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社史に人あり

数百年の歴史を誇る企業があまたあります。商いの信念に支えられた企業の歴史、礎を築いた人物を中心に紹介。

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島津製作所/5 有人軽気球の飛揚で面目躍如=広岩近広

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初代島津源蔵が飛揚に成功した有人軽気球の版画=島津製作所提供 拡大
初代島津源蔵が飛揚に成功した有人軽気球の版画=島津製作所提供

 空を飛ぶのが人類の夢であった時代、アメリカのライト兄弟は1903(明治36)年に、有人動力飛行機を飛ばして成功した。これより約25年前、京都府知事の槙村正直は、島津製作所の初代源蔵に有人軽気球の製作を依頼している。槙村の狙いは明確だった。<府民の啓発のためにも、科学技術の宣伝のためにも、あるいは京都府民の意気発揚のためにも、これを完成して飛揚に成功させることほど好個の材料はなかったといえよう>(社史)

 一方、創業してまもない源蔵にしても、強い決意があった。<自分の一生を賭けた科学思想の啓発のためなら、なんとしても成功させなければならないとのパイオニア精神を激しく燃やした>(社史)

京都府知事として、初代島津源蔵に有人軽気球の製作を依頼した槙村正直=島津製作所提供 拡大
京都府知事として、初代島津源蔵に有人軽気球の製作を依頼した槙村正直=島津製作所提供

 そこで源蔵は、京都舎密(せいみ)局で学んだ知識の応用を考え、鉄くずに硫酸を注ぐと発生する水素ガスに目をつけた。気球を水素ガスで満たせば、容易に浮揚できるはずだが、最大の課題は球体の材料だった。

 源蔵は持ち前の探求心で、いろいろと試みる。<羽二重(絹織物)にダンマー(樹脂)ゴムを荏胡麻油(えごまゆ)でとかして塗ったものが気密性もよく、堅牢(けんろう)であり、なによりも軽量であることがわかった>(社史)。それでも、<普通の大人>を持ち上げるだけの浮揚力は望めず、搭乗者の条件は小柄で軽量の小男にかぎられた。源蔵は取引先の店員に、この大役を頼んだ。

 1877(明治10)年12月6日、京都・仙洞御所の広場には、人を乗せた気球が上がるのを見ようと、多くの老若男女が詰めかけた。京都府は各学校の教師や生徒に、軽気球の飛揚を見学するよう指示していた。

 大勢の観客に見守られるなかで、源蔵は最後の仕上げに余念がなかった。伏見の造り酒屋から買い入れた仕込み用の大樽(おおだる)を、会場の広場に据えた。水を満たした大樽は、洗浄槽として使う。続いて大樽の周りに、10個の4斗(約72リットル)樽を円形に並べる。それぞれの4斗樽と大樽は鉄パイプの配管で結ばれ、大樽の中央から太い鉄パイプが気球に導かれていた。社史は次のように説明している。

 <(4斗樽)そのおのおのの中に鉄くずをいれて希硫酸を注ぐ。水素ガスと同時に発生する硫化鉄と未化合の硫酸の蒸気は、導管によって中央の洗浄槽をくぐる間に洗い落とされて、水素ガスだけが気球に送られるしくみである>

 本球の飛揚に先立って、5色の紙製小球が飛んだ。午後になり、京都府知事の槙村が到着すると、いよいよ本球の飛揚となった。<御所にどよめきが起こり、人を乗せて軽気球は、およそ二十間(36メートル)の高さまで揚げられた>(「島津の源流」)。民間では、わが国初となる有人軽気球の飛揚は、搭乗した店員が無事に地上に降り立って、大成功をおさめた。

 <地元の新聞はもとより、東京朝野新聞も、一週間後の十二月十三日付記事で「軽気球飛揚の大景気 官民五万の老若が押合ひへし合ひ大浮れ」の見出しで壮観を報じている。(略)この行事の成功で、府の理科教育重点施策への傾斜は、益々その度合を増して行き、初代島津源蔵の名も、軽気球と共に揚がったのである>(「島津の源流」)

 科学知識の普及を通じて国家社会に貢献したい――初代源蔵の信念が揺らぐことはなかった。

(敬称略。構成と引用は島津製作所の社史<「島津の源流」を含む>による。次回は4月9日に掲載予定)

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