川口事件と現在 1.内ゲバの歴史

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 2022年1月に参加した樋田毅『彼は早稲田で死んだ』読書会のために、同書の主題である72年11月の早大・川口事件の背景や、事件が日本現代史に与えた甚大な影響について解説した文章である。

 1.内ゲバの歴史
 2.内ゲバの背景
 3.川口事件の影響

 なお、すでにnoteで無料記事「樋田毅『彼は早稲田で死んだ』書評」を公開済で、「川口事件」とはどういう事件であるかは、そちらで簡単に説明した。

 「1」は原稿用紙換算34枚分、うち冒頭13枚分は無料でも読める。ただし料金設定(原稿用紙1枚分10円)はその13枚分も含む。

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   1.内ゲバの歴史

 内ゲバで死者が出始めるのは69年のことだ。もちろん諸党派が対立し合ったからといって死者を出すような凄まじい暴力の応酬が最初から生起するはずもない。政治運動に限らずどんな世界でも時には起こり得るような小競り合い程度の衝突が徐々に、それなりの経緯というものがあって激烈化していくのである。
 内ゲバと云って一般に想起されるのは新左翼諸党派間でのそれだろうが(なお後述するようにそのイメージは間違っている)、新左翼登場以前の50年代前半に共産党内部に生じた派閥抗争に際してのリンチの応酬では、その数年後に新左翼諸党派間で〝本格的な内ゲバ〟が始まった当初のそれをはるかに上回るレベルの暴力が頻繁に行使されている。
 50年1月、朝鮮戦争の勃発を前にソ連・中国は、45年の再建以来の日本共産党の穏健路線を批判し、反米武装闘争への路線転換を命じる。これをきっかけに共産党は、指導部を掌握していた徳田球一ら主流派(所感派)と、ソ連・中国の威を借りて指導部を批判し自らが実権を握ろうとする宮本顕治ら反主流派(国際派)とが公然と抗争を開始し、51年10月に、分派闘争をやめるようソ連に命じられて梯子を外される形となった国際派が自己批判して所感派に屈服するまで、完全な分裂状態にあった(なお分裂解消を55年7月のことであるとするのは、51年末から朝鮮戦争が休止した53年7月までの武装闘争期にも、宮本らが、窓際に置かれていたとはいえ指導部の一員ではあったことを隠蔽するための歴史改竄である)。武装闘争は民心の離反を招き、共産党は30以上あった衆議院の議席をすべて失ったりする。その責任を押しつけ合う形で党内権力闘争が再び激化し、徳田派の幾人かにすべての責任が押しつけられ失脚させられて(もっとも徳田はすでに53年中に死去していた)、宮本を中心とする新指導部が成立するのが55年7月のことだ。
 くだんの〝リンチの応酬〟は、50年1月から51年10月までの完全分裂期と、53年7月から55年7月までの党内闘争期のみならず、その中間の時期にも(あるいは55年7月以降もしばらくは)続いた。例えば52年6月、所感派系の学生たちが国際派系の学生たちを立命館大の構内で集団リンチした際には、殴る蹴るのみならず、焼けた火箸を当てたり、女子学生を輪姦することさえおこなわれたという。この時期の共産党内の雰囲気はとにかく陰惨の一語に尽き、リンチ事件は〝スパイ査問〟という名目でも(例えば国際派の内部でも)多発している。
 武装闘争路線を(単にその具体的ありようを反省するなどではなく)完全に放棄した共産党の新方針を不満とした、学生を含む若者層の中から50年代後半に新左翼運動が勃興し、まず57年に革共同(革命的共産主義者同盟)、次に58年にブント(共産主義者同盟)が結成され、このうちブントが、60年安保闘争が高揚へと向かう過程で、全学連(全日本学生自治会総連合)の執行部を独占する。48年に全学連が結成されて以来、その執行部を握ることと日本の学生運動全体の主導権を握ることとはほぼイコールであり、かつて所感派と国際派も全学連執行部人事をめぐって争ったし、共産党・革共同・ブントも同様の争いを繰り広げた。
 素手での殴り合いのような衝突はすでにこの時期に始まっており、例えば58年5月の全学連第11回大会でも、まもなくブントとして分岐していく主流派学生たちと、党中央の指示に忠実な反主流派学生たちの乱闘が起きている。ブントを牽引役として60年安保闘争が盛り上がり始めていた60年3月の第15回大会で、ブント系執行部の強引な議事進行に抗議して反主流派(共産党系など)の代議員たちが一斉に途中退席し、60年安保闘争の収束直後の同7月の第16回大会への参加もボイコットして、共産党系の代議員のみで全自連(全国学生自治会連絡会議)を別個に立ち上げるなど、全学連それ自体の分裂も進行する。
 60年安保闘争に全力を賭けすぎて疲弊したブントは、闘争収束と同時に組織崩壊して四分五裂の状態となる。60年9月の全学連中央委員会で、ブント・プロレタリア通信派(プロ通派)とブント・革命の通達派(革通派)との間に生じた衝突が、やはりもちろん素手での殴り合いにすぎないが、新左翼内部での「内ゲバ」の最初とされる。
 以後、ブントの分裂状態に乗じる形で、革共同が全学連執行部を掌握していく。そして61年7月の全学連第17回大会が、角材を使用した最初の本格的な内ゲバの舞台となるのである。
 学生運動を〝唯一の前衛党〟(革共同からすれば、革共同こそがそれである)にただ従属していればよいものと見なす点では共産党と何ら違わない革共同に、ブント残党(主に前記・革通派系で、プロ通派などは解散して革共同に合流していた)や、60年安保闘争の過程で新しく社会党から分岐して新左翼シーンに参入してきた解放派などが反発するという構図ができていた。革共同はこの大会で、例によって強引な議事進行で執行部人事を独占する体制を正式に発足させようとしていたから、ブントや解放派の側はそうはさせじと、早朝のうちに会場入りして入口にバリケードを築き、革共同系の代議員を中に入れまいとした。
 当然、入れろ入れないの押し問答となり、やがて乱闘となる。そこに我々も参加させろと共産党系の代議員たちが登場すると、新左翼どうしの乱闘は一時中止され、まずは共同で共産党系の排除を優先したり、構図がややこしい。共産党を撃退して改めて乱闘再開となるが、特段の戦力差のない状態でやり合っているぶんにはどうしても守る側が有利で、しびれを切らした革共同側の指揮官が、材木屋で角材を大量に買ってくるよう指示した。手に手に角材を握りしめた革共同の部隊は、あっというまに籠城側の前線部隊を叩きのめして会場入りし、予定どおり自派で執行部人事を独占する新体制を確立する。以後、こうした衝突の場面で角材が登場することは珍しくなくなっていく。
 全学連は革共同の専有物となり、63年に革共同が中核派と革マル派に分裂すると、中核派も排除されて革マル派の専有物となった。のち、64年には共産党系の学生たちが独自の全学連を結成し、66年にはブント・中核派・解放派が共闘する形で三派全学連を結成するなど、つまり全学連そのものが複数存在する状況が生まれる。
 内ゲバ史の次のメルクマールが、64年の「早大7・2事件」で、これは早大第一文学部の自治会をめぐる争奪戦の過程で起きた事件である。
 早大一文では革共同、そしてその分裂後は革マル派が、場合によっては暴力を行使しながら自治会執行部を握っていた。むろん公正な選挙をやれば革マル派は敗北するはずだった。そしてこの年、学内で支持を伸ばしていたフロント(社会主義学生戦線)という党派が、革マル派による不正選挙を批判し、公正な選挙を実施させようと盛んに活動していた。じっさい公正な選挙をやればフロントが自治会執行部の主流となりそうな情勢で、革マル派は当然、この動きを暴力で粉砕しようとする。
 フロントはそもそも、61年に共産党から新たに分岐してきた構改派(構造改革派)と総称されるいくつかの党派の1つで、構改派自体が全体として〝穏健な新左翼〟の潮流だし、つまりフロントも暴力的な衝突となれば勝てる自信がない。そこでフロントは、革マル派との対立を深めていく過程にあった他の新左翼諸党派に応援を要請した。具体的には、やはり早大で勢力を伸ばしつつあった解放派と、早大にはほとんど勢力を持たない中核派に協力を求めたのである。
 7月2日、フロント・解放派・中核派の合同部隊が早大の革マル派自治会に襲撃をかけ、約3時間に及ぶ乱闘の末、撃退された。むろん角材を使用した本格的な内ゲバで、ふるわれた暴力そのものも凄まじかったが、それ以上に、とくに中核派がそうだったように、学内問題をめぐる対立の場面に学外から武装部隊が送り込まれるというのは、この早大7・2事件で初めて起きた。
 60年安保闘争の収束後、60年代前半というのは「冬の時代」とまで呼ばれた学生運動の停滞期で、多くの学生たちから背を向けられながら、一握りの活動家のみによってさまざまの闘争が担われていた。その狭い世界で、内ゲバは熾烈さの度合を上げながら常態化していくのである。
 65年に学生運動は停滞から高揚へと局面を変え、あちこちの大学で、のちに〝プレ全共闘〟と総称されることになる学費値上げ反対闘争などが、同時多発的・自然発生的に巻き起こり始める。前後して諸党派も(後述する〝ジッパチ〟を契機に)量的規模を拡大し始め、むろん〝プレ全共闘〟の諸闘争にも積極的に参画した。それはいいのだが、すでに内ゲバ体質を身につけてしまっていた諸党派は、ノンセクト学生たちが主導する全共闘運動の近傍で暴力的な抗争を繰り返した。ノンセクト側からすれば、そうした諸党派の存在は有難迷惑なものだった。
 ただし、実はそもそも、内ゲバというのは新左翼諸党派間での衝突を指すというより、まずは全共闘と共産党(の青年学生組織・民青)との衝突を指す言葉だった。
 プレ全共闘期には民青も(プレ)全共闘に参加したが、68年の〝本番〟期には、民青は全共闘にことさら敵対的な姿勢で臨んだ。とくに東大闘争で全共闘vs民青の対立は激化していき、68年7月の民青系全学連大会は、新左翼の暴力に対する「正当防衛権」の行使を決議した。ほどなく早大生だった〝突破者〟宮崎学を指揮官とする民青系の武装部隊(通称「暁(あかつき)部隊」)が編成され、9月以降、東大闘争などに投入される。
 表向きは「暴力反対」を掲げ、全共闘のノンセクト活動家を含む新左翼学生たちを「暴力学生」と非難していた共産党・民青は、しかしいったん本気になると結局一番強かった。なにせ党本体の量的規模、そして資金力ともに新左翼諸党派をすべて合わせたよりも数十倍大きいのだ。情報の収集力や拡散力もそれに比例して高い。使用する棍棒も高価な硬い樫製で(「ゲバ棒」つまり暴力行使のための武器ではなく暴力と対決するために必要な装備にすぎないとして、民青内部ではこれを「民主化棒」と呼ばせた)、それどころか、全共闘学生たちが籠城する建物をサーチライトで照らしながら、ピッチング・マシンで投石してきたりするのである。
 警察の統計でも、69年までは新左翼内部よりも〝民青vs新左翼(全共闘)〟の内ゲバのほうが圧倒的に多い。70年から72年にかけてもほぼ同数で(しかも〝民青vs新左翼〟のほうがわずかに多い)、73年以降やっと新左翼内部での内ゲバのほうがずっと多くなる。71年6月には、琉球大で民青が革マル派を襲撃し、1名を殺害する事件も起きている。
 東大闘争もまた、内ゲバのエスカレートの重要な契機だった。前記のとおり、民青の暁部隊も主に東大闘争に投入するために創設されたものだ。
 とはいえ全共闘vs民青の衝突は当初、一般学生の目を盗んで深夜にこっそりとおこなわれていた。双方とも、自派が暴力を行使している場面を見られて一般学生の支持を失うことを恐れたのである。しかし68年11月12日、総合図書館の占拠を狙う全共闘とこれを阻止しようとする民青との集団戦が白昼堂々おこなわれて以降、衝突は人目をはばからず、したがって昼夜を問わず頻発するようになる。
 さらに同時期、早大で、あとは解放派さえ追い出せば(民青が自治会を握る法学部など以外では)キャンパスの一元支配を実現できると見た革マル派が、解放派の活動家に徹底的な個人テロを仕掛け始める。解放派はこれに耐えきれず、拠点化していた政経学部自治会を捨てて東大キャンパスへと〝亡命〟したが(早大政経学部の自治会はこの時点で消滅する。自治会の消滅は、必ずしも学生の無関心や、あるいは当局による弾圧を原因としてではなく、このように内ゲバがらみで起きることも多かったのである)、すると革マル派も追撃部隊を送り込んできて、東大構内で早大生同士の激突が繰り返されるという意味不明な事態に発展する。
 68年11月以降、翌69年1月の有名な安田講堂攻防戦の時期あたりまでの東大は、授業もなく、ただ民青・新左翼諸党派・ノンセクトがそれぞれ拠点とした建物に籠城して睨み合う中、〝全共闘vs民青〟あるいは〝革マル派vs解放派〟の衝突があちこちで散発的に起き、時折どこかから突如として悲鳴が上がるのが聞こえるという状況だったという。敵対党派に捕まってしまった際に加えられるリンチも、この時期の東大や早大で、死者が出ないのが不思議なくらいの壮絶なものと化していった。

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