エムデン (軽巡洋艦・3代)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
艦歴
発注: 1921年にヴィルヘルムスハーフェンに発注
起工: 1921年12月8日
進水: 1925年1月7日
就役: 1925年10月25日
退役: 1945年4月26日
その後: 1945年5月3日自沈
除籍:
前級: ケルン級軽巡洋艦
次級: ケーニヒスベルク級軽巡洋艦
性能諸元
排水量: 基準:5,300トン
満載:6,990トン
全長: 155.1 m
水線長 150.5 m
全幅: 14.2 m
吃水: 基準:5.15 m
満載:5.93m
機関: 海軍型石炭専焼水管缶4基&同重油専焼水管缶6基
+ブラウン・ボベリー式ギヤードタービン2基2軸推進
最大出力: 45,900shp
最大速力: 29.5ノット(54.6 km/h)
航続性能: 18ノット/5,200海里
燃料: 石炭:875トン
重油:1,170トン
乗員: 483名[注釈 1]
兵装: 15cm(45口径)単装速射砲8基
8.8cm(45口径)単装高角砲3基
50cm連装魚雷発射管2基
装甲: 舷側:50mm(水線部)
主甲板:20mm(平坦部)40mm(傾斜部)
主砲防盾:20mm
司令塔:100mm(最厚部)

エムデン (Emden) は[注釈 2]ヴァイマル共和国軍が建造した巡洋艦で、同型艦はない[3]。 本艦は、第一次世界大戦後のドイツヴァイマル共和政)で最初に建造された軽巡洋艦であり[注釈 3]エムデンの名を持つ3隻目の艦である[注釈 4]

概要[編集]

本艦は自国の沿岸警備のために建造された軽巡洋艦である。実際には練習艦として運用され、世界各地を訪問した[9]。基本的な設計はドイツ帝国海軍時代のケルン級軽巡洋艦に採り[注釈 5]、戦訓に基づいた改正が行われた[11][12]。船体の建造には従来のリベット留めではなく、電気溶接を多用して軽量化している[注釈 6]。列強各国の軽巡洋艦と比較して特筆すべき性能はなかったが、世界大戦後のドイツ海軍技術発達の起点となったという意味で、意義深い軍艦である[11]

艦形[編集]

本艦の模型。

本型の船体形状は平甲板型船体となっており、艦首形状は前型のケルン級軽巡と同じクリッパー型艦首を備える[14]。排水量は5,000トン台となり大型化された。

連合国監視委員会の干渉により、本艦の武装には制限が加えられていた[11]。 艦の構造を前部から記述すると、全くシア(反り返り)の無い艦首甲板上に主砲の「15.2cm(45口径)速射砲」を防盾の付いた単装砲架で1基が配置され、その後方から上部構造物が始まり、波避けの後に2番主砲が1基配置された。 司令塔を下部に組み込んだ操舵艦橋の背後には、見張り所を持つ単脚式の前部マストが立つ。船体中央部に2本煙突が立つ。その周囲には艦載艇置き場となっており、艦載艇は2本1組のボート・ダビットが片舷2組で計4組により運用された。元甲板上の下の主甲板上に50cm連装魚雷発射管が片舷1基ずつ計2基が配置された。2番煙突の後方の甲板上に45口径8.8cm高角砲が2基配置された。 左右の舷側甲板上に15.2cm速射砲が防盾の付いた単装砲架で片舷2基ずつが配置された。後部甲板上に簡素な後部マストと後部見張所が設けられ、後向きに15.2cm速射砲が背負い式に2基が配置された。

後述する本艦と古鷹型重巡洋艦加古」との交換見学会が開かれた際、「エムデン」の図面の一部が日本側に提供された。

艦歴[編集]

第一次世界大戦後に成立したヴァイマル共和政において、ヴァイマル共和国軍が建造した軽巡洋艦である。「エムデン」は旧式巡洋艦ニオベ (SMS Niobe) の代艦として、ヴィルヘルムスハーフェン工廠で建造される[注釈 7]。1921年(大正10年)12月8日に起工され、1925年(大正14年)1月7日 に進水し、10月25日に就役した。ドイツ共和国海軍英語版ドイツ語版が運用した。初代艦長はリヒャルド・フェルスター大佐であった。

第二次世界大戦前は主に練習艦として使用され、1926年から1939年の間、大西洋、太平洋、地中海を幾度も航海した。1926年(大正15年)11月中旬にドイツを出発、東回りで遠洋航海が始まる[9]。1927年(昭和2年)5月、フェルスター艦長の指揮下で大日本帝国の各地を訪問した[16][17][注釈 8]。 5月24日から30日まで横浜港に滞在する[23]26日にはエムデン乗組員が横須賀を訪問し[17]、戦艦長門、重巡古鷹記念艦三笠を見学した[24][注釈 9]。 日本側関係者の観察では「三笠ガ最感動ヲ與ヘタリ」であったという[24]。また岡田啓介海軍大臣邸宅で開催されたエムデン乗組員歓迎会に鈴木貫太郎軍令部総長が出席するなど[26]、日本側は様々な歓待をおこなった[17][27]。後日、フェルスター艦長は海軍大将に昇進したあと引退し、ベルリン日本研究所日独協会の責任者を務めている[28]

1930年代に高角砲や機銃が増設された。1933年から34年に大規模改装をおこない、4基の石炭専燃缶を重油専燃缶に換装、魚雷装備の強化、マストや煙突の改修をおこなった。また、第二次世界大戦中には15cm砲を45口径砲から48口径C36単装砲へ換装、8.8cm高角砲を10.5cm高角砲へ換装、対空火器を増設するなどの改装が行われた。

1931年(昭和6年)6月下旬、「エムデン」は二度目の訪日をはたし、日本海軍関係者はドイツの造船技術に注目した[注釈 10]。 そこで「エムデン」と同時期に完成した古鷹型重巡洋艦加古[30][注釈 11]との交換見学会が開かれた[注釈 12]。 7月2日、海軍関係者10名は横浜港で「エムデン」に乗艦する[注釈 13]球磨型軽巡洋艦と同規模であるが余裕のある構造であり、防御に重点を置いているのではと推測している[34]。また「エムデン」は古鷹型の同時期竣工にもかかわらず、当時の日本では使われていなかった電気溶接を多用している事にも触れている[注釈 14]。日本側に『羨望の極み』と云わしめた点もあった[注釈 15]

ナチス権力掌握後再軍備宣言によりドイツ国防軍 (Wehrmacht) が成立、共和国海軍はドイツ海軍 (Kriegsmarine) となった。

1936年(昭和11年)10月10日、ドイツを出発、地中海を経由してインド洋に進出し、東回りで遠洋航海に出発する[37]1937年(昭和12年)1月にも再び来日(1月18日[38]。同年1月21日昭和天皇宮城鳳凰の間において[39]、当時のエムデン艦長ワルター・ローマン大佐および特命全権大使ヘルベルト・フォン ディルクセン等と謁見した[40][41]22日、エムデン艦長や士官および生徒は横須賀港に停泊中の戦艦山城を訪問[42]、艦内や相撲(武技実演)を見学した[43]

第二次世界大戦[編集]

「エムデン」は1939年(昭和14年)9月3日に機雷敷設任務を終え、機雷を積むためヴィルヘルムスハーフェンに戻っていたところ[44]、9月4日にイギリス軍のブリストル ブレニム爆撃機10機が来襲した[45]。4機が「エムデン」に対して爆弾を投下したが命中はしなかった[44]。しかし、被弾した爆撃機1機が「エムデン」に衝突した[44]。さらに、爆弾の破片でも被害が生じ、29名が死亡し、30名が負傷した[44]

1940年(昭和15年)4月のノルウェー侵攻作戦ヴェーザー演習作戦)にはオスロ攻撃部隊として参加、クメッツ提督指揮下の同部隊は重巡ブリュッヒャー (DKM, Blücher) が沈没、ポケット戦艦(重巡)リュッツオウ (DKM, Lützow) が潜水艦の雷撃で大破するなど、大損害を受けた(オスロフィヨルドの戦い)。その後はバルト海で主に練習艦として使われた。1944年(昭和19年)には対空兵装を強化した。1945年(昭和20年)1月、東プロイセンケーニヒスベルクソ連軍が迫った。同市のシーシャウ・ウェルケで入渠中だったエムデンは、ドイツ北部やデンマークへのドイツ軍兵士や市民の避難を手伝った。またタンネンブルク記念公園に埋葬されていたパウル・フォン・ヒンデンブルク大統領と妻ゲルトルード・フォン・ヒンデンブルグ英語版ドイツ語版の柩の西ドイツ移送にも協力した。

同年4月10日キール軍港で被爆し、14日座礁、26日に除籍。5月3日自沈した。

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 1927年5月の日本訪問時は候補生を含めて526名[1]
  2. ^ 巡洋艦エムデン(一九二五年七月七日進水)[2] 基準排水量五六〇〇噸、時速二九節。一九二五年十月十五日現役に就く。現在は前方の主檣は短小されてゐる。
  3. ^ 巡洋艦 "エムデン Emden"[4] 主要目{排水量5,400噸 速力29節 備砲15糎砲8門 8.8糎高角砲3門 魚雷發射管(50糎)4門 起工1921年12月 竣工1926年11月 建造所 ウイルヘルムスハーフェン海軍工廠}
    獨逸にとつて忘ることの出來ないエムデン號が、かうして新興獨逸の新市名を擔ふ第一艦として生れたのである。輕巡洋艦の多彩な任務を長短なく驗現するためには、速力の増加と航續力の増加といふ正反對の二つの條件を満足させなければならない。速力を増すために艦體をうんと細くし、艦上構築物は少く燃料は多く、しかもデイゼル重油機械を併用することによつてこの難間は見事に解決された。獨逸六隻の輕巡はみんな軍艦には珍らしい三推進器艦でその中央軸はデイゼル・ドライブになつてゐる。巡航速力にあつてデイゼル機關が如何に燃料の經濟になるか、第一世エムデン戰闘史が語つてゐる。前頁各艦の寫眞を併せよく注視して、細くとも各艦の装置を餘さず備へてゐる前檣を吟味していただきたい。
  4. ^ 初代はドレスデン級小型巡洋艦エムデン[5]、2代目はケーニヒスベルク級小型巡洋艦[6]エムデン英語版ドイツ語版[7]、3代目が本艦である[8]
  5. ^ ケルン級小型軽巡は10隻建造する計画だったが、2隻(ケルンドレスデン)しか完成しなかった[10]
  6. ^ 3.造船に應用せられし電氣鎔接の發達[13] 電氣鎔接の原理が發見されしは極めて古く約百年以前と稱せらるゝも、其後研究遅々として進まざりしが、偶々歐洲大戰に際し俄然工業界に於て勞力、材料、時間に對し極度の節約の必要に迫られ、其對策の一として電氣鎔接の發展著しきものあり。特に造船界に於て盛に應用せられ、早くも300噸乃至500噸の全鎔接船の出現を見たるも、其技術必ずしも信頼し難く、引續き各方面に電氣鎔接の研究益々進み、特に獨逸に於ては戰後造船材料の缺乏に悩み、熱心なる電氣鎔接の研究を試み、其結果戰後最初の巡洋艦エムデン號の船體に應用し、艦體重要に於て約1割の輕減を得たりと稱するに至り、愈々廣範圍に其成果を示し、世界造船界に異常の衝動を與へしは、其當時著しき事實なりき。其後工業各方面に於て電氣鎔接應用益々發展せしが、時恰もワシントンに於ける軍縮條約の締結を見、其必然の結果として一定制度噸籔の範圍内に於て可及的最大戰闘力を得んとする必要に迫られ、各國を通じて電氣鎔接の研究應用は刮目すべき發展を示せり。(以下略)
  7. ^ ニオベはユーゴスラビア海軍に売却されて「ダルマチア」と改名したあと[15]、数奇な運命を辿った。
  8. ^ スラウェシ島マカッサルを出発後、5月4日に長崎港着、同日発[18]。5月10日に宮島着、広島市を観光して11日出発[19]。5月13日清水港に寄港、23日発[20]。5月24日から30日まで横浜滞在後(乗組員は上陸して東京鎌倉など各地を観光、独逸学園訪問など)[17]、6月2日函館港[21]。6月7日、函館を出発してアラスカへむかう[22]
  9. ^ (海軍公報 第118号 昭和2年5月26日(木) p.7)[25]〔 ○艦船所在 ○五月二十六日午前十時調【横須賀】千早▲、筑摩▲、榛名▲、北上日進▲ 、阿蘇、山城、五十鈴、(旗艦)長門、鳳翔、(旗艦)金剛、(旗艦)加古、古鷹、(旗艦)磐手▲、淺間春日、(司令)野風、沼風、波風、驅一、(司令)灘風、島風、夕風、汐風、(司令)帆風、太刀風、羽風、秋風、(司令)▲、▲、三日月白露驅三一、(司令)、波一、波二、波九、波一〇、呂一二、呂一一、呂一三、(司令)呂五五、呂五四、呂五六、伊二一、伊二、(司令)呂二二、呂二一、呂二〇/(司令)掃一、掃二、掃三、掃四、神風初霜夕立夕暮如月武藏鳴戸富士松江大泊高崎、(加賀)、(妙高)、(伊五八)(以下略) 〕
  10. ^ 二.資料募集ノ件[29] 「エムデン」ハ大戦ノ経験ニ鑑ミ獨独特ノ造船技術ニヨリ建造セルモノニシテ兵器等ニ於テハ学ブ所尠ナカラシモ一般艤装電気通信器及大戦ノ教訓ヲ活用セル諸点等参考トスベキ点多カラルベシト認メラル依ッテ構内関係各部職員ニテ仝艦ヲ見学スルヲ有利ト認ム此ノ際我海軍ヨリハ加古ヲ交換的ニ見学セシメ可然、ソノ範囲ハ追テ各部ト協議決定ノコトト致シ度 
  11. ^ 軍艦「加古」は神戸川崎造船所で建造[31]、1922年(大正11年)11月17日起工、1925年(大正14年)4月10日進水、1926年(大正15年)7月20日竣工。
  12. ^ 「エムデン」見学ノ件覚[32] 六-六-三〇 (略) (イ)艤装一般特ニ居住施設(加古級ト比較) 
  13. ^ 昭和6年7月2日命により横濱在泊中の独逸巡洋艦「エムデン」を見学す[33]。本艦は練習艦として既に昭和2年我国に来航し今回を以て第2回目とす
  14. ^ (4)船殻[35] (略)工作法に関しては外観上特に注意を惹きたるものなし。唯本級の進水は1925年の一月にして我古鷹級と建造の期を同じくせるが当時我海軍に於て電気溶接を実際に応用することの未だ行はれざりしに反し彼に於ては後に述ぶるが如き要領にして相当広範囲に溶接を使用し居る点は独逸に於ける溶接技術の進歩と云ふ点に於て相当注目に値するものと思考す。
  15. ^ 所見[36] 航海兵器ハ我ガ海軍ニ比シ特ニ優レタルモノヲ見サルモ全部純国産ナルハ羨望ノ極ミナリ
  16. ^ ◎謁見 獨國海軍練習艦エムデン艦長海軍大佐ワルター、ローマン今般來航ニ付敬意ヲ表スルタメ同艦副長海軍少佐ベルンハルト、リーベタンツヲ從ヘ本邦駐箚同國特命全権大使ドクトル、ハーバート、フォン、ディルクゼン同伴同大使附海軍武官海軍大佐ウェンネカート共ニ昨二十一日午前十時天皇陛下ニ謁見仰付ケラレタリ(以下略)

出典[編集]

  1. ^ #エムデン来航件(昭和2年) pp.18-23(エムデン横浜滞在中の行事予定)
  2. ^ 世界海軍大写真帖 1935, p. 57.
  3. ^ 世界の艦船、近代巡洋艦史 2009, p. 124aドイツ/軽巡洋艦「エムデン」 EMDEN
  4. ^ ポケット海軍年鑑 1937, p. 167巡洋艦"エムデン Emden"
  5. ^ 世界の艦艇完全カタログ 2019, p. 86ドレスデ級小型巡洋艦
  6. ^ 世界の艦艇完全カタログ 2019, p. 94ケーニヒスベルク級小型巡洋艦(II)
  7. ^ 世界の艦船、近代巡洋艦史 2009, p. 42ドイツ/小型巡洋艦「ケーニヒスベルク」級 KÖNIGSBERG CLASS
  8. ^ 世界の艦艇完全カタログ 2019, p. 98aエムデン
  9. ^ a b #エムデン来航件(昭和2年) pp.39-41(独逸練習艦「エムデン」巡航予定表送附ノ件)
  10. ^ 世界の艦艇完全カタログ 2019, p. 95ケルン級小型巡洋艦
  11. ^ a b c 世界の艦船、近代巡洋艦史 2009, p. 124b.
  12. ^ 世界の艦船、近代巡洋艦史 2009, p. 43ドイツ/小型巡洋艦「ケルン」級 CÖLN CLASS
  13. ^ #近時造船進歩p.3
  14. ^ 世界の艦艇完全カタログ 2019, p. 98b.
  15. ^ 世界海軍大写真帖 1935, p. 68ユーゴスラヴィア/巡洋艦ダルマチヤ(一九〇〇年竣工)排水量二三七〇噸、時速二一節。一九二六年獨逸政府より購入。練習用に供せられてゐる。
  16. ^ #エムデン歓迎関係書(昭和2年) p.2〔 「エムデン」歓迎記事 一.寄港地 長崎、宮島、清水、横浜、函館(公報掲載)(以下略) 〕
  17. ^ a b c d #エムデン来航件(昭和2年) pp.27-30(神奈川県知事報告)(発、宛略)〔 獨逸軍艦出港ニ関スル件 独乙巡洋艦エムデン號當地入港ニ關シテハ客月二十五日本號既報ノ處仝艦ハ予定ノ通リ仝月三十日午前六時北海道函館ニ向ケ異状ナク出航セルカ當港在泊中ニ於ケル仝艦乗組員ノ行動ハ左記ノ通リニシテ大体既報日程ン如ク有並 〕
  18. ^ #エムデン来航件(昭和2年) pp.12-13(長崎県知事報告)
  19. ^ #エムデン来航件(昭和2年) pp.14-15(広島県知事報告)
  20. ^ #エムデン来航件(昭和2年) pp.16.38(静岡県知事報告)
  21. ^ #エムデン来航件(昭和2年) pp.26.32-37(北海道知事報告)
  22. ^ #エムデン来航件(昭和2年) p.31(北海道知事報告)
  23. ^ #エムデン来航件(昭和2年) p.17(横浜税関長報告)、同資料p.25(横浜税関長報告)
  24. ^ a b #エムデン歓迎関係書(昭和2年) pp.4-5
  25. ^ 昭和2年 海軍公報 上巻(防衛省防衛研究所)5月(3)」 アジア歴史資料センター Ref.C12070308900 
  26. ^ #エムデン繋泊(昭和2年) p.12
  27. ^ #エムデン歓迎関係書(昭和2年) pp.5-6
  28. ^ 独国特命海軍大将「リハルド、フェルスター」叙勲ノ件(国立公文書館)勲00858100 」 アジア歴史資料センター Ref.A10113310400 
  29. ^ #エムデン見学交換(1)p.13
  30. ^ 世界の艦船、近代巡洋艦史 2009, pp. 52–53日本/一等巡洋艦「古鷹」級 FURUTAKA CLASS
  31. ^ ポケット海軍年鑑 1937, p. 33一等巡洋艦"加古 かこ"
  32. ^ #エムデン見学交換(2)p.3
  33. ^ #エムデン見学交換(3) p.32
  34. ^ #エムデン見学交換(3) p.38〔 4.所見及見学事項 (1)一般所見 〕
  35. ^ #エムデン見学交換(4) p.2
  36. ^ #エムデン見学交換(3) p.29
  37. ^ #S12、エムデン艦長叙勲 pp.2-3
  38. ^ 昭和12年 海軍公報(防衛省防衛研究所)1月(1)、海軍公報 第2955号 昭和12年1月18日(月) pp.43-47 ○艦船所在」 アジア歴史資料センター Ref.C12070362300 
  39. ^ 外務省報 第二十二巻(外・報22)(外務省外交史料館)外務省報第三百六十四号(昭和十二年二月一日)/宮廷記事 」 アジア歴史資料センター Ref.B13091780800 
  40. ^ #昭和天皇実録七巻271頁『(昭和十二年一月)二十一日 木曜日』
  41. ^ 昭和12年1月22日官報3014号。国立国会図書館デジタルコレクション コマ4[注釈 16]
  42. ^ 昭和12年 海軍公報(防衛省防衛研究所)1月(2)、海軍公報 第2959号 昭和12年1月22日(金) pp.8-9 ○艦船所在○一月二十二日午前十時調【横須賀】 」 アジア歴史資料センター Ref.C12070362400 
  43. ^ #S12、山城第38号 pp.1-2(獨國練習艦「ヱムデン」乗組士官及生徒見學ノ件報告)
  44. ^ a b c d German Cruisers of World War Two, p.76
  45. ^ German Light Cruisers of World War II, p.45

参考文献[編集]

  • 宮内庁 編『昭和天皇実録 第七 昭和十一年至昭和十四年』東京書籍株式会社、2016年3月。ISBN 978-4-487-74407-7 
  • (監修)毒島刀也、(著者)門田充弘、神奈川憲、小高正稔、後藤仁、谷井成章、山崎龍『COSMIC BOOK 世界の艦艇完全カタログ 第一次世界大戦から現代までの全1249種』株式会社コズミック出版〈ミリタリーシリーズ〉、2019年7月。ISBN 978-4-7747-8657-5 
  • 「世界の艦船増刊 ドイツ巡洋艦史」(海人社)
  • 編集人 木津徹、発行人 石渡長門「<第2部> 条約時代の巡洋艦」『世界の艦船 2010.No.718 近代巡洋艦史』株式会社海人社〈2010年1月号増刊(通算第718号)〉、2009年12月。 
  • Gerhard Koop, Klaus-Peter Schmolke, German Light Cruisers of World War II, Naval Institute Press/Greenhill Books, 2002, ISBN 1-55750-310-9/1-85367-485-0
  • M. J. Whitley, German Cruisers of World War Two, Naval Institute Press, 1985, ISBN 0-87021-217-6
  • アジア歴史資料センター(公式)(防衛省防衛研究所)
    • 『勲00803100(国立公文書館)独国練習艦「エムデン」艦長海軍大佐「ワルター、ローマン」外一名叙勲ノ件』。Ref.A10113223700。 
    • 『公文備考 艦船3巻32(防衛省防衛研究所)独逸練習艦「エムデン」号本邦来航に関する件』。Ref.C04015610300。 
    • 『公文備考 艦船3巻32(防衛省防衛研究所)独逸練習艦「エムデン」乗員に無償乗車証発給に関する件』。Ref.C04015610400。 
    • 『公文備考 艦船3巻32(防衛省防衛研究所)独逸練習艦「エムデン」乗員歓迎に関する件』。Ref.C04015610500。 
    • 『公文備考 艦船3巻32(防衛省防衛研究所)独逸練習艦「エムデン」の繋泊に関する件』。Ref.C04015610600。 
    • 『公文備考 艦船4巻33(防衛省防衛研究所)独逸練習艦「エムデン」歓迎関係書』。Ref.C04015613500。 
    • 『公文備考 雑件2巻134(防衛省防衛研究所)機密第395番電独国海軍武官見学の件』。Ref.C04015984800。 
    • 『軍務1機密第159号 昭和6.5.23外国軍艦(独逸巡洋艦)「エムデン」見学交換に関する件(1)』。Ref.C05021558600。 
    • 『軍務1機密第159号 昭和6.5.23外国軍艦(独逸巡洋艦)「エムデン」見学交換に関する件(2)』。Ref.C05021558700。 
    • 『軍務1機密第159号 昭和6.5.23外国軍艦(独逸巡洋艦)「エムデン」見学交換に関する件(3)』。Ref.C05021558800。 
    • 『軍務1機密第159号 昭和6.5.23外国軍艦(独逸巡洋艦)「エムデン」見学交換に関する件(4)』。Ref.C05021558900。 
    • 『軍務1機密第159号 昭和6.5.23外国軍艦(独逸巡洋艦)「エムデン」見学交換に関する件(5)』。Ref.C05021559000。 
    • 『公文備考 昭和12年D 外事 巻7(防衛省防衛研究所)山城第38号12.1.25独国練習艦ヱムデン乗組士官及生徒見学の件』。Ref.C05110696100。 
    • 『公文備考昭和12年Q通信、交通、気象時巻1-1(防衛省防衛研究所)12.1.22対独逸練習艦「エムデン」無線通信状況』。Ref.C06092463600。 

関連項目[編集]

外部リンク[編集]