社団法人 映像文化製作者連盟
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長期連載企画
 ショートフィルム再考−映画館の外の映像メディア史から X(承前)
吉原順平

2 「PR映画」の発展と大衆化の試み


映画館とフィルムライブラリー――2つの「佐久間ダム」

 電源開発会社の委託で岩波映画が製作した佐久間ダムの建設記録は、次の4作である。

 『佐久間ダム第1部』(1954)。着工からバイパストンネル完成、仮締め切りによる流路変更までを描く。第9回毎日映画コンクールで教育文化映画賞を獲得、映画館で上映された。推定観客数300万とされる。多くの人に記憶されている『佐久間ダム』である。
 『佐久間ダム第2部』(1955)。ダムサイトの掘削、工事用道路やコンクリート製造供給施設の建設、国鉄飯田線の付け替え工事等、ダム本体工事の準備段階を描く。推定観客数250万程度とされる。
 『佐久間ダム第3部』(1957)。ダム本体工事と発電所工区工事、完成まで。推定観客数は大きく減って30万程度とされる。
 『佐久間ダム総集編』(1958)。第1〜3部の原版ネガを解体して再編集し、建設の一部始終を纏めたもの。映画館向けではなく、技術記録、教育利用、企業PRとして利用された。現在、原版として残されているのは、この版である。[吉原前掲書再録]

 この間の岩波映画の急拡大をたどれば、序曲としての『天竜川』が製作された1952(昭和27)年に15だった年間製作本数は、『佐久間ダム第3部』完成の翌年1958(昭和33)年には映画33、テレビ番組42、受註総額3億5000万円に達し、業界有数の大プロダクションに成長した。(42のテレビ番組は、前年に日本テレビで放送開始された八幡製鉄提供の『楽しい科学』シリーズ。科学映画及びテレビ番組の項で後述する予定。)[草壁前掲書他]


 一方、ダム工区担当の間組から受註した英映画社は、白黒の2作を完成させた。『佐久間ダム建設記録第1部』(1954)、『佐久間ダム建設記録第2部』(1956)である。

 白黒で製作された英映画社の「佐久間」は確かにローコストであったし、映画館での評判を得るインパクトに欠けていたが、別のメリットを持っていた。多くの評者に「岩波は技術の佐久間、英は人間の佐久間」と言われたように、岩波作品が豪華にして雄渾な建設記録であったのに対して、英作品は人間への視線を重視して建設に携わる人、沈む村から去る人などの姿を仔細に記録し、大プロジェクトの社会的全体像を親しみ易く描いた。そのようなきめの細かい撮影を可能にした要因には、白黒であることも作用したであろう。
 更に、16ミリプリントによる学校教育、社会教育の場での活用では、英映画社の作品が広く使われることとなった。岩波の総集編の90分という長さとカラープリントの高い価格は、使う側にとっては勝手が悪かった。これに対して白黒の英作品は低価格で多くのフィルムライブラリーが購入可能であり、各40分の前後編に要領よく纏めたテーマ配分も使う側に好評であった。


「くろよん」の達成とその限界――映画館を目指す流れ

 佐久間を皮切りに多くのダム建設映画が作られていく。鉄鋼、造船などの記録映画も増えていった。佐久間ダムの成功は、産業映画でも映画館で上映され成功を収められるという期待を、発注者や製作者に与えるようになった。折からシネマスコープなどワイド画面の登場もあって、35ミリ、カラーワイドという高規格の大作も珍しくなくなっていった。岩波映画でいえば、川崎製鉄企画の『新しい製鉄所』(1959)や三菱造船企画の『巨船ネスサブリン』(1961)が代表例であろう。こうした試みは、映画館での上映の機会がないときは過剰投資に終ってしまう。


 ダム建設映画に戻れば、大ダムといっても地形などの状況に応じていろいろな形式が選択される。佐久間ダムは、重いコンクリートのダムの自重で水圧を支える重力ダムであった。同じ電源開発が手がけた庄川水系の御母衣ダムは、軟弱地盤に高い堰堤を築造する必要から、土と石を積み上げるロックフィルダムとなった。関西電力が手がけた黒部川水系最上流の黒部第四いわゆる「くろよん」の場合は、軽量で強度の高いアーチ状のコンクリート構造を急峻な左右の岩壁で支えるアーチダムである。

 御母衣ダムの建設工事は、間組の委託で英映画社が記録した。『御母衣ロックフィルダム第1部』(1960)等である。

 黒部川第四水力発電所、通称「くろよん」の建設工事は、関西電力の委託で日本映画新社による四部作として記録された。
 『黒部峡谷−黒部川第四水力発電所建設記録第1部』(1957)は、ダムサイトの原状を「秘境」として紹介し、プロジェクトの課題を明らかにする。
 『地底の凱歌−黒部川第四水力発電所建設記録第2部』(1958)は、主要設備がすべて地下化され、峻険な秘境の工事で輸送路として長大なトンネルを用意しなければならないプロジェクトの特長を、困難な地下工事を中心に描く。
 『大いなる黒部−黒部川第四水力発電所建設記録第3部』(1961)は、それらを踏まえて発電一部開始までを描く。第3部からシネマスコープとなったのは、やはり映画館での成功を意識してのことであろう。
『くろよん−黒部川第四発電所建設記録』(1963)は、着工から完全竣工までをまとめた総集編である。

 多くのダム映画が次々に生まれるなかで、工事記録映画の企画、演出の方法にもさまざまな工夫が凝らされ、映像作品として洗練されたものとなっていった。たとえば日映新社の黒部四部作を佐久間ダムと比べれば、視点を絞ったコンセプトの形成やドラマティックな構成法において明らかな進歩がみられる。それは、カラーフィルムを駆使して大規模建設工事の現場を撮影することそれ自体が大きな挑戦であった段階から、ドラマティックなノンフィクションとしての表現を選択し追求するという段階への進歩であった。

 しかし、そうした多くの表現上の達成にもかかわらず、大規模工事が珍しくなくなるにつれて、建設工事という産業的な主題に映画館の観客の心を惹きつけるのは難しくなる。佐久間に感動した観客は、黒部にはより迫力のある見せ場とドラマティックな展開を求める。もともと産業や技術に特段のバックグラウンドを持たない映画批評家の見方は、先ずはエンターテイメントを求める平均的な観客の意識を代表するだろう。

 第1部『黒部渓谷』と第2部『地底の凱歌』を取り上げた雑誌『キネマ旬報』の評者は言う。
 『黒部峡谷』で「従来のダム映画にはない「秘境」を描ききったのはお手柄である。しかし、つづく第二集ダム建設の描写でもこれだけの迫力がでるだろうか。関係者の健闘を祈りたい」。その第二集、地熱に悩まされ崩落、出水と闘う地下工事を丹念且つドラマティックに描いた『地底の凱歌』だが、「第一部ほどの感激はない。前作を支配した大自然の圧迫感に相当すべきものが違ったわけだが・・・体力的な大力作」という評価になる。工程が進むにつれて、人びとはモチーフにもメディアにも慣れ、結局は自賛が基調になるメッセージにも食傷して、映画館での成功を支える斬新さは衰えていく。[吉原前掲書再録]


映画館への再挑戦――ノンフィクションからドラマへ

 映画館の観客の関心をもう一度この世界に引き戻すことができたのは、ドラマティックなノンフィクションではなく、ずばりドラマとしての劇映画であった。

 日映新社の総集編『くろよん』の完成から5年、1968(昭和43)年に公開された熊井啓監督の『黒部の太陽』(製作:三船プロモーション・石原プロモーション、配給:日活)である。木本正次の原作『黒部の太陽』は1964(昭和39)年に「毎日新聞」に連載されたノンフィクション。映画では多岐にわたる工事のうち熊谷組が担当した輸送路、大町ルートの関電トンネルの難工事に焦点を絞り、三船敏郎が関西電力黒四建設事務所次長、石原裕次郎が熊谷組の若手技術者を演じた。

 協力タイトルには工事に関連した企業名が並んでいる。関西電力、間組、鹿島建設、熊谷組、佐藤工業、大成建設、ブルドーザー工事、日本国土開発、朝日ヘリコプター、小松製作所。

 トンネル工事の現場を再現するセットは、愛知県豊川の熊谷組機械工場に下請けの笹島建設の手で作られた。再現された本坑は、関電トンネル180メートル、間組トンネル32メートル、関電トンネル坑口40メートルの計252メートルのほか、5つのパイロットトンネルの計111メートルであり、出水再現のため420トンの水タンクが用意された。このセット撮影では実際に出水事故が発生し、石原裕次郎を含む数人が負傷した。
 スタッフ表を見ると、撮影には岩波映画で佐久間の撮影に参加した金宇満司、また録音の安田哲男、助監督の片桐直樹と記録映画畑の経験者が目立つ。

 結果は大成功であった。「最初の1年で、観客動員数733万7000人。空前の大ヒットとなり、劇映画の興業の新記録を樹立した」。[熊井啓『黒部の太陽 ミフネと裕次郎』2005新潮社]

 映画そのものに、また熊井監督の著作に感動した建設省出身で元国土庁審議官の仲津真治は書いている。「(熊谷組豊川工場でのセット撮影をはじめ)この映画への関電、熊谷組など各社の協力は大変なものがありました。映画製作に要した費用は三億円台と記されていますが、各社の人的・物的など諸々の貢献・協力は並大抵のものではなく、金額に換算すれば十数億円に達したろうと言われています」。各社にとって協力の効果は大きかったようである。[仲津真治「『黒部の太陽』:今も輝く映画の金字塔・その現代的意義」。括弧内は引用者。http://www.world-reader.ne.jp/tea-time/nakatsu-051130.html


霞が関ビルと青函トンネル

 記録的な建設工事の場合、その後も劇映画として取り上げられることが時折あった。

 新しい耐震構造による最初の超高層ビル、霞が関ビルの建設は企画鹿島建設、製作日本技術映画社(現在のカジマビジョン)の記録映画『超高層霞が関ビル』(1968)が高い評価を得るが、早くも翌1969(昭和44)年には関川秀雄監督、東映配給の劇映画『超高層のあけぼの』が公開された。
 製作は日本技術映画社と東映である。菊島隆三の原作を岩佐氏寿(記録映画の脚本演出を担当)と工藤英一が脚色した。関川秀雄は、記録映画、教育映画でも良い仕事を残している監督である。これは、製作の背景からして黒部の場合よりも記録映画との連続性が強い試みであった。


 鉄道トンネルとして世界一の長さ(海底部分は英仏海峡トンネルに次ぐ)の青函トンネルの場合はどうだったろうか。

 1961(昭和36)年の斜坑掘削開始から1985(昭和60)年の本坑貫通までを数えても24年に渡る長期となった工事では、多くの記録映画が製作されている。
 映文連の登録作品データベースを「青函」「トンネル」「海底」をキーワードに検索してみると、1964(昭和39)年の調査記録『青函トンネル』(企画:日本鉄道建設公団 製作:新理研)から1985(昭和60)年の『青函トンネル−総集編』(企画:鹿島・熊谷・鉄建青函ずい道共同企業体 製作:カジマビジョン)まで、13作品が出てきた。佐久間や黒部の記録映画のように、代表作を選ぶのは難しい。長期工事だけに各段階それなりの情報発信が求められ、対応した製作が発注された経過が読み取れる。鉄建公団は新理研と北海道放送映画、共同企業体はカジマビジョンに発注している。発注側は地元の製作者を重用し、受註側は系列の専門性の高い製作者を選ぶ――本四架橋の場合もよく似たパターンである。

 青函トンネル建設工事を取り上げた劇映画は、1982(昭和57)年に東宝創立50周年記念作品として公開された森谷司郎監督の『海峡』である。高倉健、吉永小百合、三浦友和等が主演した豪華版だが、『黒部の太陽』ほどの反響は呼ばなかった。
 その背景を映画情報サイトへの投稿者が要約している。「本作が『黒部の太陽』を意識した、しない、観客が『黒部〜』を知っている、いないは別にして、日本中がしゃにむに明日を目指して突き進んでいた高度成長期に、当時客が呼べる二大スターが共演した話題大作に対し、バブル期に作られた本作は、何となくテーマ自体にピンと外れというかインパクトが希薄な感じがする」。青函トンネルは、その後の本四架橋、東京湾アクアラインなどとともに、しばしば非採算の巨大公共事業として論議の対象となった。[popoさん「東宝版『黒部の太陽』を狙ったのだろうが・・・」
http://www.cs-tv.net/t/D000000/&movie;_id=A0005723


 時代は変わり、佐久間・黒部型のテーマは、ドラマティックなノンフィクションでも、ずばりドラマの劇映画でも、映画館に人を呼び戻すことはできない。産業映画は、そのような環境のなかで、映画館への夢を捨て、映画館の外の特化されたメディアとしての役割を、再び自覚しなければならなかった。



〔3 多様化した「産業映画」とその評価――推奨制度の展開、に続く〕


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