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社史に人あり

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島津製作所/6 父子でドイツ人化学者ワグネルに学ぶ=広岩近広

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島津源蔵と長男の梅治郎が師と仰いだドイツ人化学者ワグネル=島津製作所提供 拡大
島津源蔵と長男の梅治郎が師と仰いだドイツ人化学者ワグネル=島津製作所提供

 幕末から明治にかけて、欧米の学術や技術を導入するにあたり、指導者として招請されたのが「お雇い外国人」だった。京都府が島津製作所の近くに創設した京都舎密(せいみ)局は、1878(明治11)年3月、ドイツ人の化学者ワグネルを招いた。オランダ人の薬学者ヘールツに代わる「お雇い外国人」だった。

 <ワグネル博士は明治元年(1868)に来日、長崎で石鹼(せっけん)の製造、佐賀で有田焼の改良に尽くし、明治四年には、東京で大学南校、大学東校(東京大学の前身)の教師となって理化学の講義を受け持っていた>(社史)

京都市左京区の岡崎公園に建つワグネルの顕彰碑 拡大
京都市左京区の岡崎公園に建つワグネルの顕彰碑

 京都府はワグネルを迎えるにあたり、舎密局の北隣に化学校(別称は医学校)を新設し、ワグネルは理化学の教授を務めた。また舎密局では、各種工業化学製品の研究や指導を行った。

 舎密局に足繁く通っていた初代島津源蔵は、ワグネルに出会う3カ月前に有人軽気球の飛揚を成功させている。このためワグネルは源蔵に関心をいだき、二人の接触は<自然のなりゆきであった>(社史)。源蔵がワグネルから、多くの新知識や新技術を吸収したのは言うまでもない。一方、ワグネルは源蔵の技量を認めて、実験に用いる器械類の製作や修理を依頼している。

 <ワグネルにつき理化学の教示を受け舶来せる同器械等の模製修理を担当せしが、単に西洋書籍にある器械の図面を一見せしのみにて巧に之を製作し、また舶来器械の損傷せしものも手を着(つけ)れば自在に運転なしければ、ワグネルも非常之を愛重し其(その)技術も日に長進せり>(「島津家家譜」)

 さらにワグネルは源蔵に、科学技術者の気構えを自ら示した。社史はワグネルを<一部門の専門家ではなく、広範な科学技術、しかも、実際的な工芸技術の実技経歴を十二分に備えた指導者だった>と述べて、源蔵に言及する。

 <島津源蔵が新しい科学技術のどの分野にでも、新しいまま、奇なるままに好奇の目を開き、窮理(きゅうり)の熱情を注いでいったことは、後年、島津製作所が狭い一部の専門機関に閉じこもることなく、広範な科学技術の総合の殿堂として多彩な発展をしたことと、決して無関係ではないかも知れない>

 ところで、源蔵の長男梅治郎(後の2代源蔵)は8歳ながらも父に同行し、ワグネルに会うため京都舎密局にせっせと通った。ワグネルが梅治郎の<科学技術の開眼に果たした役割>は明らかで、社史は<ワグネル博士は、彼(梅治郎)にとってまさに渇仰(かつごう)の師であった>と述べる。また志村和次郎著「『創造と変化』に挑んだ6人の創業者」(日刊工業新聞社)は、次のように説明している。

 <源蔵父子はワグネルの助手となり、貪欲に西洋の科学技術を吸収したのはいうまでもありません。源蔵の長男、梅治郎は父より早く起き、夜遅くまで手伝い、知識を吸収しました。(略)父の代理でワグネルに直接教えを乞うこともしばしばありました。学校に通う余裕も時間もなかったわけです。(略)まさに梅治郎は個人レッスンに近く、英才教育を舎密局で受けたことになります>

 その利発さに加え、向学心が旺盛な梅治郎は、フランス人物理学者の著書を懸命に読みこんだ。熱意の少年梅治郎にとって、ワグネルと京都舎密局は<不世出の大発明家として大成功する沃土(よくど)>(社史)であった。

 (敬称略。構成と引用は島津製作所の社史<「島津の源流」を含む>による。次回は4月16日に掲載予定)

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