ロシア軍を撃退するため、ウクライナのいたるところで、市民たちが大量のモロトフ・カクテルを作っている。
西部の都市リビウでは学生や芸術家たちが、かつて深夜のダンスに興じた場所で製作にいそしむ。首都キエフの郊外では元経済専門家が、作り方を検索して自分で作ったと記者に説明している。東部のドニプロの街では女性たちが屋外に集まり、この一時しのぎの武器を作っている。(参考記事:「写真で見るウクライナ侵攻と混乱、ライフル持つ市民、渋滞する首都 19点」)
「今すべき唯一の重要なことだと思います」と、地元の教師は話す。
モロトフ・カクテルとは、いわゆる火炎瓶のことだ。高度な技術を持つ敵に対抗する身近な武器として、100年近く使われ続けている。投石よりもはるかに強力だが、作るのはそう難しくない。必要なのは、ガラス瓶と可燃性の材料くらいだ。(参考記事:「図説:ウクライナ独立から30年、ロシアによる圧力の歴史」)
火炎瓶が初めて使われたのは、1930年代のスペイン内戦とされる。右派の反乱軍(ナショナリスト派)が、左派の人民戦線政府(共和国派)の戦車に対抗したときだ。ある英国の准将は、この手製の爆弾で9両の戦車が破壊されたのを目の当たりにして驚いた。やがて火炎瓶は、人民戦線軍側でも使われるようになった。
その火炎瓶が、なぜモロトフ・カクテルと呼ばれるようになったのか。それには、フィンランドの人々が関係している。1939年にソ連軍がフィンランドを攻撃したとき、スターリン政権の外務大臣だったビャチェスラフ・ミハイロビッチ・モロトフは、軍用機がフィンランドに運んでいるのは、爆弾ではなく食料だと言い張った。
そこでフィンランド人は爆弾を「モロトフのパンかご」と呼び、それに合う飲みもの、すなわちカクテルをお返しした。ウオツカを製造していたフィンランドの工場は、すでに即席の火炎瓶を大量生産する準備を整えており、フィンランドはソ連の装甲部隊に対して大きな戦果をあげることができた。その結果、「モロトフ・カクテル」という名前は一躍世界に広まったのだ。
第二次世界大戦中、英国はこのモロトフ・カクテルを、ナチスの侵攻に対する重要な防御策とした。かつてスペイン内戦の際に国際旅団として戦闘に加わったトム・ウィントリンガムは、1940年に英国の人気雑誌「Picture Post」でモロトフ・カクテルを紹介し、「レシピ」と使い方を解説した。
「戦車が近づいてくるのを待て。十分に近くまで来たら、仲間が、ガソリンをしみこませた布の端に火をつける。燃え上がったら、すぐに瓶と布を投げるのだ(遠くには投げられない)。戦車のすぐ前に落ちるように投げよう。コツは、布が履帯に巻きこまれるか、車軸に巻き付くようにすることだ。瓶は割れるが、ガソリンが十分布にしみこんでいれば、勢いよく燃え上がる。すると、車輪のゴムが燃え、エンジンや乗員にも火が回る」
この記事は、次のように締めくくられている。「モロトフ・カクテルで遊んではいけない。非常に危険である」