日中関係打開めざした「保利書簡」
「いぶし銀の調整役」保利茂(7)
政客列伝 特別編集委員・安藤俊裕
佐藤栄作首相は1970年(昭和45年)10月の自民党総裁選で異例の4選を果たした。主導したのは川島正次郎副総裁―田中角栄幹事長のコンビである。佐藤の後継候補は福田赳夫蔵相が有力視され、佐藤の意中も福田と見られていた。田中も強い意欲を持っていたが、準備になお時間が必要であった。そこで時間をかせぐため川島と組んで活発な佐藤4選工作を展開した。
保利茂官房長官は、佐藤から福田への円満なバトンタッチを実現するには佐藤が十分な余力のあるうちに行うのが望ましいと考え、4選には消極的であった。佐藤はギリギリまで党内の情勢を見ていたが、川島・田中主導の4選支持が大勢となると、それに乗った。このあたりから佐藤と保利の息が微妙にずれるようになった。
自民党幹事長に
昭和46年7月5日の内閣改造で、保利は官房長官から自民党幹事長に転じた。保利の使命は同年6月に調印された沖縄返還協定の国会承認と、佐藤の円満な退陣、福田へのバトンタッチであった。しかし、このころから佐藤政権は内外の逆風に翻弄(ほんろう)されて急速に体力を失い、保利幹事長は思わぬ悪戦苦闘を強いられた。
同年6月の参議院選挙では野党共闘が奏功して与野党の議席差が縮まった。これを背景に自民党の河野謙三が「重宗王国」に造反し、野党の支持を得て議長になった。
岸信介、佐藤栄作と「長州ご三家」といわれ、9年間議長として参議院に君臨した重宗雄三は佐藤長期政権を支える重要な一角であった。保利幹事長は重宗・河野間の調整に乗り出し、いったんは2人が降りて木内四郎を新議長とすることで折り合いがついたが、重宗が不出馬会見で「河野が野党と結託して」と発言したことに河野が強く反発して保利の調整工作は不発に終わった。
保利は後に「重宗さんの会見があと1時間遅かったら、あんなことにはならなかったと思う」と述べている。重宗王国の崩壊で田中は参議院に多数派工作の足場を得ることになった。同年4月に前尾繁三郎が前尾派会長の座を追われ、田中の盟友・大平正芳に代替わりしたことも田中に有利に働いた。
中国代表権問題で苦慮
同年7月15日、キッシンジャー米国務長官が中国を訪問し、ニクソン大統領の72年訪中が公表された。日本の頭越しの米中接近に佐藤政権は衝撃を受けた。その1カ月後、ニクソン大統領は緊急ドル防衛策を発表し、円を含む主要通貨は変動相場制に移行した。日米の信頼関係は一層深まったと考えていた佐藤政権は2つのニクソン・ショックにうろたえた。特に米中接近は日本の世論を刺激し、日中国交回復を求める声が一段と大きくなった。
中国の国連加盟問題で佐藤政権は困難な対応を迫られた。台湾を国連から排除するには3分の2以上の賛成が必要だとする米国提案の逆重要事項指定決議案と、中国の国連加盟を認めて台湾も国連に残す複合二重代表制決議案の共同提案国になるかどうかをめぐって自民党の意見は割れた。佐藤首相もギリギリまで悩んだが、最後は台湾との信義を重視して米国とともに共同提案国になることを決断した。しかし、両決議案は国連総会で否決され、アルバニア提案の中国加盟、台湾追放の決議案が可決された。佐藤政権の対応は厳しい批判にさらされ、福田外相は非常に困難な立場に陥った。
保利幹事長は逆重要事項指定決議案の共同提案国になるという佐藤首相の判断に疑問を持っていた。時代の流れに任せた方がいいのではないかと感じていた。保利は「福田外相も同じ気持ちだったと信じている」と述べている。
このとき、保利はひそかに日中関係打開のために重要な布石を打っていた。中国の周恩来首相にあてた「保利書簡」である。訪中する美濃部亮吉東京都知事に託され、北京で周首相サイドに届けられた。
書簡にはこう書かれていた。日中関係正常化のために両国政府間の話し合いを始めたい。それに先だって自分が中国を訪問したい。中国は一つであり、中華人民共和国は中国を代表する政府であり、台湾は中国国民の領土である。
日付は美濃部都知事が出発した10月25日になっていた。周恩来はこの書簡を読んで「まやかしであり、信用できない」と受け止め、書簡を返却した。保利がいくら日中関係打開への熱意と誠意を見せても、佐藤政権が逆重要事項指定決議案や複合二重代表制決議案の共同提案国になった事実は「日本はまだ2つの中国にこだわっている」と見られても仕方のないことであった。
保利書簡は不発に終わったが、この事実が明らかになると国内に大きな波紋が広がった。自民党の親台湾派議員は衝撃を受けた。保利は昭和37年に自民党議員団を率いて訪台したことがあり、親台湾派と見られていた。親台湾派の有力議員である山中貞則は保利の私邸を訪ねて強く抗議した。保利はひたすら黙って山中の話を聞いていた。そして席を外して再び部屋に戻ると「山中君、君の中華民国を思う信念は尊いし、今後も実行し続けてほしい。この一振りは私の心だと思って受け取ってほしい」と日本刀を差し出した。
「自分も命がけでやっているんだ」といわんばかりの保利の気迫に押されて山中は思わず「わかりました」と答えて退散した。自民党総務会でも親台湾派の議員から攻撃を受けたが、保利は動じなかった。保利が親中派に転じたことで、自民党内の親中国派と親台湾派の力関係に変化が生じた。これが翌年の田中首相の日中国交回復の決断に大きな影響を与えたことは間違いない。
機を逸した佐藤退陣
沖縄返還協定の承認のための臨時国会は昭和46年10月16日に召集された。同月22日、保利幹事長は佐藤首相と会い「返還協定はこの国会で何としても片付けるつもりです。ついては政局にも折り目をつけてはいかがでしょうか」と退陣時期の腹合わせをした。佐藤は「そう思っている。でも年が明けてからでいいだろう」と答えた。保利は返還協定の国会承認後速やかに佐藤が退陣し、福田外相へ円満にバトンタッチすることが望ましいと考えていた。この会談で退陣時期は昭和47年1月と保利は受け止めた。
返還協定の国会審議は難航した。野党は「核抜き本土並みはまやかしだ」などと攻勢をかけた。自民党が衆議院の特別委員会で強行採決すると野党は審議拒否に出て国会はストップした。事態打開のため船田中衆議院議長のあっせんで与野党幹事長・書記長会談が開かれた。保利は野党に審議復帰を呼びかけたが、野党はこれに応じず、社会党の石橋政嗣書記長は会談を打ち切ろうと何度も席を立ちかけたが、そのたびに保利は「そうはいかない。結論がつくまではこの部屋から出てはだめだ」と押しとどめた。
長時間の缶詰め会談になった。最後は保利の気合に根負けしたかのように公明、民社両党が非核三原則の国会決議を条件に審議に応じると軟化した。自民党が本当に非核三原則の決議に応じるかとの疑念に対し、保利は「もし、約束を守ることができなかったら、この議員バッジをあなた方にお渡しする」と言い切った。返還協定は11月24日に衆議院を通過し、12月22日に参議院で可決承認された。
1972年(昭和47年)1月6日、佐藤首相は訪米してサンクレメンテでニクソン大統領と会談し、沖縄返還の期日が同年5月15日と確定した。この訪米には福田赳夫外相、水田三喜男蔵相、田中角栄通産相が同行した。この訪米中に佐藤が田中を説得して後継総裁を福田に一本化する調整が行われるとみられたが、田中が巧妙に逃げ回ったため、佐藤は機会を逸してしまった。佐藤首相は帰国後、退陣表明はせず、そのまま通常国会の審議に臨んだ。保利幹事長は佐藤退陣に備えて1月の定期党大会のほかにもう一回党大会を開く日程を検討していたが、肩すかしを食った格好になった。
保利は幹事長就任以来の激務がたたって持病の白内障が悪化し、手術のため3月2日から14日まで入院した。この間隙を突くかのように田中陣営は「3月攻勢」をかけて参議院や佐藤派内の多数派工作を活発化させた。佐藤は5月15日の沖縄返還式典までズルズル首相を続け、正式に退陣を表明したのは6月17日であった。すでに後継総裁争いは田中のペースで進み、保利が支持した福田は最後まで佐藤調整に望みをかけて不利な展開を強いられた。(続く)
保利茂著「戦後政治の覚書」(75年毎日新聞社)
岸本弘一著「一誠の道」(81年毎日新聞社)
保利茂伝刊行委員会編「追想保利茂」(85年同刊行委員会)
山田栄三著「正伝佐藤栄作」(上下巻=88年新潮社)
※2枚目の写真は「一誠の道―保利茂写真譜」(80年保利茂伝刊行委員会)より