『天皇陛下の私生活 1945年の昭和天皇』

【書闘倶楽部 「時代」の肖像】

評者/鈴木洋史(ノンフィクションライター)

昭和天皇は昭和20年にどんな「日常生活」を送っていたのか

『天皇陛下の私生活 1945年の昭和天皇』

天皇陛下の私生活

米窪明美著

新潮社

本体1400円+税

米窪明美(よねくぼ・あけみ)

1964年東京都生まれ。学習院大学文学部卒業。学習院女子中・高等科非常勤講師。著書に『明治天皇の一日 皇室システムの伝統と現在』(新潮新書)、『明治宮殿のさんざめき』(文春文庫)、『島津家の戦争』(集英社インターナショナル)。

 

空襲警報が鳴り響く中、軍装で行うという異例の四方拝(元日の夜明け前に天皇が執り行う神事)で昭和天皇の昭和20年は開けた。

本書はその1年に焦点を絞り、終戦前後の時局の推移を追いながら、その中で営まれた天皇の日常生活を描いたノンフィクション。その1年を取り上げた理由は、史料が豊富であることに加え、〈皇室存亡の瀬戸際まで追い詰められた状況の中でも変わらないもの〉こそが〈皇室の皇室たるゆえん〉だからだという。

著者は、天皇や皇族、側近らの膨大な日記、回想録といった1次資料をもとに、興味深い事実を丁寧に描いていく。

たとえば、食事。宮内省と宮殿の間にある大膳寮で調理された食事は、御文庫(戦争後半から天皇皇后らが暮らした建物)に車で運ばれ、当直侍医の「おしつけ」(毒見)を受ける。開戦直後から食糧事情が厳しくなったうえ、生真面目な昭和天皇が闇物資を仕入れることを禁じたため、戦争末期の食卓はかなり貧しかったという。主食は配給の米に丸麦や外米を混ぜたものを日に一度だけ、他の2食はうどん、そば、すいとん、代用パン、イモ類など。物資を囲い込み、贅沢を続けた軍部とは大違いだった。

入浴にも昭和天皇らしさが見られた。明治天皇の入浴には3人の女官がお供につき、「清」(清浄)である上半身は上役の女官が、「次」(不浄)である下半身は下級の女官が洗ったが、昭和天皇はひとりで入り、カラスの行水のように短く、風呂を出た後には道具や泡が散らかっていたという。トイレも同様で、明治天皇の場合は女官や小姓役の少年がお供したが、昭和天皇はひとりで入った。ただし、排便、排尿後に水は流さない。侍医が夜の拝診の前後に「御東」(宮中言葉で便の意)をチェックし、週に一度は「おじゃじゃ」(尿の意)を採取して精密な分析をする。

就寝前に侍医の拝診を受けるが、そのとき侍医は白衣を着ない。白衣は患者の持つ菌から医師を守るという意味があり、天皇の前で着るのは失礼にあたるからだ。爪を切るのも侍医の仕事だが、昭和天皇は足の爪だけを任せ、手の爪は皇后に切ってもらうのを好んだという。ちなみに、爪や髪の毛は「玉体」の一部なので女官が集めて年月日を記して封をする。

意外な事実も明かされている。御文庫の御書斎の飾り棚にリンカーンとダーウィンのブロンズ像が置かれていたのもそのひとつだ。片や敵国の元大統領、片や皇室の神話とは相いれない進化論を唱えた科学者である。だが、昭和天皇はリンカーンを政治家として尊敬し、ダーウィンの学者としての真摯な姿勢に共感し、何の違和感も抱いていなかったらしい。ちなみに、昭和17年4月29日、すなわち天皇誕生日の夜に天皇皇后と側近たちが「ミッキーの捕鯨船」というアメリカ映画を鑑賞したことが記録されているという。

そうしたディテールの積み重ねから、不器用で実直で曲がったことを嫌う、家族思いで妻思い、学者肌で近代的精神と科学的態度を持つ……といった昭和天皇の素顔が浮かび上がってくる。終戦前後の天皇の苦悩や決断については多くの作品で描かれてきたが、その時期の日常とそこから垣間見える素顔を描いた作品は希有だ。天皇像に厚みを持たせる異色の作品として価値が高い。

(SAPIO2016年3月号より)

 

初出:P+D MAGAZINE(2016/02/23)

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