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社史に人あり

数百年の歴史を誇る企業があまたあります。商いの信念に支えられた企業の歴史、礎を築いた人物を中心に紹介。

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島津製作所/11 大陳列室を完備した本店を新築=広岩近広

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初代の遺志を継いで陣頭指揮に当たった2代島津源蔵=島津製作所提供 拡大
初代の遺志を継いで陣頭指揮に当たった2代島津源蔵=島津製作所提供

 京都の島津製作所は、初代源蔵の主導により着実に業績を伸ばしていった。店舗と工場の拡張に注目して振り返ると、創業から6年後の1881(明治14)年に工場の増改築を行う。続いて5年後には北隣の3戸を買収のうえ、創業時に比べて4倍規模の工場兼店舗に仕上げる。また2年後の1888年、北側の2戸を買い取って、2階建ての店舗を構えた。

 さらに1894(明治27)年1月、ひと回り大きな木屋町本店を新築する。外装は京都らしい和風だが、内装はステンドグラスの欄間を設けるなどモダンな建物だった。源蔵は既定方針通り隔壁を取り除き、2階のスペースをすべて大陳列室に充てた。この本店は、「島津製作所 創業記念資料館」(1999年に国の登録有形文化財)として保存されている。<現在見ても、柱、軒の木組み、屋根瓦(やねがわら)の組み方、土間から二階大屋根に突き抜ける煙突などから、当時としては相当立派な建築であっただろうと想像できる>(「島津の源流」)

大陳列室を完備した木屋町本店(手前)の一帯=島津製作所提供 拡大
大陳列室を完備した木屋町本店(手前)の一帯=島津製作所提供

 源蔵は新店舗に大陳列室を完備するにあたり、資金を借り入れた。そこまでして設けた大陳列室は、源蔵の考えによる。翌年の4月に京都で開催予定の第4回内国勧業博覧会に、源蔵は照準をあわせていた。工業館から動物館まで多彩な展示館が建つ予定で、その会場へ見物人を運ぶ市街電車が、島津製作所の前を通る計画だった。

 <内国博は全国から著名な工匠や教育者、技術者が集まって来る催しである。会場へ行き来するそれらの人々は、いやでも源蔵の店の前を通らなければならない。彼は、この好機に乗じて、その人たちの目を引き、大勢の人々を迎え入れられる大陳列室を新築したのである>(「島津の源流」)

 源蔵は長男梅治郎を交えて、大陳列室の展示内容を練り、また博覧会に出品する新製品について打ち合わせを重ねた。そうした折の1894年12月8日、源蔵は脳出血により、55歳で急逝する。日清戦争下とあって、この日は従業員の出征歓送会が、源蔵の呼びかけで開かれた。その当主の突然の死去に、一家の驚きと困惑は想像に難くない。

 だが梅治郎は、悲しみを乗り越えて立ち上がり、2代源蔵を襲名して家督を継いだ。12月15日のことで、梅治郎は25歳だった。初代は京都で開かれる第4回内国勧業博覧会で島津の名を印象づけるべく奮闘していたので、2代源蔵の梅治郎は父の無念を晴らそうと陣頭指揮に当たる。

 <翌二十八年四月彼(梅治郎)は父の遺志を継いで、第四回内国勧業博覧会に数点の製品を出品した。うちビャンキ排気器、ウイムシャースト感応起電機は、実験に絶賛を博し、有功二等賞を授与された>(「島津の源流」)

 2代源蔵は初代から多くの遺業を受け継いだが、負の遺産もあった。島津製作所の事業は好調で赤字を出すはずもないが、大陳列室を設けるなど本店を豪華な建屋にしたので借入金があった。<後年、二代源蔵が「父は私に職と技能とを授けてくれましたが、同時に借銭もくれました。それを済ますのは、かなり大きい苦しみでしたよ」と述懐している>(「島津の源流」)

 新たな境涯を迎えた2代源蔵は、弟の源吉と常三郎の協力を得て、島津の事業をもり立てていくのだった。

 (敬称略。構成と引用は島津製作所の社史と「島津の源流」による。次回は5月21日に掲載予定)

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