東へ 2007夏〜関東5紙共同企画
2. 下仁田こんにゃく
高性能な接着素材 当時は「誇り」
実際にこんにゃく粉をぬるま湯で溶き、コンニャク糊を作ってくれた荻野重雄会長=下仁田町内の荻野商店

 群馬県下仁田町は高崎を起点とする上信電鉄の終点に当たり、風光明美な渓流沿いに位置する。明治以降、こんにゃくの一大産地として栄えてきた。同県内のコンニャクイモの収穫量は、全国シェアの約九割。同町は特に伝統あるこんにゃく産地として、その名を知られている。

 「下仁田のこんにゃくが、本当に空を飛んだのか―」。同町の農業、市川春司さん(74)はその事実を終戦後に知った時、強い驚きを覚えたという。風船爆弾の存在は当時の軍事機密。多くの町民が、こんにゃくが爆弾の一部となって敵国を攻撃するとは知らずにいた。市川さんの驚きは、穏やかな町に暮らす人々にとっても偽らざる心情だったに違いない。

 こんにゃくは気球の球皮となる和紙を張り合わせる糊(のり)として使われた。この糊は軽い上に気密性が高く、粘度が強い。飛んできた風船爆弾を分析した米軍は、使用された接着剤の正体を最後まで突き止めることができなかったという。

 その製造に不可欠な素材だっただけに、下仁田のこんにゃくは軍納を命じられ、全国各地の気球製造工場へと送られた。町内の荻野商店の荻野重雄会長(87)は「当時はこんにゃくを徹底的に供出させられた」と振り返る。食糧難に苦しみながらも、町民は必死にこんにゃくを栽培し、製粉した。その一方で、こんにゃくは全国の食卓から姿を消していった。

 下仁田駅前の食堂「鍋屋」を営む広瀬平吉さん(93)は、中国で終戦を迎えた。風船爆弾とこんにゃくとの関係を知った時の気持ちを「こんにゃくとは何とありがたいものかと思った。誇らしかったですよ」と語る。戦時中の一時期とはいえ、郷土の特産物が珍重され、高度な性能をたたえられたことに胸を張る。

 誰もが命の不安にさらされながら、夢中で生きていた時代。下仁田の人々が懸命に作ったこんにゃくは、風船爆弾の一部となって米国本土に被害を与えた。

 「当時は敵国への哀れみなんて思いもしなかった。私たちの世代は、長い時間かかってようやくまっとうな考えができるようになったんだから」。広瀬さんはそうつぶやいた。

 こんにゃくと風船爆弾―。両者の間にある埋め難い距離が、現代に生きる私たちに戦争の悲惨さを語り掛けている。

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 【コンニャク糊】こんにゃく粉にぬるま湯を加えて練ると糊状になる。これがコンニャク糊で、風船爆弾1個に約90キロの粉が必要とされた。当時、地元の製粉業者は軍部から、採算を度外視しても良質な粉を作るよう求められていたという。

(2007年8月10日掲載)

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