The Hollywood Reporter(2019年4月21日付)によると、ユナイテッド・アーチスツで社長を務めたデヴィッド・ピッカーさんが4月20日、ニューヨークの自宅で亡くなりました。87歳でした。

ピッカーさんは1931年ニューヨーク生まれ。1956年、ユナイトに入社し宣伝部門に配属。1962年、製作部門トップに。1969年には38歳の若さでユナイト社長に就任し、1972年に同社を去りました。

イアン・フレミングの原作ファンだったピッカーさんは、早くから007の映画化権取得に動いていたそうですが、タイミングが合わず結局はハリー・サルツマンが得ることに。

その後、パートナーとなる007映画製作・配給会社を求めていたサルツマンとカビー・ブロッコリがピッカーさんの在籍するユナイトを訪問。映画化の話を持ちかけられたユナイトの会長が、信頼するピッカーさんの意見を聞き入れた結果、ユナイト出資が決定しました。

1962年製作のシリーズ第1作『007/ドクター・ノオ』では、北米出身のプロデューサー・コンビは一時期アメリカ人を監督候補に交渉していたようですが、デヴィッド・ピッカーさんは映画の内容から判断しイギリス人監督を希望。

第7作『007/ダイヤモンドは永遠に』(1971)では、ブロッコリが新ジェームズ・ボンドにシリーズ初となるアメリカ人俳優ジョン・ギャヴィンと契約。しかしピッカー社長は反対し、降板済みだったショーン・コネリーが呼び戻されることになりました。