●手塚治虫家系図 | |
手塚良仙 | 医師、蘭方医/手塚良仙光照/二男四女の父/ 父・良仙光行の跡を継いで常陸府中藩医となり、江戸・小石川三百坂下で小児科・産科を開業していた。 |
手塚良仙 (手塚良庵) |
医師、蘭方医/手塚良仙光照の長男・手塚良仙光亨/手塚治虫曽祖父/ 当初、良庵を名乗る。文久2(1862)年、父の死にともない良仙を襲名/ 安政2(1855)年、大坂の適塾に入門。2年にわたりオランダ医学を学んだ後、江戸に帰り、父を助けて開業医としての生活に入った。 お玉ガ池種痘所の建設資金を拠出した83人衆の一人で、種痘所において江戸の子供たちに種痘を行い、医学所に入門を希望する医師の入門試験に立ち会った。 文久3年、歩兵屯所附属医師となったのち、医師取締介、同取締役に昇任した。 歩兵組が各地へ出動するに際しては、それに帯同して兵士の傷病の手当てに従事。 慶応2年(1866)、江戸市中に六ヶ所の種痘出張所が設けられた折には、自宅をその出張所として、界隈の子供たちに牛痘接種を施した。 幕府瓦解後は、一転して明治新政府に登用され、新たに創設された医学校に勤務、三等教授試補並産科掛を務めた。 その後、医学校をはなれ、明治4年には陸軍軍医官に転身して、陸軍一等軍医副(中尉相当官)に任じられた。 明治10年の西南戦争には軍医(大尉相当官)として、近衛歩兵第一連隊第二大隊付き医官で出征し、第二旅団中央小包帯所附となって傷病兵の治療に従事した。 しかし、戦火が既におさまった9月26日に発病、大阪城内にある陸軍臨時病院に転送されたが、手当ての甲斐なく、10月10日に43歳で死去。赤痢であった。 |
大槻俊斎 |
医師、お玉ガ池種痘所頭取、江戸三大蘭方医の一人/ 妻・海香は手塚良仙光照長女/ お玉ガ池種痘所の建設資金を拠出した83人衆の一人 |
大槻玄俊 | 医師、軍医官/大槻俊斎長男/ お玉ガ池種痘所の建設資金を拠出した83人衆の一人/ 維新後は陸軍に奉職し、累進して陸軍三等軍医になった。明治41年死去。 |
鮭延良節 | 医師/手塚良仙光照の次男/金沢藩医・鮭延秀庵義知に養子入り/ 妻は大槻俊斎の妹 |
鮭延良治 | 医師、軍医官/ 明治7年、緒方惟準(緒方洪庵二男)が陸軍軍医寮勤務のかたわら、東京・神田駿河台に開設していた適々斎塾に入門。 連隊付軍医官として、金沢・姫路・佐倉などの各連隊に勤務。 明治23年、一等軍医。明治33年に軍を辞めて東京市麹町区で開業した。 |
手塚良斎 | 医師/妻・秀は手塚良仙光照二女/ 旧姓名・内村政富、手塚家に婿養子入り/ お玉ガ池種痘所の建設資金を拠出した83人衆の一人 |
伊東玄晁 | 医師、永井肥前守の侍医/妻は手塚良仙光照三女/ お玉ガ池種痘所の建設資金を拠出した83人衆の一人 |
手塚良元 | 医師、常陸府中藩医/妻は手塚良仙光行の長女(良仙光照の妹)。婿養子 |
手塚良運 | 医師、常陸府中藩医/ |
太田良海 (太田道一) |
医師、伊予西条三万石城主・松平左京大夫の侍医/ 妹の夫が手塚良仙光照/ |
太田東海 | 医師/太田良海長男、本名・資啓/ お玉ガ池種痘所の建設資金を拠出した83人衆の一人/ 文政12年(1829)生まれ。15歳の時から父について医学の手ほどきを受けた。 嘉永2年11月には、父と同じく、大槻俊斎の門に入って、フーフェランドやモストの内科訳書、ホルンの産科訳書によって蘭医学をおさめ、安政4年8月に父のもとに帰って開業医生活に入った。 明治8年、腸チフスにより47歳で死去。 |
太田良海(よしみ) | 医師 |
濱田庄司 |
陶芸家/太田東海の外孫/ 弟は田辺和雄(植物学者)。妹の夫は大照円雄(天台宗僧侶)/ 長女の夫は、岡信孝[日本画家/川端龍子(りゅうし)の孫]。 昭和46年、次女・比佐が棟方巴里爾(俳優/棟方志功長男)と結婚。 媒酌人は劇団民芸・宇野重吉。棟方志功が浜田家に願って成立した結婚であった。/ 「民芸陶器」で人間国宝となり、のち文化勲章を受章。 浜田庄司 「私の履歴書 (文化人 7)」 |
服部英男 | 陸軍中将/娘・文子が手塚治虫の母 |
手塚太郎 |
長崎控訴院長、裁判官、関西大学創立者の一人/ 明治17年7月、司法省法学校を卒業し、検事や判事を歴任して、大正2年4月に長崎控訴院院長に就任した。 昭和7年、病没。勲一等に叙せられた。 |
手塚粲(ゆたか) | 住友金属社員(戦前)/ |
手塚治虫 |
漫画家、“漫画の神様”/本名・手塚治/ 手塚治虫 「ぼくはマンガ家」 |
手塚悦子 | 昭和34年、手塚治虫と結婚。元々、血の繋がりのない親戚ではあった。 (手塚治虫の伯母と、悦子の伯父が結婚していた。) 姉・栄子、兄・繁と同様、名付け親は手塚太郎であった/ 30年間にわたり、超売れっ子漫画家の妻として、手塚治虫を陰で支え続けた。一男二女の母。 「手塚治虫の知られざる天才人生」 (「夫・手塚治虫とともに―木洩れ日に生きる」の文庫版) |
手塚眞 |
ヴィジュアリスト(映像作家)/手塚治虫長男(第1子)、戸籍上の名は「真」 手塚眞 「父・手塚治虫の素顔」 「手塚治虫 知られざる天才の苦悩」 |
岡野玲子 | 漫画家/平成2年、手塚眞と結婚/ 岡野玲子 「陰陽師 (1)」 |
手塚るみ子 | プランニング・プロデューサー/手塚治虫長女(第2子) 手塚るみ子 「ゲゲゲの娘、レレレの娘、らららの娘」水木悦子、赤塚りえ子、手塚るみ子 「オサムシに伝えて」 |
手塚千以子(ちいこ) | 手塚治虫次女(第3子)/ 学生時代、立教大学劇団テアトルジュンヌに所属/ 『手塚氏の次女で、演劇やミュージカルの制作会社に勤務する千以子さん(29)が、11月21日、都内のホテルで挙式する。 お相手は、企業広報誌などの編集を手掛ける阿部隆二さん(25)。 二人は、立教大学のある学生劇団の先輩後輩として出会った。 「私が芝居に興味を持ったのは、やはり父の影響です。 父自身、子供の頃から宝塚歌劇や映画に親しんでいたし、若い頃は役者としても舞台に立ったこともあったんです。」 大学卒業後、一旦はコンピュータ・メーカーに就職したものの、千以子さんは芝居への想いを断ち切れず、演劇活動にも理解のある現在の会社に転職。 大学の仲間と劇団を旗揚げするなど、役者としての活動も続けてきた。 (「週刊新潮」1998年11/5号[結婚]より所々抜粋)』 |
岡田寛蔵 (岡田葭堂) |
俳人 |
岡田良之助 | 村長、郵便局長 |
岡田政司(まさし) | 裁判官、弁護士/早稲田大学法学部英法科卒/ 『父の政司は新潟県中魚沼郡中条村(現在の十日町市)で生まれました。 庄屋で代々村長を務めた家系で、本家は初代民選の新潟県知事を務めたこともあります。 が、父は分家筋で、村の郵便局長の末子として生まれました。 遠縁に富士山の姿ばかりを写す写真家の岡田紅陽がいます。 また、岡田家からは明治のはじめの南画家、岡田梅壑(ばいかく)、父の祖父である俳人の岡田葭堂が出たと、父の残した小冊子には書かれています。 (「手塚治虫の知られざる天才人生」手塚悦子/著 より所々抜粋)』 |
岸本綾夫 | 陸軍大将、東京市長(S17.8~19.7)、満州製鉄理事長/ 岡山藩士(剣術師範)・小学校長岸本美時の二男/ 妻・近江は手塚太郎三女(手塚粲の姉)、妹・速女(はやめ)が手塚悦子の母/ 二男・次郎は陸軍大尉 |
南部球吾 |
三菱合資管事・炭鉱部長、鉱山技師、工学博士/ 福井藩士・官吏南部広矛の二男。弟に裁判官・寺島小五郎(三男)、陸軍中将・横山彦六(四男)/ 妻・屋須は数学者・藤沢利喜太郎の妹 |
南部太郎 | 三菱合資長崎造船所技師(「人事興信録/大正7年」)/ 妻・志賀子は手塚太郎二女 |
(肩書き・役職の「元・前」は基本的に省略|人物解説リンク:/[名前で検索]) |
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