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甦る「原爆十景」
2007/04/30
消えた「原爆十景」追う
ドームは選ばず 1947年選定

 写真は、被爆から二年後の一九四七年の広島市中心街、後に平和記念公園となる一帯である。この年、今に続く平和記念式典の始まりである第一回平和祭が原爆ドーム対岸の中島地区で行われ、「原爆十景」と名付けた原爆記念物が選ばれた。復興の息吹とともに被爆の実態を残す営みが起きた。

 「原爆十景」は、「被害の特殊性を保存し、観光客誘致の一助とする」とうたった。ところが、今は世界遺産でもある原爆ドームは入っていない。なぜなのか。本日付の「ヒロシマの記録」は、被爆建造物保存と継承の出発点であり、消えた「十景」を掘り起こし、知られざる史実を追う。(編集委員・西本雅実)

爆心地の北西260メートル、旧広島商工会議所屋上から見た原爆ドームとその一帯。地元の「瀬戸内海文庫」の依頼で、東京の写真家菊池俊吉さん(1990年死去)が47年8月下旬撮影

破壊の特異性に着目 

 被爆の実態を残そうとの営みは廃虚からの復興の中で起こった。それを表すのが1947年に広島市が選定した「原爆十景」。今日から見れば、原爆ドームが選ばれず「奇妙」な遺物も入っている。だが、原爆の悲惨さを身をもって体験した市民の思いが投影されていた。また、市の復興顧問だったオーストラリア人が保存を促していた。今は消えた「原爆十景」を甦(よみがえ)らせ、忘れられた史実を解き明かす。(編集委員・西本雅実)

復興の中で被爆保存

一、元安橋の欄干南北に開いた灯籠(とうろう) 爆心地から南西130メートルの元安橋は欄干は元安川に落ち、点灯装置が納められていた中柱の笠石は残ったが爆風の方向にずれ、熱線で表面ははく離した。右端は路面電車が走る鯉城通りに面した広島富国会館、斜め左手前は大手町の筋にあった銀行集会所。中柱は92年に掛け替えられた橋に利用されている=被爆時は県警察部写真班員だった川本俊雄氏(1968年死去)が46年撮影
 「十景」を、四七年八月十一日付の中国新聞は「語り傅(つた)う原爆十景=vとの三段見出し記事で報じている。「広島市では原子爆弾による被害の特殊性、興味ある営造物を保存してその威力を後世に残し、あわせて観光客誘致の一助とする」  個条書きで列挙された十カ所のうちには、「五、市役所三階の布片」と首をかしげる物や、「九、三篠の竹藪(やぶ)」と市民も探しにくい場所も選ばれている。当時の朝刊は用紙の割り当て不足から二ページ。記事は大きくても「十景」の写真紹介はない。

 復興への都市計画街路や土地区画整理などの事業計画が描かれる中で、被爆の痕跡を後世に残そうと発案したのはだれなのか。被爆時に市助役だった柴田重暉氏が五五年に著した「原爆の実相」で、「(復興)局長附を勤めていたさきの小野君が、探し出して並べたもの」と言及していた。

 その小野勝氏は、新聞記者などを経て被爆後に市復興局へ入った。十三年前に八十九歳で亡くなっていたが、喜寿の年にこう記していた。

 「長島(初代復興局長の長島敏)局長と私は焼け跡を視(み)て廻(まわ)る途中でいろいろ奇妙な現象を発見した。(昭和)二十二年の平和祭(一九四七年に始まった現在の平和記念式典)の後で市政記者から何かネタはないかときかれ、『原爆十景』の話をしたら…」。それが話題を呼んだ。

 「十景」から浮かび上がる特徴を、広島の被爆建物に詳しい都市計画プランナーの山下和也さん(49)は、こう読み取る。

 「御幸橋や三篠の竹藪と全焼全壊の縁辺部も取り上げているのは、原爆のすさまじさを伝えたいとの意識の表れ。街全体が廃虚だったので、破壊の特異性と細部に着目したのだと思う」

 顧みれば「十景」は、五〇年代に入りその名が定着する「原爆ドーム」(旧県産業奨励館)を盛り込んでいない。そこに、「図説戦後広島市史」を編さんした市職員OBの松林俊一さん(63)は、当時の生々しい市民感情をみる。

 「惨事を思い出させるドームは取り壊した方がいいとの声があった。市民を傷つけるものは選ばれていない」として、「復興という都市建設と歴史保存を一緒に見据えた発想はすごい」と今日の再開発事業に必要な視点を重ねた。

 「十景」は翌四八年に「原爆名所」と呼び名を変え、ドームや、現在は原爆資料館で展示されている旧住友銀行広島支店の入り口に熱線で焼き付けられた「人影の石」などが加わる一方、市役所関係は外され、十三カ所となる。

 「原爆名所」の洗い直しと保存には、英連邦軍として広島に進駐し市復興顧問を務めたオーストラリア人の存在があった。

 「原爆記念物の保存運動 ジヤビー少佐が提唱」(四八年七月八日付中国新聞)と、少佐は観光事業の強化にもなる保存を市に求めた。復興の礎となった「平和記念都市建設法」が公布された四九年の市勢要覧は、広島観光について「爆心地、産業奨励館」などを「原爆記念保存物」として初めて位置づけている。

 建築技師だった少佐は市の戦災復興計画も示した。その内容を研究した広島国際大の石丸紀興教授によると、復興顧問は四七年九月から四九年五月まで務めた。「ジヤビーは西欧的な見方から保存はアピール性があるものをと考えたはず。ドームを軸に平和記念公園を設計する丹下健三とも面識があった」という。

 九六年に世界遺産となった原爆ドームをはじめ被爆建物の保存には、「十景」にさかのぼる先人たちの発想が息づく。復興を進める中でほとんどが消えたが、中国新聞社の資料保管庫で選定時に撮られた写真の一部が眠っていた。別会社で発刊していた「夕刊ひろしま新聞」のスタンプが写真の裏に押してあった。それで今回、六十年ぶりの全容紹介が可能となった。

 今回の掲載写真は、撮影者の遺族から使用の同意を得ているオリジナルプリントから撮影日や場所を取材で確かめ、紹介する。「夕刊ひろしま新聞」は46年6月に創刊され、50年4月に本紙夕刊として再スタート。写真説明の白抜き部分は47年8月11日付中国新聞記事から。
二、護国神社鳥居上の額 広島護国神社の鳥居は、南の爆心地側の額は残ったが、北側の額は吹き飛ばされた。神社は広島市民球場の建設に伴い56年に広島城跡へ移転し、鳥居と額は城の東側に当たる裏御門で現存している=旧文部省の原爆災害調査団の記録映画班に同行した林重男氏(2002年死去)が45年10月5日撮影
三、山陽記念館屋根瓦 「日本外史」を残した郷土出身の頼山陽を顕彰して35年に建てられた記念館は内部は焼けたが、西側に隣接した日本銀行広島支店の陰となったため瓦が特異な形状で残った。記念館は49年に改装された=夕刊ひろしま新聞社が47年8月撮影
四、国泰寺の煉瓦をはさんだ墓石 国泰寺は爆心地から南東450メートルにあり、爆風で飛び込んできた赤煉瓦(れんが)が墓石と台石の間にはさまって傾いたまま残り、「爆風の奇跡」とされた。後ろに見える建物は袋町国民学校。煉瓦は「十景」の選定後に盗まれ、別のかけらがコンクリートを付けて置かれた=川本俊雄氏が45年末に撮影
五、市役所三階の布片 爆心地から南東1キロにあり、鉄筋4階の庁舎も火炎に襲われた。職員が消火に当たり、南棟の中央階段3階から4階に上がるガラス窓の上部あった防空暗幕は焼け残ったという=夕刊ひろしま新聞社が47年8月撮影
六、市役所煙突の亀裂 現在の国道2号に面した南側の3階建て庁舎に添って立つ高さ45メートル、周囲4メートルの煙突は爆風でひび割れた。被爆10年に撮られた全景写真でも煙突は写るが、61年からの大規模改修で取り除かれたとみられる。被爆庁舎は85年に新庁舎となり、地下室の一部を保存=夕刊ひろしま新聞社が47年8月撮影
七、瓦斯会社ガスタンクの陰影 広島瓦斯工場のガスホルダーは爆心地から2キロ離れていたが、熱線で表面のコールタールが溶け、階段の影が残った。原爆の威力の調査に入った米戦略爆撃調査団も写真に撮っている=写真館経営者で中国配電(中国電力)の求めで施設被害を記録した岸本吉太さん(1989年死去)が45年11月撮影
八、御幸橋の倒れた欄干 京橋川に架かる爆心地2.2キロの御幸橋の欄干は、北側(左)は歩道に倒れ、南側は川に転落した。51年に撮られた橋の写真でも欄干は倒れたまま残っていた。橋西詰めに現在、親柱と欄干の一部が保存されている=夕刊ひろしま新聞社が47年8月撮影
九、三篠の竹藪 47年8月11日付の記事は「半分がピカで焼けたゞ(だ)れている」と選ばれた理由を説明している。三篠本町(西区)にあった竹藪は爆心地に向かった南側の表面が熱線で変色しているのが分かる=中国新聞社が51年5月16日撮影
十、住吉神社の欄干 爆心地1.4キロの住吉神社前に架かっていた住吉橋の親柱は、爆風で四方に傾き、本川に架かる橋は被爆翌月の枕崎台風で流された。写真奥に見えるのは仮設の木橋、さらに奥は江波山=夕刊ひろしま新聞社が47年8月撮影