ドイツ・ポーランド間の歴史教科書対話に関するメモ

勝瞬ノ介

(資料協力: 阿部津々子)



●背景

 第一次世界大戦後のヨーロッパには、惨事を繰り返さぬためにはまず国家間の相互理解が不可欠だ、という考え方がすでにあった。そしてそれと同時に、隣国同士で共通の歴史認識を作り上げようという試みもあった。

 しかし、一度の失敗から学ぶほど、人間は賢くはなかった。ヨーロッパは再び暗黒の時代に突入していった。第二次世界大戦である。

 第二次大戦後、ユネスコ(国連教育科学文化機関)が設立された。ユネスコは、自国に都合のいいように書かれがちな歴史教科書の抱える問題を指摘し、互いに相手国の歴史教科書についての議論とチェックをしていくべきだと提案した。

 西ドイツは、フランスと歴史教科書をめぐる話し合いをはじめた。いわゆる『国際歴史教科書対話』の始まりである。これは、「互いの歴史を知り、相互理解を深めること」を目的としていた。


●『独ポ歴史教科書対話』の経緯

 西ドイツとポーランドの間でこの『国際歴史教科書対話』が始まったのは1972年のことである。働きかけたのは西ドイツ側で、その中心的役割を果たしたのは、ドイツの『ゲオルク・エッカート国際教科書研究所』であった。

 この研究所は、歴史学者の故ゲオルク・エッカート氏によって1951年設立されたもので、ナショナリズムから解放された歴史本をつくることを、その目的としている。現在の所長は、ウォルフガング・ヘープケン氏である。

 早速、ドイツ・ポーランド両国の歴史家たちからなる、政府から独立した『ドイツ・ポーランド共同教科書委員会』が、両国のユネスコ国内委員会によって設置された。彼らは、古代から近代までの両国の関係史に関する記述について、その後議論を重ねていくことになる。

 この議論は、当然ながら険しい道のりであった。しかし、4年という長く忍耐強い話し合いの結果、努力は具体的な形となった。1976年、委員会は、戦争を含む歴史上の26項目の記述部分についての修正案を、『勧告』として発表し、それらの勧告は現場で受け入れられた。

 では、この勧告とは具体的にどのようなものだったのか。26項目全てを挙げる訳には行かないので、ひとつだけ例をあげておこう。勧告第20項目は「第二次世界大戦中のナチスの占領政策と抵抗」の記述に関するものであった。その主な論点は、
  1. ドイツの歴史教科書はポーランドにおけるナチスの過酷な占領政策を正確に描くこと
  2. ポーランドの抵抗運動の意義を正当に評価すること
の二点であった。この勧告は、現在のドイツの歴史教科書にしっかり反映しているようである。

 しかし、全てがこのようにスムーズに進んだわけではない。多くの難しい問題も持ち上がった。例を出そう。


●議論が難航した点

 確かに、上記のようなドイツ側の記述に関する勧告は、それほど困難はなかった。教科書委員会のポーランド側初代委員長を務めたマルキェヴィッチ博士も、対話が最も簡単だったのは第二次大戦についてであった、なぜならナチズムは『悪』であるという大前提がドイツ側にもあったので議論の余地はなかった、という旨の発言をしている。しかし、勧告の対象となったのは、ドイツ側ばかりではなかった。  もう一方のポーランド側には、加害者としての意識がまるでないものだから、たとえば第二次大戦後、ポーランドを追い出されたドイツ人住民たちの記述に関して、激しいぶつかり合いがあった。

 国境線の変更に伴うドイツ住民の移住を、ドイツ側が『追放』と表現するよう求めたのに対して、ポーランド側は単なる『移送』である、としたのだ。結局、議論を重ねた末「疎開や自主的な避難民などで国境を越えたドイツ人もいたが、『強制移住』のケースもあった」との併記で妥協した。

 しかしそれでも、ドイツにはバイエルン州のようにこの勧告を受け入れない州があった。そもそもドイツでは各州ごとに教科書検定制度がある上、この勧告にはなんら強制力がないからである。
(だが十年以上にわたる教師たちの働きかけの結果、今では同州でも勧告を受け入れるようになったと、ゲオルク・エッカート国際教科書研究所のヘープケン所長は言う。)


●ソ連の影響

 もうひとつ、この教科書対話をややこしくした要素として、ソ連政府の存在がある。

 当時、ポーランドは共産主義政権であり、国自体がソ連の掌の下に置かれたようなものであった。いくら教科書委員会が政府から独立しているとはいえ、影響を全く受けないというわけには行かなかった。

 上記のドイツ住民の移住に関する討議に対しても、ポーランド政府からの(つまりはソ連政府からの)圧力があったという。それが対話に更なる困難をもたらしたことは、想像に難くない。

 また、『勧告』の中では1939年の独ソ不可侵条約について触れられていなかったし、ポーランド軍将校が大量に銃殺された『カチンの森』事件に関しても、ポーランド人はそれがソ連軍の犯行だということを知ってはいたけれど、実際に扱われることはなかった。

 これらはどれも、ポーランドがソ連の支配下に置かれていたためである。

 そう考えると、歴史教科書対話の過程においてポーランド側が出した勧告の中には、ソビエト政府の意図を反映したものもあったはずだ。ソ連にとって都合のいいように力の加えられた勧告は、ドイツとポーランドにとってはありがたくない。

 けれど89年に体制が変わって以来、討論は比較にならぬほど自由になった。そしてそれが、今までスポットの当たることのなかった部分の見直しまでもを迫っている。たとえば、『イェドヴァブネ事件』がそれである。

 詳しいことは別項(勝瞬ノ介「イェドヴァブネの闇 —ユダヤ人虐殺とポーランド住民」、2001.08.09)でも書いたので省くが、この『イェドヴァブネ』に関して、ポーランド側の教科書委員長を現在務めるワルシャワ大学のボロジェイ教授は、今の歴史教科書にはイェドヴァブネに関してひと言も記述がないが、今後は『イェドヴァブネ』抜きの教科書は考えられなくなる、という旨の発言をしている。


●歴史教科書対話の目的と成果

 ドイツ・ポーランド共同教科書委員会は、現在も毎年、両国間の歴史教科書に関する見直し会議を継続している。2001年6月には、教師向けのガイドブック『20世紀のドイツとポーランド』を出版した。

 では、ドイツ・ポーランド間の歴史教科書対話と勧告は、どれほどの効果をもたらしたのか。

 ゲオルク・エッカート国際教科書研究所の調査によると、ドイツの歴史教科書の中で、ポーランド史の記述に関して修正の行われた部分は、その9割以上がこの勧告に従った結果だとしている。つまり、歴史を学ぶ両国の若者たちに大きな影響を与えているわけである。

 でも、この影響というのは、どんなものなのだろう。そもそも、この歴史教科書対話は、両国の若者に何をもたらそうとしているのだろう。

 ゲオルク・エッカート国際教科書研究所のファルク・ピンゲル副所長は、教科書研究の目的は国際理解の推進にあるという。国際紛争でも国境問題でも当事者にはそれぞれの見解があり、重要なのは、相手の意見に反対だとしても、それに耳を傾けることだ、と。 また、歴史教科書の役割についても、知識の供給源であると同時に、様々な見方を比較し、議論し、自分の意見を形成するための材料であるべきだ、と説く。異なる考え方に接し、互いの異見を交換し合うことが重要だと言う。要するに、歴史教科書対話は、単に共通の歴史の確立だけが目的ではないのである。

 最後に、もうひとつ。このような二国間対話が意味をもつ理由として、「一国内では教科書改善に限界があり、その限界を超えるためには相手国との対話が必要なのだ」という人もいる。上のピンゲル副所長の意見と併せて、これも傾聴に値すると、筆者は考える。

 なお、ドイツ・ポーランド間における歴史教科書対話に関する優れた書籍がいくつか出版されているので、更なる詳細に関心のある方のために下に挙げておく。

「ポーランド関係書籍」: 「教育」(歴史教科書問題)



勝瞬ノ介氏がワルシャワから発信するホットな 「情報エッセイ」
ワルシャワの風



(かつしゅんのすけ 2001.08.29)